2009年11月29日日曜日

髙村聡子さんのサロンコンサート

ソプラノ歌手の髙村聡子さんの
サロンコンサートに足を運びました
髙村さんは、8年間に及ぶイタリア留学を終え
今年の春に帰国されたということです

演奏が始まって、ピアノ伴奏のすばらしさに
まず驚きました。ピアニストは阪田みゆき さん
ピアノ・ソロではショパンとドビュッシーの曲が
披露されましたが、それもすばらしかった
ドビュッシーの曲を聴いていると
道中に目にした紅葉した丹波の山々が
心の中に巡り、サラサラと水の流れるような
旋律の美しさと山々の色の流れが重なり
えも言えぬ心持になったのです


髙村さんの歌声も美しい密度で
伸びやかに耳に届きます
サロンコンサートならではの
贅沢なひと時でした




道中の丹波の山は見事な紅葉でした・・


2009年11月14日土曜日

19世紀ギター・フェスティバル

今日は滋賀県大津市にある
おかげさまで、盛況の内に終えることができました
スタッフの皆様に、この場にてお礼申し上げます


二階の展示会場の様子

私の展示コーナーです

徳島県や石川県から来て下さった方も
いらっしゃいました
また、関東を拠点に活動されている
メンバーの方も来場下さり
今後の交流が期待されるところです

これはギタリスト松田晃明氏による
弾き比べの出番を待つ現代製作家による楽器
左から兵庫県の黒田義正氏作によるミルクール・タイプ
拙作の
ラプレヴォット・タイプ
名古屋の大西達郎氏作のウィーン・シュタウファー・タイプ
兵庫県の古楽器製作家
平山照明氏作によるパノルモ・タイプ

こちらの3台は19世紀オリジナルの名器です
左からフランスの楽器産地ミルクールで作られたもの
イタリア出身の父を持ちイギリスで製作していた
ルイ・パノルモ
フランスの製作家ラプレヴォット

今回の催しの様子は製作家の黒田氏のHPでも
速報として紹介されています

二部の演奏部門では
独自に開発された箱型ハープ(マリア・ハープ)
ギターによるアンサンブルも披露され
新鮮な響きに熱い注目を浴びていました
ギターを弾いているのは
マリア・ハープを製作された平山照明
弾いているギターも二階に展示されている氏の作品です
その左はマリア・ハープ開発者のマリア味記子さん

2009年11月12日木曜日

「古代の製鉄」続き その6

「古代の製鉄」の著者は、播磨(はりま)地方に散見される兵主(ひょうず)神社はアメノヒボコと関わりがあるとしていますが、その説に疑問を投げかけている研究者もいます。兵主神社はアメノヒボコの本拠地である但馬(たじま)に多くあるので、アメノヒボコと結び付けたくなるのは当然ですが、前回述べたようにアメノヒボコを受け入れなかった播磨国に兵主神社が存在する以上、無理があります。では、この兵主神とはいったいどんな神かということになるわけですが、その名を冠した神社が但馬に多く存在し、アメノヒボコと関わりがないすれば、それ以前からの鉄の神だったということになります。このことに関して、日本の古代祭祀の研究者である真弓常忠氏は、幕末の国学者である小山田與清説を見直す必要があるのではないかとしているのです。與清は「史記」の封禅書に記されている「兵主(神)は蚩尤(しゆう)を祀る、蚩尤は東平陸監に在り、斉の西境なり」という一節から、
兵主神は中国の武神である蚩尤であるとしているのです。「五帝本紀」では蚩尤は最も乱暴な武士で、鉄沙をもって兵器を作り、黄帝軍をさんざん悩ました、と記述されているほどですから、武神でもあり、鉄の神とされたのは当然かもしれません。
「穴師anase兵主神の源流」の
著者、皆神山すさ氏は
蚩尤はシュメール語のシムグが
源であるとし、朝鮮では朱蒙
であるとしています。

Wikipediaから引用

兵主神社がある所は、銅鐸の発見場所と重なることも見落としてはならないように思えますが、そうすると
サルタヒコとの繋がりもでてくるということになります。
また、河童・カッパのことをヒョウスベとも言いますが、これも兵主(ヒョウズ)から派生した言葉だとし、湖沼鉄と関連付ける説もあります。
真弓常忠氏は、兵主はヘシ、あるいはベシとも通じ、その言葉が東南アジアの鉄を意味する語である以上、兵主神は南方系海洋民によって運ばれ中国にも渡ったのではないかと推察されるのです。ということは、アメノヒボコ以前の古代但馬には、サルタヒコかニギハヤヒ勢力が居を構えていたということになり、但馬からは銅鐸が多く出土しているので、サルタヒコ集団の可能性が大きいということになります。


上に紹介した蚩尤は異様な容貌をしていますが、先代旧事本紀には
人皇・天皇の容貌が書かれていて、
初代天皇の神武天皇は身長が3m以上あり、頭に9cmほどの角があり長い尾も生えている。
また、二代目の綏靖suizei天皇には背中にウロコがあり、怒ると逆立つ。
七代目孝霊天皇は顔が長く龍のようで耳は逆立ち、その耳の後ろに白い鱗(うろこ)がある。また、胸にも9枚の鱗があり、
その九つの隙間から気を放っている。
十代崇神天皇は身長は1m90cm
額に10cmほどの青い角が1本ある。
下アゴの歯は長く鋭く上アゴの歯は短く丸く舌は長く鼻にまで届く。
十一代垂仁天皇は身長1m80cm。髪は右曲がりに頭を9周するように生え、頭頂部で輪のように巻いている。
また、両脇の下には金と緑の羽を持ち、肘にも同じような羽が根ざしていた。
とあります。

人皇16代・応神天皇の容貌。身長3mほど、目は弓を張ったような形、胸に72本の牛の尾のような青毛があり、長さは馬の尾の如し、とあります。

人皇17代・仁徳天皇の容貌。身長2.7m、耳は眉の上あたりから口の下に垂れ、足の指は長く手の指の如し。
これらの記述を見ると蚩尤や神武天皇などはレプタリアン系の
宇宙人のようにも思えます。
以上のことは古事記や日本書紀には書かれていませんが、不思議なことにサルタヒコの容貌は日本書紀に「鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いている」と記されています。
この記述は先代旧事本紀のサルタヒコの記述とほぼ同様なのです。
これはいったいどういうことでしょうか・・

2009年11月10日火曜日

玉響・たまゆら

他のものが見たいという
要望が寄せられましたので
4日のものも含めて大き目の画像をUPしておきます









「古代の製鉄」続き その5

播磨国風土記・揖保郡(いぼのこおり)の条では、「韓国(からくに・朝鮮半島)からやって来た天日槍が揖保川(いぼがわ)に至ったとき、葦原志拳乎(あしはらしこお:大国主命)に土地を譲ってほしいと願い出た。葦原志拳乎は取りあえず海にとどまるように言うと、天日槍は海面を勢いよくかき混ぜたので、葦原志拳乎は恐れた」と記されています。
また同じく播磨国風土記・宍禾郡(しそうのこおり)の条では、「葦原志拳乎と天日槍が一つの谷の領有権を争った」とあります。同じく播磨国風土記・神前郡(かんざきのこおり)の条でも「出雲神(いずものかみ=大国主命)と天日槍が争った」と記されています。
これらのことから、当時兵庫県の南西部は出雲国の勢力圏だったことが判ります。しかも最新の製鉄技術を持っているとされるアメノヒボコ集団と争って、それを退けているのですから、出雲国はかなり強大な国だったということも想像できます。
これまで、機会があるごとに播磨地方の地方誌に目を通してきましたが、今のところ、播磨地域の神社の祭神としてアメノヒボコが祀られているところは見当たりません。
刃物の産地として栄えてきた三木市のものも先日見せてもらいましたが、サルタヒコが祀られている神社は数社ありましたが、アメノヒボコが祭神となっている神社は見当たりませんでした。




2009年11月5日木曜日

青山文庫と香道資料

篠山鳳鳴高校内にある青山記念文庫の閲覧に行ってきました。知人の知り合いに香道を教えている人がいて、その人から、青山記念文庫には香道に関する貴重な資料が保管されているので、ぜひそれを見たいと頼まれたということで、こちらに問い合わせがあったのです。
ところが、こちらは恥ずかしながらそういう事は全く知らなかったのです。それで、どんなものか知っておく必要を感じ足を運んだのでありました。
鳳鳴高校内に備えられている書庫は、大型金庫のような扉が取り付けられ、空調のよく効いた立派なものでした。所蔵品の目録も備えられていたので、それを手がかりに
香道に関する資料というものをなんとか探し出しましたが、一箱にまとめて納められたその資料は、和綴じ本で47冊ほどありました。すべてに目を通すことはできませんでしたが、その中で私が興味深かったのは、香道でも歌合(うたあわせ)のように香合(こうあわせ)をやっていたということです。以前、こちらのHPで琵琶合のことを紹介したことがありますが、それと同じことを香道でもやっていたのですね。
これは知りませんでした。
また、源氏香というもの(参照)では、五種類の香が用いられるようですが、これは日本刀の鑑賞で入札鑑定をする場合に五振りの刀が用いられるのと共通していて(参照)、
興味深く感じたのでありました。これは中国の陰陽五行説の影響だと思われますが、下に紹介した本でも中国風の挿絵が随所に見られます。
それだけ、当時幕府が推奨していた儒教の影響が大きかったのだと思いますが、それに警鐘を鳴らしたのが本居宣長だったのであります(参照・九段目)。

参考までに、これは私が所蔵している江戸時代中頃に出版された和綴じ本から引用したものです。この挿絵は、女性のたしなみとして必要な女十芸の内の一つ、「香をきく(鼻偏に香)」という説明図です。この本は明和九年(1772年)に京都で出版されたもので、香道が流行していた当時、裕福な町人の女性のたしなみの一つに入れられるほどだったようです。
因みに他の九つには、「女の道を学ぶ」、「糸を紡ぐ」、
「織りと縫物」、「手習い(習字)と文を読むこと」、
「味(あじわい)を調う(ととのう)こと」、「秤目とそろばん」、
「歌(和歌)を詠む」、「琴を弾(しらぶる)」、そして「双六(すごろく)を打つ」とあります。




最後に同書に載せられている
源氏香の柄の着物を紹介しておきます

この柄の着物は現在でもあるということです


2009年11月4日水曜日

鉋、鉋、鉋

今日は鉋使いの名手
木工作家の徳永順男氏の工房で
研ぎと鉋使いの交流を行いました


鉋刃を研ぐ徳永さん
この両膝を着いた研ぎ姿勢と
手を濡らさず、少量の水で研ぐための研ぎ場セットは
大原氏の考案によるものです
右側にある水桶の水をブラシで砥石に付け
研ぎ汁もこのブラシで洗い流します

大原氏が写真を撮ると
このように玉響(たまゆら・オーブ)が
多量に出現しました・・
5枚ほど撮影されていたのですが
すべてにこのように多量に現れていたのです