2016年6月28日火曜日

滋賀県高島・妙覚山産仕上砥 仕上砥とは思えない粒度に驚き 

滋賀県高島、妙覚山産の仕上砥を入手
コッパですがかなり大きめ
厚みは約3.5cm

層は八枚といった感じ・・
横桟(石目の層が横になっている)ですが
私は気にしません

程よい硬さでよく反応します
砥泥は邪魔にならず、底力も充分
研ぎ感は仕上砥というよりも
中砥の青砥といった感じです

研ぎ上がりも緻密で精緻な
優れた青砥によく似ています


前の段階の中砥ぎの最終研ぎでは
福井県産の寺中砥Jichu-toと思われる
中砥を使いましたが

中砥のこちらの方が粒度は細かい感じです


これは梅ヶ畑奥殿産の
粗めの仕上砥

それでも今回の高島妙覚山産の
仕上砥よりはかなり細かく研ぎ上がります


試しにハイス全鋼鉋を研いでみたら
驚くほど良く反応します

やや荒い研ぎ上がりですが
このまま仕事で使える状態です


ハイス鉋一挙6枚研ぎ
完了

21 件のコメント:

高口定雄 さんのコメント...

梅ヶ畑産の砥石の素晴らしさを感じました。梅ヶ畑では銅鐸が出土しているので、銅鐸を入手できるほどの
すごい鉱物資源だったのだと改めて感じました。ご紹介ありがとうございます!!

高島産の砥石に関連して情報2件を紹介させてください。

1.高島市史の砥石記事に関連して

  記事:「阿弥陀山南斜面の八田川の源流にあたるショウブ谷では現在、砥石に用いるための粘板岩を採掘している」

  高島市武曽横山の小字地名を、角川日本地名大辞典25滋賀県で調べてみると、「八田谷(ハチタダニ)」「菖蒲谷(ショウブダニ)」が隣同志に並んで記載されています。市史の記載が正しいことの裏付けですね。

2.妙覚谷産仕上砥に関連して

(1)小字地名「妙覚谷」「妙覚山」は、「名覚」「明覚」含めて、記録には残念ながら残っていませんでした。

(2)田中様が妙覚谷砥石産地としてご紹介されている位置図を基点として以下述べてみます。
   砥石と玉作の関係性、地名「黒部」「船木」との関係性が見えてきます。

   1)東へ約4kmの安曇川町三尾里の「上御殿遺跡」は、弥生時代中期~古墳時代前期の遺跡ですが、短剣鋳型が出土。鋳型石材はシルト岩。短剣鋳型には、銅鐸にも刻まれている鋸歯紋が刻まれている。
   2)同じく東へ約5kmの安曇川町万木(ゆるぎ)に「南市東遺跡(みなみいちひがしいせき)」。朝鮮半島系の土器が出土している。玉作遺跡に関する日本での権威者といわれる寺村光晴著「日本玉作大観」に記載されており、弥生時代後期の玉作遺跡とのこと。
   3)約3kmの高島市宮野に小字「粂尻」。粂は久米に同じで、久米(くめ)は、「くろめ(黒目)、くるめ(久留米)」の「ろ」「る」が省略された地名。省略例としては、「かえるで(蛙手)」の「る」が省略されて、「楓(かえで)」。福岡県久留米市地方では、「かたくるま(肩車)」のことを「かたくま」というなどの例がある。。
  「黒目」は「黒部」から変化した地名。地名「黒部」は「船木、舟木」と近接する事例が多い。
   4)約8kmの安曇川河口部は、安曇川町北舟木、南舟木の地名がある。
   5)安曇川を上流に遡った高島市朽木荒川は、相岩谷砥石の産地。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

補足を頂き、ありがとうございます!
たいへんありがたいです。
滋賀県の琵琶湖北部から湖西を大津まで南下する道中には
興味深いところが多く存在しますね。
http://kiyond.blogspot.jp/2010/01/blog-post_04.html
http://kiyond.blogspot.jp/2010/11/blog-post_28.html

高口定雄 さんのコメント...

大変興味深いデータを紹介いただきありがとうございます!!
着眼点が素晴らしい!!

さて、マキノ町の製鉄遺跡については、私も地名との相関性を調べたことがありますが、
残念ながら、明確な相関性は見いだせていません。

製鉄に関連するとすれば、地名「穴虫」かなと思っているのですが。
「穴虫」「黒部」関連地名は、東岸に多いのが実態です。
ご参考までに、滋賀県の「穴虫」関連地名をご紹介しておきます。

<北岸> 1.長浜市西浅井町塩津浜「穴虫」

<西岸> 1.高島市マキノ町西浜「穴虫」
     
<東岸> 1.長浜市黒部町「あなぼし」
     2.長浜市木尾町「穴伏(あなぶし)」
     3.長浜市布勢町「あなぶし」
     4.犬上郡多賀町木曽「アナフシ」
     5.草津市馬場町「穴虫」
     6.蒲生郡日野町西大路「穴虫」
     7.甲賀市甲南町寺庄「穴虫」

<南岸> 1.大津市国分「穴虫」

余談ですが、琵琶湖から日本海に抜ける交通路としては、高島市今津町から石田川を遡って、山越で、福井県小浜市に抜けるルートがあったのではないかと思って、実際に車で日本海~琵琶湖を走破してみました。小浜市にも銅鐸が出土し、地名「穴伏」「小黒目」があるので調査を兼ねて。
水運氏族の安曇氏も、このルートを使用していたかも知れないと妄想しています。

高口定雄(茨城県日立市)

高口定雄 さんのコメント...

<追伸>

琵琶湖を訪問した時に、東岸に街並みが多く、西岸は山が湖岸近くまでせまり、人が住んでいるのが少ないように感じました。東岸は、生活、米作りに適した水辺の微高地が多く、かつ山まで遠いので、多くの水田を確保できたという、地形によるものでしょうか。

製鉄遺跡が西岸に集中していることも、私もずっと不思議に感じていますが、私の仮説はこうです。

1.鳥取県に良質の砂鉄が多い理由は、花崗岩によるもので、かつ磁鉄鉱地帯であることが刀剣用に適したといわれている。

2.琵琶湖の西岸にも花崗岩帯は存在する。旧地質調査所によれば、「約1億年前~6500万年前にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩質の深成岩」とある。この分布と相関性があるようにも見える。

  <20万分の1シームレス地質図が公開されている。 https://gbank.gsj.jp/seamless/ >

3.製鉄作業は、冬などの農閑期に行っていたと思う。砂鉄は持ち運びも比較的容易だから、産地から離れたところでも作業できそう。しかし、火を使うから、普段住んでいる住居から、できれば離れたところで作業したい。薪となる樹木が近くにあることが望ましい。となると西岸を選ぶかもしれない。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

なるほど、西岸の方が山が近く燃料の調達が容易だったのでしょうね。
琵琶湖に関しては、鉄の原料は湖沼鉄を使っていたということも考えられるかもしれません。
http://ohmura-study.net/405.html
「古代製鉄物語」の著者、浅井壮一郎氏によると、
湖沼鉄は採鉱、選鉱が容易で、700度程度の低い温度でも製鉄でるきるので
薪(マキノのマキとは関係はどうなのでしょうか・・)と自然通風で可能だったとしています。
穴虫ももしかして湖沼鉄と何らかの(たとえば形状とか・・)関係があることも考えらそうです。
浅井氏によると、日本の原始製鉄を行っていたイタテ族、兵主族などほとんどは
水辺で湖沼鉄を採集し、それを山に持って行って製鉄していた、としています。
これは説得力があると私は思っています。

高口定雄 さんのコメント...

湖沼鉄のご紹介感謝いたします。
小生は今 コメントできる知識を持ち合わせていないので、勉強させていただきます。

兵庫県淡路市の弥生時代後期の鉄器鍛冶遺跡である五斗長垣内遺跡と、滋賀県琵琶湖西岸の製鉄遺跡で共通点があります。

1.後背地の地質が、マグマが地下の深いところで冷えて固まった珪長質深成花崗岩。
2.近くに断層があることも共通で、地中でも真砂が発生しやすい。

地下の深いところで熱圧を受けると石の結晶サイズが大きくなるのですが、これが地上に現れると、構成物の熱膨張率の違いで、風化スピードが速く、真砂になりやすいという特徴があります。このため、砂鉄は採取しやすい環境があったことも考えられます。考古学的に発掘実証されないと成立しませんので、あくまでも仮説の域を出ません。

磁石があれば、砂鉄採取が容易だったかもしれませんね。中国の春秋戦国時代の書「管子」には、地表面の観察で、地下にある鉱物を判定する方法が記述されており、また磁石の名前も記載されており、磁石の知識はそのころからすでにあったようです。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

なるほど、磁石による砂鉄採集が古代にも行われていたなら
砂鉄の可能性は大きくなるように思います。
琵琶湖北西部の製鉄遺跡に関しては多くの専門家が指摘しているように
原料は鉄鉱石(融解温度は砂鉄よりも低い)が主だったように思いますが、
浅井氏はそれに湖沼鉄を加えています。日本では湖沼鉄に関しては
ほとんど研究がなされていないようですが、浅井氏の「古代製鉄物語」では
ペックの「鉄の歴史」から湖沼鉄に関する記述が紹介されています。
そこでは、採集の仕方も述べられているのですが、興味深いのは
湖沼鉄は生物由来のものなので、採集した後も急速に再生し、
3~4年でまた採集可能になるということです。



高口定雄 さんのコメント...

おっしゃる通りです。琵琶湖北西部の製鉄遺跡については鉄鉱石を原料というのが考古学の判断ですね。マキノ鉱山が磁鉄鉱の供給地として推定されているようです。

砂鉄の証拠はありません。「舟木」地名を絡めて私の勝手な想像です。福島県会津若松市の猪苗代湖西岸にも「舟木」地名があり、猪苗代湖砂浜は砂鉄がいまでも採取できます。このことから砂鉄を類推したのですが、あくまでも想像の域を出ません。

滋賀県文化財保護協会の紀要で、「鉄鉱石の採掘地と製鉄遺跡の関係についての試論」という文献がありますが、鉱石産地に花崗岩の影響があるとの情報もあります。

http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/09_omichi.pdf#search='%E9%89%84%E9%89%B1%E7%9F%B3+%E5%9C%B0%E8%B3%AA%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82'

鉄の原料はどの形態であれ、使用するものは使用することが古代も現代も一緒だろうと思います。湖沼鉄も含めて広い目で見るのが正しいですね。

一方で、砥石の仕上砥産地と銅鐸の関係から推測されるように、品質に対する強いこだわりも持っていたように感じます。その辺が興味あるところです。

なお、出雲は花崗岩地帯ですが、兵庫県篠山市には、花崗岩層は見当たりません。まだまだ不明なことだらけです。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

篠山に関しましては、湖沼鉄の話を妄想拡大すると(笑)、可能性は何とかあるような気もします・・
といいますのは、篠山盆地(標高200mほどの高原盆地)は古代は湖だったということは
確かなようで、それはおそらく平安時代頃まで存在していたものと想像されます。
そうしますと、湖沼鉄の存在はまったく否定できないような気がします。
http://kiyond.blogspot.jp/2010/07/blog-post_05.html

高口定雄 さんのコメント...

記事紹介ありがとうございます。たいへん面白く拝見しました。猿田彦についてもだんだん興味が出てきました。

「和田」地名について思うこと

「わだ」は、もともた「はた、ぱた」で、「端」を意味する言葉だと思います、陸地から見て端っこをいうことばで、普通は「海」のことを指します。

「わたつみ」は漢字で「海神」と書きます。

「わた、わだ」=海    「はた」が「わた」「わだ」に変化したもの。
「つ」    =の
「み」    =神

神=霊で、霊は古くは「ひ、び」と読み、「び」→「み」に変化。

佐々婆神社のご祭神「志夫美宿禰」の「美(み)}も、同じく「霊」の意味で、「しぶ霊」(しぶひ、しぶび)が「しぶみ」に変化したものかと推測します。「しぶ」=「渋」で、サビ、寒(さむ)と同等かと。

高口定雄(茨城県日立市)

高口定雄 さんのコメント...

「シフ」は、「シウ」→「シヲ」→「シオ、シホ」に変化。塩も渋、サビと同類項のようですね。

茨城県潮来市では、塩を入れる藁で作った入れ物のことを、「シボ」と呼んでいるとのことです。
潮来市の郷土資料館で教えてもらいました。

高口定雄(茨城県日立市)

高口定雄 さんのコメント...

海人族「安曇」「宗像」と地名「船木、舟木」の関係について

滋賀県高島市安曇川町の安曇川河口部に地名「舟木」があることを紹介しました。
同じ市内の高島市今津町福岡にも小字「北船木」があり、その近くには私が注目する地名があります・

1)約2kmの今津町北仰(きたとげ)には、弥生時代中期以降の玉作遺跡「北仰西海道遺跡」
  がある。
2)約3kmの今津町大供には、小字地名「小黒目」がある ← 黒部に同じ

3)直近の川、石田川を上流に遡って、山の峠を越えれば、銅鐸も出土した福井県小浜市。
  小浜市には、地名「小黒目」、「「穴伏」(穴虫に同じ)がある。
  また「跡部」地名があり、「跡」=「安曇」の可能性あり。

以上のように、両側に同じ地名があるので、(琵琶湖←→日本海)を結ぶ弥生時代など古代の交通路のひとつだったと考えられます。

一方、瀬戸内海と日本海を結ぶ河川ルートは、加古川→黒井川→竹田川→土師川→由良川ルートですが、
丹波市春日町がそのルート上での分水嶺で、標高100mをきる日本で一番低い分水嶺です。
春日町から、銅鐸も出土し、古墳時代初期の象徴である三角縁神獣鏡も出土しているので、少なくとも弥生時代~古墳時代前期には交通の要衝地だった可能性があります。
春日市長王には「舟城(ふなき)神社」があり、舟城=舟木だと考えます。
また、春日市石生(いそ)には、石部神社もあります。石部は一般に、石を採取加工する集団ととらえられていますが、私は、もともとは、「接頭語い+志夫(しふ、しぶ)」だったと考えています。
「石生」=「石部」だと想定されます。

宮城県も古墳時代初頭の古墳が出現する地域ですが、仙台市太白区茂庭 にも小字「舟木」があります。
「名取川」とその支流「碁石川」の合流地点にあります。なぜ、こんなところに地名「舟木」があるのか、調べたところ、碁石川上流には川崎鉱山(銅、銀)、金入沢鉱山(銅 亜鉛)、また名取川上流には、砂金鉱山(銅)が存在し、二水系の鉱山にアクセスできる最適なポイントに位置していることがわかりました。
また、地名「舟木」から約8kmには、古墳時代前期の高舘山古墳(前方後円墳)があり、この古墳の年代は、福島県会津市の会津大塚山古墳(古墳時代前期、前方後円墳、三角縁神獣鏡出土)の年代に匹敵するとの考古学者見解です。

では、会津大塚山古墳付近に、地名「舟木」あるいは「石部」がないのでしょうか。
古墳から
1)約1kmに、会津若松市一箕町八幡小字「石部」
2)約9kmに、会津若松市湊町赤井小字「舟木」、猪苗代湖の湖岸で、砂鉄がとれることで有名

ところで、海人族の「宗像」はどうでしょうか。

1)宗像市の宗像大社辺津宮から約3kmに、宗像市田野小字「舟木」
2)長崎県諫早市宗方町小字「北船木」「南船木」
  宗方町の西に隣接する長野町には、小字「来比(くるひ、くるび)」があり、「黒部」と同じ地名。
  この地域は、諫早湾、大村湾、橘湾の3つのどちらにも行ける交通の要衝地。

やはり、交通の要所にあります。以上のように、相関性が高く、弥生時代、古墳時代に遡る可能性が高い地名と考えられます。

古代においての海、河川は、現在の高速道路の役目でした。金属鉱物資源を求めて飛び回るためには、金属鉱物資源の知識と水運力が共に必要でした。当初は海人族、産金族などという分離はなかったはずで、同時に持つべき技術、事業だったと想像します。次の記録がそれを証明しています。

天武天皇が死んだとき、第一番目にしのびごと(今でいう弔辞か)をたてまつったのは、大海宿禰で、大海とは海部の統率者であるが、この大海宿禰は、701年3月に冶金のために陸奥に派遣されたとの記録がある。すなわち、彼は水運の統率者であったと同時に、鉱山を採掘開発する技術者でもあったということです。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

ありがとうございます!
同じ地名の組み合わせがまだまだいろいろとあるのですね。
たいへん参考になります。

篠山の佐々婆神社の秋の祭礼の際に、10基の曳山が各集落から
神社に集まって来るのですが、そのなかに船を乗せたものがあるのです。
紋は当然のように三つ巴ですが、これなども佐々婆神社近辺が
往古、湖だった名残りかな・・と想像していまいます。
http://kiyond.blogspot.jp/2011/10/blog-post_06.html

高口定雄 さんのコメント...

紹介いただいたサイトを見させいただきました。ありがとうございます。
インドの象の姿があるのは不思議で面白いですね。
三つ巴文は、中国の古代写真を見ていた時に掲載されており、
日本と同じ模様だとビックリした記憶があります。
春秋戦国時代のようだった記憶がありますが、
どの時代かもういちど正確に探してみようと思います。


<篠山市で鉄が取れる理由について考えてみました:仮説>


砂鉄などが取れる要因として一般的に二つの要因がありそう。

(1)岩石自体が、鉄が多く含まれる岩石であること。

   地下深くでゆっくり固まった岩石ほど、鉄などの金属成分比が高くなるはずでは。
   金属のほうが、ケイ素などよりも比重が大きく重いので、地球の内部にいくほど、
   鉄などの金属が多いと考えられる。
   ひとつの証拠として、大陸プレートと、海洋プレートでは、深くにある海洋プレートが
   重いので、ぶつかると、重い海洋プレートが必ず、軽い大陸プレートの下に沈む。
   海洋プレートは玄武岩質。

(2)水流などで移動集積する場所に多い。
  
   水流で運ばれるが、流れがおだやかになるところで、金属などが沈殿しやすい。
   川から沼、海に入る場所。二つの川がぶつかる場所。

前記(1)項に関して、産総研の地質図で、砂鉄がとれたと思われる地域の岩石を調べました。
「地下の深いところで固まった」「海溝で複雑に変形した」ということにポイントがありそう。

1.鳥取県日南市印賀: 砂鉄産地

  約6500万年前~5200万年前に、マグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩

2.滋賀県高島市安曇川町

  約1億7600万年前~1億4600万年前に、海溝(海面から6kmより深い所)で複雑に変形した地層

3.兵庫県篠山市


  ・約2億年前~1億6100万年前に海溝で複雑に変形した地層
  ・約2億年前~1億6100万年前に付加した玄武岩(海底火山を構成していた岩石の一部)

4.福岡県粕屋郡宇美町 後背地

  約1億2000万年前~9000万年前にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩

5.福岡県糸島市瑞梅寺  古代伊都国の後背地

  約1億2000万年前~9000万年前にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩


特に、篠山市では、玄武岩の地層があり、玄武岩は海洋プレートに多く含まれるので、金属比率が高いです。
篠山市を流れる宮田川は、この玄武岩層を二つに切断するように流れており、この宮田川流域に、地名「くろべ(黒辺)」、、内場山墳丘墓(鉄鏃、鉄斧出土)があります。

高口定雄(茨城県日立市)

高口定雄 さんのコメント...

三つ巴では無く、四つ巴でした

「故宮博物院(12)青銅器」樋口隆康監修 日本放送出版協会1998年6月24日発行 に写真掲載

北京故宮博物館所蔵 西周時代前期の穀物などを盛る青銅製盛食器… 反時計廻りの四つ巴文
          西周時代前期の同じく青銅製盛食器    … 時計廻りの四つ巴文

西周時代は、紀元前771年~紀元前1134年頃をいうので、日本では縄文時代のころでしょうか。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

いろいろとご教示ありがとうございます。
湖沼鉄が多いスカンジナビア半島ほどではないにしても
日本も火山国ですので、湖沼鉄ができる条件は揃っていると思います。
篠山の北部に連なる多紀連山は昔は火山だったようで、
山中で溶岩状の石は時折見かけます。
また、篠山市街地の北にある「石くど古墳」の説明板には地元の人の言い伝えとして
火雨が降ったときの隠れ場所だったと説明されています。
http://kiyond.blogspot.jp/2014/04/blog-post_24.html

ペックの「鉄の歴史」では、スカンジナビア半島での湖沼鉄の採取の様子も説明されていて、
冬、湖が凍ったときに氷の上から穴を開け行い、家族や手伝いの者数人で
通常1日に500キロから1トンを採集した、とあります。

高口定雄(茨城県日立市) さんのコメント...

湖沼鉄で検索すると、学術文献も多々出て、実証的な研究がでているのですね。鉄族の化学的分析で、結果が出ると良いですね。

篠山市の内場山墳丘墓の文献を見ると、鑿の先端のような形をした鉄鏃がでていました。矢の先端は、三角錘ばかりかと思っていましたが。

この鉄鏃の形が複数あって、その形の出土組合せから、古代丹波の王墓の系列を推測したら、

大風呂南1号墓→今井赤坂墳丘墓→内場山墳丘墓→西求女塚古墳→網野銚子山古墳…

となるとの試論があるようです。

邪馬台国時代の丹波・丹後・但馬と大和
奈良県香芝市二上山博物館編 学生社
2011年10月25日発行
発表者 山本三郎氏
「タニハ(兵庫)の長刀と墳墓」

高口定雄 さんのコメント...

鑿の頭の形をした鉄鏃の分布の中心は、丹後・丹波地域を中心としているとのことです。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

ありがとうございます。
そのシリーズの本は私も目を通したことがあります。
鑿の頭の形をした鉄鏃の分布の中心は、丹後・丹波地域を中心としている
というのはまさにアメノヒボコが連想されます。
時代もほぼ一致しているといえそうですね。想像が膨らみます。

これまでの土器の形状の比較に加え、剣や刀の柄の形状、
そして鉄鏃の形状、と考古学上の成果が積み重なってきている感がありますね。
それに加え、出土した鉄の遺物の分析も少しずつ進められているようで
今後の展開が楽しみでもあります。
それと高口さんがなさっておられるような鉄と地名との関係。
これらが比較検討されて新たな展開が開けることも期待したいところです。

高口定雄 さんのコメント...

三巴紋 ご参考

三巴紋を中国に関する図書で見たのは、次の文献でした。
ご参考まで。

図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明
2007年5月10日 創元社発行
稲畑耕一郎監修

春秋戦国時代後期(紀元前500~600年頃)の晋国の
現在の山西省栄河県から出土した楽器の鐘(銅製)に三巴紋(反時計廻り)
がありました。

高口定雄(茨城県日立市)

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

ありがとうございます。
中国では他には遼寧省、河南省のものを目にしたことがあります。
http://kiyond.blogspot.jp/search?q=%E5%B7%B4%E7%B4%8B

巴紋を渦巻きと卍模様の組み合わせと見ると、
アジアだけではなく世界中に見られるようです。