2009年12月29日火曜日

古代の製鉄 その11

兵庫県西脇市にある
天目一(あめのまひとつ)神社に
足を運びました

天目一はこれまで述べてきた
天目一箇と同義ですから
以下このように書き表します

社伝によると、この神社は
元々ここにあったのではなく
大正時代に、有識者による判断で
この地に建てられた
ということですですが
この地域に天目一箇神社が
あったのは
延喜式内社として
記録されているので
間違いはなさそうです 参照

石碑に併記されている平野神社は
この地の鎮守だったので
合祀したということです

たいへん立派な社殿が
建てられています

建物の装飾に
このように象を神像化
したものが付けられています
このような例は
ここ丹波地方の神社でも
よく見られます

たとえば、これは
篠山川沿い(篠山市)の
とある八幡(はちまん)神社ですが

この社殿にも同じ装飾が
施されています

社殿の脇にはこのような
レリーフも見られます
これは明らかにインドの
影響だと思われます

因みにこれは
古代インド(紀元前3世紀頃)
の建造物の柱の装飾ですが
よく似たモチーフが
用いられています

この神社の社殿には
このような鳥も
付けられています
一見ウズラのようにも
見えますが
八幡神社なので
鳩(はと)だと思われます

以前、地元の人に
なぜこのように象の装飾や
ハトが付けられているのか
尋ねたことがありますが
何故だか知らないということでした
このような例は以前、随想で紹介したことがありますが
参照(七段目)

地元の人たちは
昔からの言い伝えで
やっているだけ、という風習に
以外に古くから伝わっていることがあるのです
他には、例えば篠山の
ある地域では
葬式の出棺の際に
亡くなった人が使っていた
茶碗を割るという風習がありますが
このようなことは丹波地域では
弥生時代から行われていたことが
分かっています

2009年12月25日金曜日

丸尾山砥石恐るべし

久しぶりに砥取家さんを訪れました
国道372号線が亀岡市に入って間もなく
左折し、北東に進むと丸尾山が見えてきます
工房からは車で30分ほどで行けます

このあたり一帯はあちこちに砥石山があり
優れた砥石として知られている神前産(こうざき)の砥石山もこのすぐ近くにあります(神前産の砥石は、現在は掘られていません)
また、優れた中砥である丹波青砥も、ここから
ほど遠くない所で採掘されているのです


砥取家さんのすぐ近くには
このように杉の大木が聳えていて
大内神社があります
まずここで挨拶をし、砥取家さんに向かいます


掘り出してきた原石を加工する作業所の脇に
試し研ぎのための砥石が所狭しと並べられています


今回は、強靭な特殊鋼の鉋(かんな)を研ぐための
中継ぎ用の仕上げ砥石を探しにきました
23日に述べたように
硬めで力のあるものはないかと
あれこれと試させてもらいました


そして、2枚の仕上げ砥石を手に入れました
これはそのうちの1枚で、丸尾山の
八枚層のものだそうです
23日に紹介した産地不明の優れた砥石
よく似た反応を示してくれました

この砥石は緻密で透明感があり
大理石のように見えます。砥石は見ただけでは判らない
典型のようなものでした。筋は全く当たりません


研磨力も申し分なく、1分ほどで
中砥の#1500の傷をほぼ消すことができました
私はこの後鏡面仕上げをしますが
このままでも充分使えます



そして、これは御主人もいつのものか判らない
というほど古い仕上げ砥石で
四代続いている砥石採掘の御先祖の
誰かが掘ったものだろうということです
採れた山は丸尾山ではないということです
このような砥石は、これまで見たことがありません


裏と側の様子ですが
側は今のように機械で挽いたものではなく
手鋸で挽いたものだそうです

これは上の八枚層のものより硬い砥石ですがよく反応し
強い研磨力があります


これも1分ほどで中砥の傷を消すことができました
申し分なしの仕上がりです


刃先の拡大写真


2009年12月23日水曜日

驚異の砥石 謎の仕上砥


但馬(たじま・兵庫県北部)で長年使われていた
砥石をいただきました

まず、この仕上げ砥石を紹介しようと思いますが
試し研ぎをしてその力強さに驚きました
このような砥当たりのものには
初めてお目にかかりました
これを持ってきて下さった方の話によると
京都の北部で採れた砥石だと聞いたと
いうことでしたが、産地はどこなのでしょうか・・
これに似た色合いのものを何点か持っていますが
どれも違う研ぎ味なのです・・
強いて挙げれば滋賀県高島産のものが似ていますが
高島産の砥石はかなりの数使ったことがありますが
このような反応のものは知りません
硬めですが、強靭な特殊鋼の鉋刃でも
ザクザクと力強く研ぎ上げてくれるのです
ちょうど今、このような砥石が欲しいと思っていた
ところなので、たいへん驚いています
25日に、砥取家さんに行くことにしていますが
そこでも、このようなものを探すつもりだったのです


この画像では刃先が使い減ったままで試し研ぎを
したので、刃先は仕上がっていませんが
ほぼ鏡面に研ぎ上がり、地鉄(じがね)肌が美しく現れます


割れている個所を接着し、台に付けました
長年使い込まれて、厚みは8mmほど
まで減っています。それでも、硬い砥石なので
この先頻繁に使っても10年以上は使えるでしょう
大切に使わせていただきます



それから、もう一つ紹介します
画像左のもので、中砥の但馬砥です
これは本来の但馬砥と思われ
諸寄砥とも呼ばれていたものだと思います
右のものも同じ方から以前いただいた但馬砥ですが
色合いが違います
右のものは近年掘られているもので
諸寄以外の但馬地域、兵庫県豊岡市内各地で 
掘られているもののようです

さて、上の画像左の但馬砥は
持ってきて下さった方の話によると
その方の御尊父が数十年前に40年以上
使ってこられたものだということです
ですから、これは文字どうり
本物の但馬砥(諸寄産)と思われます
30年ほど前に、この砥石は幻の砥石と
言われていたものです・・
私が、兵庫県に越してきたときも
この砥石を求めてあちこち尋ね歩いたのですが
結局いいものに出会うことはできませんでした
それが、このようなかたちで出会うことができ
いま、不思議な感慨に浸っているのです・・


これは特殊鋼の鉋刃を研いだものです
すばらしい反応で、近年掘られているものよりも
強い研磨力があります


これは但馬砥独特の研ぎあがりですね

2009年12月22日火曜日

古代の製鉄 その10



分銅型土製品は岡山県を中心に西日本一帯で出土しているということですが、播磨地域ではこれまで56点ほど確認されています(参照)。これも用途はよく判っていないようですが、群馬県の古墳時代の埴輪に、よく似たものを頭に付けたものがあります(参照)。
古代インダス(インド)の遺跡からも、よく似たものを頭に付けた土製の人物像が出土していますが、日本で出土する分銅型土製品と同様の形状のものが、インドのガンジス川流域のガンガー文化の青銅製の呪具に存在しています。ですから、日本の埴輪とインダス文明の土製人物像のものとは同じ目的で頭に付けられていたと思われます。このことから、分銅型土製品のルーツはガンガー文化にあると佐藤矩康氏は指摘されているのです。氏によると、ドルメンも同じ伝播ルートを辿っているということです。ということは、天目一箇神と猿田彦は同じ系統の民族と云えそうです。共通項はどちらも青銅製品を作ることを専門にしているということが云えます。そういえば、18日に触れた(参照)千種地方の岩野辺(いわなべ)という所では銅鐸の破片が出土しています。
先に、分銅型土製品のルーツはガンガー文化にあると述べましたが、時代は紀元前1000年頃ということです。世界史では、この頃はソロモン王がタルシン船団を組んで中国大陸にまで至っているとされていますが、その文化は当然後に日本にも入ってきています。たとえば天照大御神や伊勢神宮がそうです。この西アジアが起源のフェニキア文化と先のインドのガンガー文化との関係にも興味が湧きます。





2009年12月21日月曜日

古代の製鉄 その9

佐藤矩康氏の説については、以前、HPの随想で少し触れたことがありますが(参照・この頁の最後の段)、古代インドのモヘンジョダロ遺跡(インダス文明)から出土している、神官像とされているものに注目されています。この人物像の、額に結び付けられている円盤状のものと同様のものを付けていたと思われる頭蓋骨が、島根県(出雲)の弥生時代初期の遺跡から6体発見されているのです(参照)。
同様の頭蓋骨は鹿児島県の種子島の遺跡(弥生時代中期)からも出土しています。
佐藤矩康氏は、この、額に青銅製の円盤状のものを付けた特殊な人物を、往時の人々は象徴的に一つ目と称したのではないかとするのです。つまりこの特殊な人物は、当時の最先端技術である金属加工をする人物だったのではないかとし、これが天目一箇神の由来ではないかと推察されているのです。これは説得力があります。
弥生時代の日本列島にインドから移住者が渡ってきたという説は、これも先ほど紹介したこちらのHPの随想で触れたことですが(参照)、その証拠となるようなものも兵庫県から出土しているのです。その一つが
手焙り形土器と云われるものです。これは弥生時代から古墳時代の遺跡から出土しているもので、用途は不明とされていますが、1980年代に加治木義博氏が、これと同形のものがインドでは金属加工をする際に現在でも使われていると指摘しているのです。



 河出書房刊「古代インド」から部分転載



保育社刊「日本人のルーツ」から部分転載
上の二枚がその写真ですが
明らかに手焙り形土器と同じ形状です


この土器は播磨から東に位置する
同じ兵庫県内にある
三田(さんだ)市三輪・宮ノ越遺跡
から出土したものです
これと同様のものが播磨地域でも
出土しているのです(参照
参照サイトには、ここ丹波篠山でも
3点出土していると記載されています


それからもう一つ、これも播磨地域で
出土している分銅形土製品
佐藤矩康氏は重要視しています

2009年12月20日日曜日

クリスマス・コンサート

兵庫県伊丹市の喫茶店で
クリスマス・コンサートを企画して頂きました
喫茶店の名は、まさに関西!と言える
「しゃべりば」
平仮名で書き表すところに
オーナーのこだわりを感じます

主役はフルート奏者の大和賛(あきら)さん
芳醇で大らかな賛さんのフルートの音色はたいへん魅力的です
熱心に耳を傾けてくれるお客様のおかげで
充実した時間が流れていました

拙作の楽器 を紹介するコーナーも設けさせてもらいました
こうして、一般の方々にギターのことを
知ってもらうことは、とても大切なことだと思うので
地道ではありますが機会があるごとに
続けさせてもらっています

7年ほど前に、こういうことはもうやめにして
これからは製作に専念しようと決心したのですが
声がかかると、ついOKしてしまうのです・・

今回企画して下さったのは
伊丹在住の福崎さん御夫妻
福崎さんとは平成元年に私が関西に
越してきた頃からの付き合いですが
地元の伊丹市で、個人による
コンサートの企画を年に数回行われていて
「午後のリラックス・コンサート」と題して
これまで25年間続けてこられているのです
これには全く頭が下がります

2009年12月18日金曜日

古代の製鉄 その8

古来から、千種鉄ちくさてつという優れた鉄を産することで有名な播磨国(兵庫県西部)の千種地方では、製鉄の神である金屋子神かなやごのかみと、鍛冶の神である天目一箇神あまのまひとつのかみが祀られています(参照)。
ここで興味深いのは、金屋子神は神社に祀られているのに対して、天目一箇神は主に鍛冶職人の仕事場に祀られているということです。古語拾遺では、天目一箇神(又は命)は天地開闢かいびゃく後間もなく天太玉命あまのふとたまのみことに率いられてきた筑紫(福岡県)と伊勢(三重県)の忌部いむべの祖とされています。ということは天太玉命に従って日本列島に渡ってきた人物ということになります。そして、天太玉命の命令により種々の刀や斧、それから鉄製の鐸サナキを作っています。
また、古語拾遺では後の時代(崇神天皇の世)に天目一箇神の子孫に三種の神器の一つである天叢雲剣あまのむらくものつるぎの複製を作らせたとありますが、先にリンクをさせてもらったサイトでは天地開闢後に天太玉命に従ってきたということも、天叢雲剣の複製のことも記述されていません。何故でしょうか・・。
それはさておいて、では天目一箇命が従ってきた天太玉命はどこから日本に渡ってきたのかということですが、このことについては佐藤矩康氏による説が有力と思われます。

五鈴鏡


2009年12月11日金曜日

彦根城博物館所蔵の琵琶

平曲語りの
鈴木まどかさんから
彦根城博物館で、所蔵の
琵琶の展示が
行われているとの
知らせを受け
早速足を運びました
来春に平家琵琶
製作するので
その参考のためにもぜひ見ておきたかったのです

滋賀県には何度も
足を運んでいますが
彦根城は初めてです
幕末、安政の大獄の後、
江戸城桜田門外で
暗殺された井伊直弼は
ここ彦根藩の
十三代藩主だった
ということです

広い城内の一角に
博物館が建てられています

博物館入口の大きな
掲示板に雨に打たれて
散ったモミジの葉が
付いていました
最初見たときには
こういうデザインなのか
思ったほどです・・

今回の展示では
所蔵の琵琶29面のうち
楽琵琶と平家琵琶
合せて9面
中国琵琶が1面
展示されていました
琵琶についての解説は
鈴木まどかさんのブログを参照ください


私が重点的に見たのは
各琵琶の覆手の位置と
その肉付けの具合です

琵琶の他に、芸術に
多大な尽力をした
井伊家代々のコレクションも展示されていました
これは刀のコーナー 三振りだけでしたが
日本の代表的な
名刀ですから
ワタクシメでも一目で
時代と作者は判りました
中央は新刀(江戸時代初期)の肥前・忠吉(ただよし)
両側は鎌倉時代中頃
(古刀)の備前・一文字(いちもんじ)
右は鎌倉時代には

あり得ない姿ですが
大磨り上げが為されています
(以前より短くなっている)

2009年12月10日木曜日

驚異の霊芝

デ、デカイ!
とにかくデカイ!

こうして空に聳えさすに値する存在感!
見るだけで元気が出てきます!
全長30cm!傘の直径は31cm!
デカイ!




サルノコシカケ科の霊芝(れいし)
中でもこれは珍品中の珍品と言われる
黒霊芝さまであります
カエデの木の根に付くということですが
これだけ大きな霊芝が付いていた木も
かなりの大木であったでしょう

このお方は、他の霊芝のように栽培が
できないのだそうです
これを煎じた薬は、古代中国では
皇帝しか飲めなかったということです





これは、とある旧家に保管されていたもので
かなり古そうであります
茎の付け根のところに釘が見えます





霊芝が取り込んだものか
誰かが刺したものかは不明




この釘もかなり古そうですね
断面が四角いので和釘と思われます
そうすると、明治時代以前のものか・・
参照

2009年12月7日月曜日

古代の製鉄 その7

古来から製鉄あるいは鍛冶を行う人々が信仰の対象としてきた神に、前回紹介した兵主神(ひょうずのかみ)の他に天目一箇神(あまのまひとつのかみ)」と「金屋子神(かなやごのかみ)」があります。古来から優れた砂鉄が採れることで有名な、播磨西部(兵庫県)千種(ちくさ)地方では、金屋子神は「カナイゴサン」と呼んでいたそうです。これは、古来から朱の原料である朱砂が採れる地域にある丹生(にう)神社を、播磨地方では「タンジョウサン」と親しみを持って呼んでいるのと同様の呼称だと思われるのですが、それだけ地元の人たちにとっては身近なものだったことが想像されるのです。因みに、朱砂は赤色の顔料として縄文時代から使われていいる朱、そして鍍金に欠かせない水銀の原料でもあるので、古来から重要な鉱物資源でありました。
そういうことですから、丹生神社は全国各地に存在し、
150カ所以上はあると云われています。丹生の「丹」も赤いという意味があります。丹生神社の代表的なものとしては紀伊国(和歌山県)丹生都比売神社が挙げられますが、比売という字が付くくらいですから、もちろん祭神は女神である丹生都比売(にうづひめ)であります。ここのところに私は大変興味を惹かれます。話をちょっと戻しますが、古代の朱砂産地として記録されているものとしては、古いところでは続日本紀に、近江国(おうみのくに・滋賀県)に金青を献上させたこと、また伊勢国(三重県)には朱砂と雄黄(硫化砒素)を、常陸(ひたち・茨城県)・備前(岡山県)・伊予(愛媛県)・日向(ひゅうが・宮崎県)は朱砂、安芸(あき・広島県)・長門(ながと・山口県)には金青と緑青を、豊後国(ぶんご・大分県)には真朱を献上させたということが記録されています。
参照:このサイト内で「朱」で検索してください。