2010年4月26日月曜日

春の山歩き

今日は近所の山を散策しました
製作中の平家琵琶がほぼ出来上がり
いま、撥面の絵柄を考えているところです
天気がいいので気分転換といったところですか・・

山桜が満開でありました
この木は香りもすばらしい
爽やかな風に乗って、山道を登っている
途中でも、ほんのりと香ってくるほどでした
本居宣長の
大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花
という歌の一節、「朝日に匂う」とは
まさにこのことだな、と感じ入ってしまいました

こちらが本歌ですが・・
志き嶋の やま登許々路を 人登ハ々
朝日尓々ほふ 山佐久ら花 


山道の途中、落葉樹の若葉がようやく
芽吹き始めた中で、ひときわ目立つのが
この山ツツジであります
葉よりも先に花を咲かせて・・
よほど花に自信があるのでしょう

山道を進んでいると
途中、パキパキと音がして
それに続き、小石を林の中に投げ入れたような
カサカサとした音が谷の底の方へ向っていきます
何の音だ・・?





これが藤の実と、中の種です
豆のサヤのような殻が一気に捩(よじ)れて
種を飛ばしているようです
サヤはカチカチに乾燥していて
曲げようとするとパキパキと折れてしまうほどです
この音だったのですね・・
よくよく見てみると
藤の実が爆(は)ぜている音でした
藤の実は蔓に付いたまま
種を飛ばすということは聞いたことがありますが
それを目撃したのは初めてです
この時期に飛ばすのですね・・
そういえば早春に山歩きをするのは
久しぶりで、それに藤の実が種を飛ばすのは
何か条件が整のった時なのでしょうから
そうそうお目にかかることは
できないのかもしれません


こちらはその他の収穫ですね・・
こっちの方の収穫が多いのは
いつものことで・・・

2010年4月25日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その7

九鬼(くかみ)文書では「スサノオの命(みこと)」が重要視されていて、スサノオと関連のある蘇民将来説話も記されています。ということは、結論から言えば、九鬼家のルーツはインドにあるということになります。
ここ篠山の神社にもインドの影響を見ることができます(参照)。
さて、スサノオは牛頭天王(ごずてんのう)とも云いますが、祇園祭りで有名な京都八坂神社の主祭神もスサノオで、この祭りはインドから伝わったものとされていることは確実のようです。また、その大元は古代イスラエルのシオン祭にあるという説もあります。それを裏付けるように、ユダヤ民族の象徴であるダビデの星✡は伊勢神宮の灯篭などにも刻まれています(参照)が、伊勢地方は蘇民将来の行事が盛んな地域でもあります。また、この地方の海女さんは、近年まで✡印を刺繍した手ぬぐいを頭に巻いたりしていたということです。
蘇民将来は日本だけではなく他の国にもあり、鹿島曻氏の調べによると、文献に見られるものとして旧約聖書の「出エジプト記」、「ヨシュア記」 、朝鮮半島の「桓檀古記」があり、そして日本では「備後国風土記」、「公事根源」、「九鬼文書」があるということです。
九鬼文書に蘇民将来説話が記されていることに、九鬼文書の研究者である三浦一郎氏や吾郷清彦氏も注目をしていますが、とくに日本・ユダヤ同祖論者の三浦氏は研究書で多くの紙面を割いています。
考えてみれば、日本神道の祖とされる天照大神が祀られている伊勢神宮がある地で、外来の文化である蘇民将来の行事が行われているというのは矛盾しているといえば矛盾しているのですが、古事記・日本書紀ではスサノオは天照大神の弟となっているので、もしそれが事実であるとすれば、天照大神も外来の神、あるいは人物ということになります。因みに九鬼文書では天照大神はスサノオの皇女ということになっています。
話を戻しますが、九鬼文書は手許にあるので、ちょっと調べました。蘇民将来説話に出てくる目印は✡、殺す者はスサノオ、殺された者は九鬼一族以外の者、助かった者は九鬼一族 となっています。
これが出エジプト記では、目印は戸口に塗った血、殺す者はヤハウェ、殺された者はエジプト人、助かった者はユダヤ人となっていて、
ヨシュア記では、目印は赤い帯、殺す者はユダヤ人、殺された者はエリコの住民、助かった者はユダヤ人を助けた遊女の一族となっています。
桓檀古記では、目印は不明、殺す者は牛角神キリコエアケ、殺された者は契丹民族の敵、助かった者は契丹民族。
備後国風土記では、目印は茅(ちがや)の輪、殺す者は武頭神(むとうしん)、殺された者は巨旦将来(こたんしょうらい)一族、助かった者は蘇民将来一族。
公事根源では、目印は茅の輪、殺す者は武頭天神、殺された者は蘇民将来一族以外、助かった者は蘇民将来一族、となっています。
蘇民将来については、こちらのHPでも以前少し述べました(参照・五段目)。

さて、これは九鬼家が別当をしていたとされる
和歌山県の熊野三山の一つ
熊野那智大社の社殿です
屋根に付いている角のようなものは
千木というものですが
これは牛の角を表しているということです

講談社刊 森田勇造著
「倭人の源流を求めて」から部分転載

そしてこれは千木のルーツとされているものですが
インドの西北部に位置するナガ高知にある
チャカサン族のメスルミ村の様子です

東南アジア、タイの少数民族
アカ族の村でも同様のものがありますが
千木の形状は日本のものに
より近いものとなっています(参照
アカ族の集落には日本の鳥居の
ルーツとされるものもあります
アカ族が住んでいる一帯は
中国雲南省を含め
他に、餅やうどん、箸に下駄まであるのです
この地域が日本のルーツとされる所以であります

このことは、HPの「日本の歴史について」で
述べているように、弥生時代に日本に渡来した
民族の一部に、インドから東南アジア経由で
やって来た民族がいたということの
裏付けになるのではないでしょうか
また、その大元はメソポタミアなど古代西アジア
にあるとも言えるのです

2010年4月21日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その6 

前回述べたように、平清盛により天皇家が京都から福原(兵庫県神戸市)に遷(うつ)された所とされる地で、三つ巴紋の軒瓦が出土したのは何か暗示的なものを感じます。左三つ巴紋の九鬼家は平安時代から熊野別当で、また
熊野三山の検校も兼ねていたとされていますが(参照)、学会筋の研究書などではそのことに全く触れられていません。何故でしょうか・・。
そのことはひとまず置いておくとして、平家が滅んだ壇ノ浦の合戦で、優れた水軍でもあった平家が海上戦で源氏に敗れたのは、源氏方に熊野水軍が付いていたからだという説があります。
熊野水軍とは九鬼水軍のことで、源平盛衰記に目を通してみると、公家をはじめ源氏も平家も熊野に参詣していますが、熊野別当であった九鬼家に取り入ったのは源義経だったようです。
源氏と平家はもともと同じ一族だったということも言われていますが、源氏も平家も八幡神を信仰していたのも、そのことを裏付けることなのかもしれません。
源氏の八幡信仰では清和源氏がよく知られていますが、清和源氏発祥の地は、ここ丹波篠山から南東30kmほどのところの川西市にある多田神社とされています。
清和天皇のひ孫にあたる源満仲が、京都を離れてこの地で武士団を形成したということですが、その目的は資金源の確保にあったのだと思います。
多田には金(銀)山があるからです。古代に京都の太秦(うずまさ)から
秦氏(はたうじ)の一部がこの一帯に居を移したのもそれが目的だったのだと
思われます。
当時は金・銀よりも銅の方が目的だったのかもしれませんが・・




平家の落人伝説が残る四国・徳島県の祖谷山
に伝えられている平家の旗(
参照
八幡大菩薩と書かれています

2010年4月18日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その5 

ブログを読んで下さった方から
上のような写真を送っていただきました
この場にてお礼申し上げます

左右の三つ巴の軒瓦が
同じ敷地内にあったのだそうです
場所は兵庫県篠山市
この二種類の軒瓦が一軒の家に
使われていたのか知りたいところです・・・
不思議なことに、ここまで書いたところで
神戸の福原京跡ではないかとされる祇園遺跡
左右二種類の三つ巴の軒瓦が
出土しているという情報を得たので
次の日、姫路に行く用事の途中
それが収蔵されている
足を運ぶことにしました


そして、今日になるわけですが
神戸市埋蔵文化財センターに行ってきました
ここには兵庫県に越してきた頃から
何度も足を運んでいますが
2年ぶりに訪れました
目的の祇園遺跡の出土物は
常設展示はしてありませんでしたが
ここでは収蔵庫の様子も見学することができ
膨大な量の収蔵品の中に、ありましたありました


ガラス越しですのでうまくカメラに
収めることができませんでしたが
なんとか様子は分かります
こちらは右巻きの三つ巴の軒瓦です


そしてこちらは左巻きのもの


これを見ると、大きさとデザインが違うので
明らかに同じ屋根に使われていたとは思えません
建物が違うか、時期が違うもののようです



三つ巴の軒瓦が他にもありましたので
ついでに紹介しておきます
これは神戸市中央区の
花隈城跡から出土したもの



上の二点は常設展示してあるものですが
神戸市西区神出町の
神出(かんで)古窯跡から出土したもの
平安時代から鎌倉時代にかけて
ここで焼かれた瓦は
京都にも運ばれていたということです
その他、日用品の食器やすり鉢などは
瀬戸内海沿岸、そして九州の大分県
福岡県北部、さらに西の長崎県まで
運ばれていたようです

福岡県では、菅原道真が左遷させられたことで
有名な大宰府でも確認されています
大宰府庁には、福原に都を遷(うつ)した
かの平清盛も足を運んでいるようですが
これは、清盛が当時の中国
宋との貿易を企てていたため
宋との関係が強い大宰府に交渉をしに行った
という穿った見方もされているようです
平清盛は、都を遷した福原(神戸市)を
貿易港にするつもりだったのでしょうか


2010年4月16日金曜日

碧玉と九鬼水軍 その4 

九鬼(くき)家の由来が記されている九鬼文書(くかみもんじょ)では、九鬼家の祖神は「天豊春日命」となっています。
その31代後は中臣鎌足(なかとみのかまたり)となっているので、天豊春日命の時代は紀元前後の弥生時代頃となるのでしょうか・・、その頃から現在の奈良県春日とは縁があったということになりますね。15日に述べたように、三田市の三輪神社は平安時代に奈良の大神(おおみわ)神社から分祀されています。時代は700年ほど下りますが、戦国時代に幕府により三田の地に九鬼家が移封(いほう)させられたのは何故なのでしょうか・・不思議です。
九鬼文書では、天豊春日命の49代前は「天児屋根命(あまのこやねのみこと)となっています。
この神は別名「春日権現」でもありますので、やはり古代から奈良とは縁があったようですね。
話が脱線しますが、天豊春日命の31代後の子孫の中臣鎌足のことですが、一般的には中臣鎌足と藤原鎌足は同じ人物ということになっていますが、鹿島曻説では別人で、しかも中臣鎌足は新羅人の金庾信(ゆしん)、藤原鎌足は唐人の郭務悰(かくむそう)ということになっています。
また関裕二説では百済王の豊璋(ほうしょう)とされています。両説では証拠も多く挙げられていて、どちらも説得力がありますが、単純に考えて、白村江の戦いの勝者側の唐の郭務悰か敗者側の百済の豊璋かということになるわけですが、敗者側というのはちょっと無理があるような気がします。どちらにしても、九鬼家の祖先は水軍として白村江の戦いに参加していたということになるわけです。




2010年4月15日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その3

ここが謎の和服姿の女性が案内してくれた三田市三輪にある三輪神社であります(参照地図)。鳥居の紋を拡大して見てください。三輪というくらいですから三つの輪が重なった意匠になっていますが、遠くから見ると九鬼家の家紋である左三つ巴に似ているので、ちょっとドキリとしました。それから、社伝を読んで驚きました。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、平安時代に大和国(やまとのくに・奈良県)の一宮である大神(おおみわ)神社から分祀されたということなのです(参照。大己貴命といえば大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名でもあります。つまり出雲(いずも・島根県)の神様であります。出雲産の碧玉(へきぎょく)とされる加工品が出土した、弥生時代の餅田遺跡は三輪神社のすぐ近くにあるのです。ということは、この地に大和から出雲の神を祀る神社が分祀されたのは、もしかしたら弥生時代からのつながりがあったのかもしれないと言えるのではないでしょうか。
三輪神社は山のすぐ脇に拝殿があるので、明らかに古い形態の神社で、もともとは岩座(いわくら)信仰が行われていたものと思われます。また、拝殿の裏山には古墳が数基確認されているので、神社もその事と関連があるのではないでしょうか。





2010年4月11日日曜日

バッハとラウテンクラヴィーア その2

バッハはリュートの音をこよなく愛していたそうですが、リュートという撥弦楽器はルネサンス時代からの興隆が、バッハが活躍していたバロック時代後期には衰退し、チェンバロという鍵盤楽器に取って代られていました。
そのような時期にラウテンクラヴィーアというハイブリッドな楽器が登場したのは、何か暗示的なものを感じます。しかしながら、バッハの死(1750年)とともに終焉を迎えたバロック時代の幕が下りると、主役のチェンバロも含め姿を消してしまうのです。
こうした、バロック時代の最後に花を開かせたバッハ、ヘンデルと同世代のリュートの巨匠が、演奏家であり作曲家でもあったヴァイスでした。
ヴァイスはドレスデン宮廷の専属リュート奏者として活躍していて、その年俸は当時のヨーロッパの器楽奏者の中では最高額を得ていたということです。ですからバッハとヴァイスの交流は、バッハの長男のW.F.バッハが仲介をして、バッハの方からヴァイスを訪ねて行くことから始まったそうです。また、1739年(バッハ54歳のとき)にはW.F.バッハがヴァイスとJ.クロップガンズという二人のリュート奏者をライプツィヒのバッハ邸に連れていったという記録が残っているようですから、そのようなときにリュート奏者から様々な刺激を受け、バッハのリュート曲が生まれたのだと思われるのです。


2010年4月9日金曜日

バッハとラウテンクラヴィーア

7日に紹介した新作のラコート風モダン・ギターを製作するにあたっては、チェンバロ奏者の山田貢氏による、ラウテンクラヴィーアの研究が大いに参考になりました。
ラウテンクラヴィーアとはリュート風チェンバロのことで、
J.S.バッハが所有していたとされる鍵盤楽器です。
ところが、この楽器は現存しておらず、図はもちろん資料もほとんど残っていないのだそうです。バッハの遺産目録にはラウテンクラヴィーア2台とあるので、バッハが所有していたのは確実のようですが、山田貢氏の著書「バッハとラウテンクラヴィーア」によると、その楽器についての文献はごく少なく、しかも断片的だということです。それに加え、記述に欠点や矛盾が多く、楽器を再現するためには常に仮説の域から脱することができないということで、まさに暗中模索の連続だったようです。

山田氏がラウテンクラヴィーアの再現を試みることに先立ち、ドイツの楽器製作家ルドルフ・リヒター氏が1990年に再現しています。リヒター作の楽器は、1718年頃のフライシャーという人物によるラウテンクラヴィーアの形状の記述「古代ローマの円形劇場のように丸いか、または楕円形」を参考に製作されたものです。ここで興味深いのは、山田氏がリヒター作の楽器を弾かせてもらいに行った際に、この楽器を参考してもよいかと問うたところ、リヒター氏はそれを否定し、自身の反省が述べられていることです。
その時のリヒター氏から山田氏に対するアドバイス・・「コルプス(楽器本体の中に固定されるリュートの胴体のようなもの・3枚目の写真参照)の内部容積を大きくとりすぎた」 また、「典型的なリュートの音があまりよく得られなかった」 そして、「この楽器の改良製作をすすめる気がしない」と結んでいるのです。
リヒター氏は1986年と1996年にはテオルベンフリューゲル(テオルボ:大型リュート)風鍵盤楽器)も製作していますが、山田氏によると、2台目の1996年作には明らかな改善が見られ、前作より自然な鳴り方でリュートらしさを持っていたということです。その主な要因は楽器の胴容積を絞ったのが良かったのではないかと推測していられます。

そしてこれが山田氏設計による
ラウテンクラヴィーアで演奏したCDです
奏者はもちろん山田氏御自身
録音は2009年5月19日~21日

CDジャケットには楽器の
全体写真も載せられています

これは楽器内部のコルプスの様子
リュートの背面と同様のものが
収められています

ラウテンクラヴィーアのCDは
他に5枚ほどリリースされているようですが
そのうちの4枚を入手することができました
これはその1枚で
奏者はピーター・ワルドナー氏
楽器はアメリカの作者
ケイス・ヒル氏作 1999年製


そしてこちらは、同じく
ケイス・ヒル氏作の1994年製の楽器を
ロベルト・ヒル氏が演奏しているもの
同じ作者でも製作年代で
ずいぶん音の印象が違います


こちらはウィラード・マーティン氏作
1994年製の楽器を
キム・ハインデル氏 が演奏したもの
こちらの音は山田氏設計のものと
よく似ていて
リュートらしいものを感じます


そして最後にこのCDですが
この楽器は本体の形が
リュート状のもので1982 年に
ダウド商会により製作されたものです
演奏はゲルゲイ・サルコジ
このCDにはテオルボ(大型リュート)で
演奏された曲も1曲収められていて
楽器の音の比較ができます
テオルボの作者はハンガリーの
ティハメール・ロマネク氏
氏は上の写真のような
ラウテンクラヴィーアを製作することでも
知られています(参照

その後、ウェブ上の画像が
増えていたので
以外、紹介しておきます





バッハはリュートの音をこよなく愛していたそうですが、リュートという撥弦楽器はルネサンス時代からの興隆が、バッハが活躍していたバロック時代後期には衰退し、チェンバロという鍵盤楽器に取って代られていました。
そのような時期にラウテンクラヴィーアというハイブリッドな楽器が登場したのは、何か暗示的なものを感じます。しかしながら、バッハの死(1750年)とともに終焉を迎えたバロック時代の幕が下りると、主役のチェンバロも含め姿を消してしまうのです。
こうした、バロック時代の最後に花を開かせたバッハ、ヘンデルと同世代のリュートの巨匠が、演奏家であり作曲家でもあったヴァイスでした。
ヴァイスはドレスデン宮廷の専属リュート奏者として活躍していて、その年俸は当時のヨーロッパの器楽奏者の中では最高額を得ていたということです。ですからバッハとヴァイスの交流は、バッハの長男のW.F.バッハが仲介をして、バッハの方からヴァイスを訪ねて行くことから始まったそうです。また、1739年(バッハ54歳のとき)にはW.F.バッハがヴァイスとJ.クロップガンズという二人のリュート奏者をライプツィヒのバッハ邸に連れていったという記録が残っているようですから、そのようなときにリュート奏者から様々な刺激を受け、バッハのリュート曲が生まれたのだと思われるのです。


2010年4月7日水曜日

新作 ラコート風モダン・タイプ

新作のギターが1台
出来上がりました
特注で製作したもので
ラコート風モダン・タイプです


左端のものがそうです
注文により
アンティーク・ヴァイオリン風
仕上げにしました
その右側に吊ってあるものは
修理中の19世紀オリジナル
ギターです
ラコートも見えますね・・

仕上がって音を出してみてビックリ
自分で言うのもなんですが
ラコートとモダン・タイプの
良いところが
うまく出ているではないですか・・
まさにハイブリッドな楽器です
これはKiyondオリジナル
シリーズに
加えたい楽器ですね
このような注文をして下さった方に感謝です

実は、19世紀のオリジナル
ラコートにも
こうした大型のボディのものが
あるのです


内部の様子


こちらはオリジナル・ラコートの内部

碧玉と九鬼水軍 その2の蛇足 


弥生時代の遺跡から出土する巴形銅器にも右巻きと左巻きがありますね・・



それから、新たに三つ巴軒瓦が集まりました
左は大分県、右は奈良県のもの
こうしてみると、左巻きの方が多いようですね



近所を散歩していたら
「左三つ巴」の軒瓦があるのを見つけました
ここ丹波篠山では「右三つ巴」しかないのか
と思っていましたが
左巻きもあったのですね・・
どちらにしても、この軒瓦は播磨系とされているので
ここ丹波篠山と、南西に位置する播磨は
何か共通したものがあるのでしょう
それはおそらく「銅」が関係しているものと思われます
どちらの地域にも
弥生時代に金属加工に使われたとされる
手焙り形土器が出土しているのもそうですしここ丹波篠山の私の工房近くには
丹波地域最大の前方後円墳である
車塚古墳があります

車塚と名付けられた古墳は
関東から関西にかけて多く存在しますが
遺跡ウォーカーで車塚古墳で検索してみてください)
歴史言語学者の川崎真治説によると
クルマはウル・シュメール語のググ(亀)が
転化してクウヅマになり、それが
さらにクルマとなったものだとされています
つまり亀をトーテムとする民族というわけです
因みに鹿児島県の種子島の方言では
亀のことをクウヅマと言い
京都府与謝郡ではガンダメと言うそうです
古代丹波の地は銅鐸文化圏でもあり
古来から銅の産地として知られ
それをめぐっての争いが絶えなかったようです

2010年4月6日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その2

前回、4月3日に九鬼家に関するサイトを紹介しましたが(参照)、そこで家紋が紹介されています。実は旧九鬼邸を見学した際に、謎の和服姿の女性に開口一番伺ったことは家紋についてでした。その時にはまだ九鬼水軍の船模型のところには案内されていなかったので、和服の女性は九鬼邸の屋根を指差して、あの軒瓦に付いているものがそうです、と教えてくれたのです。それを見て私はおや?っと思ったのです。この軒瓦はここ丹波篠山でよく見かけるものなのですが、三つ巴の巻き方が逆なのです・・

これは近所の人から貰ったものですが、ここ丹波篠山の民家によく見られるものです。
右に渦巻いた三つ巴になっています。




そして、これが九鬼家の三田(さんだ)の旧九鬼邸の家紋ですが、左巻きの三つ巴になっています。4月3日に紹介した九鬼水軍の模型の旗を拡大して見てください。左三つ巴が見えます(参照)。ところが、おもしろいことに、上に紹介した軒瓦の写真は、実は播磨(兵庫県小野市)にある浄土寺の軒瓦なのです(室町時代~江戸時代)小野市の浄土寺といえば鎌倉時代の名工、快慶作の仏像(阿弥陀三尊像)が安置されていることで有名です(参照)。興味深いことは、浄土寺には八幡神社の本殿があるということです。 ここに九鬼家とのつながりがあります。
また、以前、古代の製鉄その11で、ここ丹波篠山にある八幡神社の象の彫刻を紹介しましたが(参照)、このことも九鬼家と関連があるのです。
そのことについては後に述べるとして、三田の旧九鬼邸を案内してくれた謎の女性が、三輪(みわ)神社にもぜひ案内したいというのでそこに連れていってくれたのですが、ここでもまたまた驚いてしまったのです・・

2010年4月3日土曜日

碧玉と九鬼水軍 その1

3月9日に紹介した、弥生時代中期とされる
兵庫県三田(さんだ)市 三輪・餅田遺跡から
新たに、碧玉(へきぎょく)加工に使われたと思われる
砥石などが発見されたということです


こちらは、前回、三輪・餅田遺跡で発見された
碧玉加工品の展示を見に行った際に
一緒に展示されていた出土品ですが
どれも遺跡のある三田市以外の所から
持ち込まれた石材だということです

チャートは三田市北隣の
ここ、丹波産のものだということです
この石は工房の近くを流れる篠山川でも
よく見られるものです


三輪・餅田遺跡の出土品が
展示してあった隣 には旧九鬼邸があり
ここも初めてだったので
見学させてもらったのですが
この後思わぬ展開がまっていたのです・・
入口の敷居をまたいで
きょろきょろと見まわしていたら
和服姿の見知らぬ女性が
この建物について説明を始めてくれて
中を案内して下さったのです
これには大変助かりました

歴史にもたいへん詳しいので
この施設の方ですか?と伺ったら
違うということでしたが
それ以上は追及せず
話に耳を傾けていました



これは床の間に飾られていたものですが
九鬼家は古来から優秀な水軍として
知られていたということです
これにはたいへん驚きました

和服の女性は九鬼家の由来も
教えてくれたのですが
それを聞いてびっくり仰天
目が点になってしまいました・・参照
しかし、このときには、九鬼(くき)家と
九鬼(くかみ)文書がつながっているということには
思いが至っていなかったのです