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2014年7月11日金曜日

義廣銘鉋と初代・田中義廣(田圃義廣)

現在手許にある義廣銘の鉋
通称田圃義廣と呼ばれているもの(参照
二寸鉋(炭素鋼)、真贋は不明、後代か・・

寸六(炭素鋼 参照
後代と思われます(真贋は不明)

寸四(炭素鋼 参照
後代と思われます(真贋は不明)

寸四(特殊鋼 参照
これは初Ubu身の状態で保管されていたものですが
比較的新しいものと思われます
(真贋は不明・参照下さい

刃物鍛冶の初代・義廣(広)については
スズキ刃物店のHPで詳しく解説されていますが
そこで義廣について書かれてある「怪物伝」
著者・横山源之助(有磯逸郎)が紹介されています
そのデジタル・データが近代デジタルライブラリー
公開されていますので、それを転載、紹介しておきたいと思います

以下、初代義廣である田中義廣についての記述ですが
旧字を現代漢字に置き換えておきます
( )内は私によるルビ、意訳あるいは読みです
従いまして、文責は私、田中清人にあります

鉋刃物師 田中義広
大工仲間では、義広の鉋といえば、仮令(たとえ)一日の食事を
廃(や)めても、道具箱に一・二丁備えておきたがる
東京帰りの大工が、国許の明輩に誇る一つは
義広の鉋で、顔を合わせて道具の比較をやる時
各種の道具の中より、義広の鉋を出し
同職の羨む顔を眺めて、妙に兄貴風を吹かせている
これを見ても、大工の間に、義広の鉋が持てている様子が判ろう
然れば大工の間に評判を打っているこの義広という刃物師は
いかなる人であるか、私はある日、この鉋の名人義広を
浅草公園の右手、横に五階の見ゆる柴崎町の住所に尋ねた
何か家内に混雑があったものと見え、同家と親戚同様の間柄なる
佐藤米次郎という老人が、記者を一室に迎えて義広の人柄を語る

義広は越後(新潟県)三条在の農夫の子
威勢のよい米次郎老人、記者に茶をすすめながら
私はもう七十に近い耄碌爺、先生方を相手に膝突き合せて
お話するような柄ではありませんが、義広は私あっしと同国同村で
おまけに幾十年の間というものは
兄弟のような、親子のような間で御座いやした
義広の事は、まァ私の外(他)は誰も知ったものは
有りやすめえから、知っただけは、ぶっきら棒に一切合切申しやしょう
はい、田中義広も、素性は越後三条在の小池村という土地の出産で
本名は仁吉と申しやした、父親は孫右衛門といった
中分限の百姓農家の産でありながら
妙に、子供の時より細工物を好めり

子供の時より細工物を好めり
それは文明の今日であれば、百姓の子も、大臣参議になるのは
別に不思議でもありやせんが、徳川の時代では
百姓の子は那処(何処どこ?)までも百姓で果てるのが
習いであるのに、仁吉の慮見(考え)はその様ではなく
なんでも、己ァ(おらぁ)細工人になるんだ、てんで
在所から二里(約8km)ばかり隔たっている与板という
二万石の城下に出て、鍛冶屋に丁稚奉公しやした
はい、これが仁吉が、鍛冶屋に足を踏み入れた
そもそもの最初でげした
ご承知でもありやしょうが越後(新潟県)は
日本では雪で名高い土地、丁稚に這入ったその年でした
山道の出雲崎へ抜ける五里(約20km)ばかりの処に八幡の社がある
仁吉はその社へ、雪の降る寒中に裸詣りして、技量の揚るのを念じた
その翌年、誰に教わったものか、技量を鍛く(みがく?)のが
江戸に限るてんで、未だ真個はんの子供の十歳の時江戸に出でたり

十歳の時江戸に出でたり
はい、仁吉が江戸に出やしたのは、十歳の時でありやした
日本橋の中橋の、あの小川という待合の横手に
この界隈で男を売った鈴田の定さんという鑿(ノミ)の鍛冶屋が
ありやして、そこで革鞋(革製のワラジ=靴のことか?)を脱ぎ
首尾よく、江戸職人の家に身を置くことが出来た
二十歳の時、年期を勤め上げ、一年の礼奉公終わり
二十一の年、下谷の西中町に世帯を持ちやしたので・・・
はい、当時私の親主は、三間町に世帯を持っておりやしたから
私の親父の店請で、世帯を持ちやした訳
二三年西中町に居て、間もなく八丁掘の方に住居を変えやした

安政二年の大地震に名を揚げたり
仁吉の人柄が如何どうと申して、別に容貌に違った所も
ありやせんでしたが、何でも欲気のない事と言ったら
それは、不思議なほど欲気のない人でした
考えていることは、どうしたら良い鉋ができるであろうと、そればかり
焼の入れよう、鞴(ふいご)の吹きよう、炭の継ぎよう
土の使いよう、鋼の用いようを一生懸命に考えて
何時(いつ)も憂鬱ふさぎの虫でいやした
特にチクサという鋼(はがね千種鋼)にも二通りあって
何れを用いたらよいか、と思案の揚句に思わず口へ現わして
考え考えして居(お)りやした、鋼ばかりで有りやせん
土の使いようでも、普通の鉋師が遣っている荒木田の土は
如何(いかに)もわるい、之にも一方ならず苦労し
当時大阪の○十の鉋(源兵衛のことと思われます)は大評判
鉋は江戸職人に出来ないと定められていやしたが
遂に大阪の本場を圧して、江戸鉋の名声が
日本国中に響くようになりやしたのは
贔屓眼(ひいきめ)では有りやせんが
(原文は贔負となっていますが贔屓のことと思われます)
全く義広の力だろうと思わる
義広の名が揚ったのは、彼(か)の安政二年の大地震の時で
一時(いっとき)に大工仕事が出て、ぱっと義広の名が揚りやした
と、米次郎老人、話説に調子乗り、記者の前に膝をすすめ来る

欲気なき代りに孝心深し
大地震以来は、義広の銘打った鉋は、大工の間に大評判となり
普通の者なれば、儲けるは此時、と大に貯めるべき筈なれど
欲気のない義広は、其様なそんな事に頓着なく
這入ってくる金を財布に集めて、それを自ら携えて
国許の父親に送った、まァ彼(か)の時貯め込んで置けば
土蔵の二ッや三ッは、出来ていたろうに、頓と其様な考慮がなく
当時国許の甥が、放蕩で身を持ちくづし(崩し)
身代の傾けかかったのを見て、父親は心配していることだろう
と百幾十里(400km以上)の道をとぼとぼ歩いて
その貯まった金を携え、毎年国許へ帰って、父親を喜ばせていた
今から思うと、仁吉は孝心深い人でありやしたですから
明治になる迄は、何時も貧乏でしたが、貧乏は
私共と違ってちっとも苦にしなかったのも
今から思うと、仁吉が豪(え)らかったのでありやしょう

職人の中の職人
義広が何時も言って居やしたのは
人間は数ある中の数に入らぬといかねえ
職人の中の職人と為らねえじゃ、死くたばった方が良い
なんて言ってやした、でがしたから家の紋は酢漿(酢漿草・カタバミ)
でしたが、上羽の蝶(アゲハチョウ)は、人の長に為る縁起だてんで
酢漿を上羽の蝶の紋に換えやした
名を義広と仕やしたのも、世に自作の鉋を広めたい
という意だと申しやすが、先生、理屈に合って居やしょうかしら

刃答え(応え)、小切れ、旨切れ
鉋にも色々と種類が有りやすが
先ず「六分(一寸六分鉋・身幅約6.5cm)」
「八分(一寸八分鉋・身幅約7cm)」と
恁(こ)う二通あれば(参照)鉋は揃ったものと見られる
之は大工道具の鉋について申したので
尚 経木鉋という奴が此頃馬鹿に流行って参りやした
之は帽子や菓子箱の中に入れる経木を拵える鉋で
此方で出来る経木鉋(義広の鉋)で削ると
丸で芳野紙(吉野紙)同様に薄く、すうと、綺麗に出来上がる
何でも鉋は刃答え(応え)、小切れ、旨切れと
恁(こ)う三拍子揃わねば名作とは言われませぬ
刃答えが仕(し)ても子切れが仕ないと駄目
小切れが仕ても、すうと塩梅(あんばい)能(よ)く
旨切れが仕なければ、初手からしぶとい鉋と定まるが
世間の鉋を見ると、刃答え、小切れ、旨切れと
恁う三拍子揃った鉋はまことに寔(まこと)に少ない

不言言、不説説
といって、此の鉋ばかりは、口先で、那処どこ(何処)を
如何どうしたらよい、と教ゆる訳には参らぬ
手で製(こしら)えるからといって、
鉋は手業(てわざ)で出来る者でない
考一つ、脳一つ、心神こころで製えるので有りやすから
全くの処、親が子に教ゆる訳にもゆかぬ
厄介な代物(しろもの)、と米次郎老人
諄々として、鉋を製えることの困難を語る
之で見ると、名人というものは、口や言葉で教えられて
出来るものでないことが判かる

他人を弟子に取らず
前に申したように、義広の製品は、製作は一切秘密に
しておりやすから、他人を弟子に取らず、家の者と、親戚の者
真の五六人で、兀々(こつこつ)拵えておるような
次第でがすから、如何(いか)ほど注文があっても
五六人で拵える製品より多くは出来やせん
損な事だ、とお笑いに為る方もあるが、滅茶羅に世間へ
出しては、義広の名前に拘(かか)わるから
決して他人を弟子に取りやせん
はい、仁吉の歿(亡)くなったのは明治29年(1896年)の八月
長男の義太郎は59才で、つい先頃歿くなり
今は孫の石太郎が、義広を名乗って、弟の仁志太郎と
祖父の名を落とさぬようにと、仕事を励んでおる・・・

明治37年7月~9月

以上ですが、ここで古い鉋に興味をお持ちの方は
この文の中に義廣の兄とされている國弘のことが
一言も触れられていないのに気付かれたかもしれません
鉋の名工義廣、鑿(ノミ)の名工國弘は兄弟と
昔から言われていたようですが
もしかして、本当の兄弟ではなく
東京で鍛冶修行中の兄弟弟子だったのでは・・?
出身が同じ新潟県とうことで
修行中に親密になったということも考えられます

國弘は鉋も打っていて、國弘の鉋身には
鷹の羽の紋が刻印されていますが(参照
これが家紋だとしたら、義廣の酢漿草(かたばみ)とは
家紋が違っているということになります
真実はいかに・・・

2016年7月20日水曜日

高口定雄氏の興味深い説 その2

6月25日に紹介した高口定雄氏の興味深い説の追加分を紹介しておきます。
今回は猿田彦・サルタヒコと銅鐸、あるいは鉄の精錬、そして砥石産地との
関連性を地名とその土地から出土している考古学的資料を交えて考察がなされています。
これはこちらのブログ「猿田彦と滋賀県」のコメントとして頂いたものです。

篠山市付近の「猿田」「猿目」地名
篠山市の佐々婆神社と猿女が関係あるとの情報を得て、地名「猿田」「猿女」が、
篠山市付近に無いか調べてみました。
1.篠山市郡家小字猿目(さるめ)
2.篠山市乾新町小字猿目(さるめ)
3.丹波市山南町小畑家小字猿部谷(さるべたに)
4.丹波市山南町上滝小字サルべ

地名「猿田」について、福岡県、兵庫県、愛知県、奈良県
1.福岡県 6件 (1)糟屋郡須恵町須恵 猿田
 (2)糟屋郡須恵町上須恵 猿田
 (3)田川郡福智町赤池 猿田
 (4)宗像市吉留 猿田
 (5)福津市畦町 猿田
 (6)北九州市八幡西区藤田 猿田

2.兵庫県 6件 (1)加東市河高 サル田
 (2)加西市北条町西南 猿田
 (3)西脇市落方町 サル田
 (4)多可郡多可町八千代区俵田 猿田
 (5)豊岡市日高町知見 猿ヶ田
 (6)神崎郡福崎町高岡申田

各県の「猿田」地名件数
石川県  3件
埼玉県  1件 
茨城県 22件 
三重県  7件
高知県 10件
群馬県  3件
福岡県  6件
兵庫県  6件
愛知県 20件
奈良県  4件
千葉県 40件

周囲の地名に注意しながら調査していますが、特徴が二つあるように感じます。
 (1)付近に、「佐」「笹」などの地名が多い傾向にある。
 (2)黒部、船木、穴虫などの地名が付近に多い。
   ちなみに、遠く離れた関東の茨城県も調査中ですが、あります。
   特徴的に思うのが、舟木地名と同じ場所に「猿田」地名があることです。
   茨城県久慈郡大子町上金沢の地内に「猿田」「舟木ヶ沢」がある。
   茨城県久慈郡大子町浅川の地内に「猿田」「舟木ヶ沢」がある。
   大子町は、金や銅、粘板岩からとれる硯石の産地として地元では有名です。
   以上のことから、「猿田」地名は、「黒部」「船木」「穴虫」との相関性が強いと考えられます。
   このことは今後全国的に調査していく予定です。
   また、現状では「猿田」地名について、次のように考えています。
   現時点でのあくまでも仮説です。

猿田は、古語の「佐田」「砂田」が語源かもしれない。砂が得られる場所のようである。
たとえば、口語では、「さなた、さぬた、さのた」などのように、助詞の「な」「ぬ」「の」を
入れるのが普通であった。ところが、この「ナ行」を「ラ行」への口語変更が発生した。
「さぬた」「さるた」を発音してみるとわかるが、「さるた」のほうが、鼻音「な行」を
使用するよりも発音が楽である。

「ナ行」→「ラ行」への変音実例
1.古事記の越前国ツヌガ(都奴賀)は、倭名称では、ツルガ(敦賀)と書く
2.延喜式式内社の伊予国越智郡イガナシ(伊賀那志)神社の所在地を
   イガラシ(五十嵐)といっている。
3.美濃国山県郡ウヌマ(鵜沼)を、八雲御抄ではウルマ(宇留間)と書いている。

千葉県の「猿田」地名
千葉県には40件ありました。
それからやはり、「黒部」「船木」地名が近くに共出する傾向にありました。
関東には穴虫地名は見あたらないようです。また、古墳時代前期の遺跡も近くにあります。

例1 千葉県成田市船形小字「下猿田」「上猿田」
ここより約2km離れた成田市八代には、古墳時代前期の八代玉作遺跡」
ここより約2kmは、成田市玉造で地名「玉造」がある。
ここより約8kmは、成田市久米  久米は「くろべ→くろめ→くめ」と変化した地名

例2 千葉県長生郡長南町豊原小字「猿田」
豊原地内に油殿古墳1号墳 前方後円墳で4世紀末~5世紀初
豊原の隣の大字芝原(約2km)に能満寺古墳 前方後円墳 4世紀後半
豊原から約3kmは、千葉県茂原市上永吉小字「船木」

群馬県の「猿田」地名
<群馬県> 地名「猿田」3件
1.藤岡市上落合「猿田(さるだ)」 鏑川と鮎川の合流点
 1)地内に七興山古墳 前方後円墳 6世紀前半
  6世紀代では東日本最大級の古墳
 2)約2kmは、高崎市木部町
  木部は木之部と同じ: 兵庫県篠山市ほか
 3)約4kmの高崎市下佐野町には、古墳時代前期の
  玉作遺跡「下佐野遺跡」
  三波川変成帯の蛇紋岩による玉作

2.藤岡市白石「猿田(さるた)」
 1)前項の藤岡市上落合に隣接

3.吾妻郡吾妻町原町「猿田(さるだ)」 


高知県の調査結果
(1)安芸市土居小字「サルダ」
・土居地内に、小字「上玉造、下玉造」
・約4kmの安芸市伊尾木に、小字「砥石谷」があり、地内より銅鐸出土

(2)土佐市高岡町小字「猿田」
・地内に、小字「砥石ヶ谷」
・約7kmの高知市春野町森山に、小字「黒法師(くろぼうし)」
「くろぼうし」は「くろぼし」で、「くろぶし(黒伏)」からの変形地名と推測。
また「黒吹(くろぶき)」→「黒伏」→「くろぶし」と変化したと推定。

<注> 兵庫県朝来市生野町竹原野に小字「黒吹(くろぶき)」。
黒吹から約1kmは生野銀山。

(3)高岡郡日高村沖名小字「猿田」
前記2項の高岡町猿田から約6km離れた地域。川でいうと共に仁淀川右岸の地
・約3kmは、土佐市谷地小字「砥石谷」

(4)土佐市本村小字「猿田越(サルタゴエ)」
・地内に小字「宗像ノ平」
・約4kmは、土佐市北地小字「宗像(ムネカタ)」
・約4kmは、土佐市谷地小字「砥石谷」

(5)四万十市磯ノ川小字「猿田山」
・約5kmは、森沢鉱山(四万十市森沢、黄銅鉱)
・約5kmは、黒川恵美寿鉱山(宿毛市平田町黒川、黄銅鉱、黄鉄鉱)

(6)四万十市田野川小字「東サルタ」
・約6kmは、田ノ口鉱山(幡多郡黒潮町上田ノ口、黄銅鉱)
・約2kmは、四万十市藤小字「猪野々(いのの)」

<注>猪野々(いのの)
・兵庫県朝来市生野町「猪野々」から約2kmは、生野銀山
・京都府福知山市「猪野々」から約1kmは、梅谷鉱山(福知山市梅谷、銅、鉛、亜鉛)
・和歌山県御坊市北塩屋小字「猪野々」から約6kmは、
               和佐水銀鉱山(日高郡日高川町和佐)

(7)南国市下末松小字「猿田ノ北」
・約3kmの南国市大湧より銅鐸出土。また地内に小字「鳥取」
・約3kmの南国市田村より銅鐸出土
・約6kmの鏡香美市土佐山田町楠目より銅鐸出土

(8)高岡郡檮原町上組小字「申田(サルダ)」
・約2kmは、東向鉱山(高岡郡檮原町東向、自然金、黄銅鉱)

(9)幡多郡黒潮町田野浦小字「猿田」
・地内に小字「砥石ヶ本」
・約2kmは、田ノ口鉱山((幡多郡黒潮町上田ノ口、黄銅鉱)
・約5kmは、三の岡鉱山(四万十市古津賀、自然銅、黄銅鉱)
・約8kmは、幡多郡黒潮町蜷川小字「船木」

(10)幡多郡大月町添ノ川「小字「猿田」

トピックス
(1)石川県金沢市北塚町「猿田」
・約1kmに古墳時代初等の遺跡「古府クルビ遺跡」
「クルビ」地名は消失しているが、「くろべ(黒部)」の変形地名
・約2kmに弥生時代後期の下安原海岸遺跡(下安原町)。玉作遺跡出土。
・約3kmに弥生時代中期の寺中遺跡。玉作遺跡。
新潟県佐渡市の新穂型といってよい石鋸が出土。
なお、佐渡市に「黒目作」という地名がある。茨城県日立市にも「黒目作」地名があり、
砥石「助川青砥」産出地直近。黒目は「くろべ、くるべ(黒部)」から変化したもの。

(2)石川県松任市島田町「猿田」
約2kmは松任市長島町「クロビ田」。 「クロビ」は「くろべ(黒部)」に同じ。

(3)茨城県筑西市井上「申田(サルタ)」
・約5kmは4世紀前半の蘆間山古墳(徳持古墳とも、筑西市徳持)
・約8kmは、筑西市岡芹小字「黒部」

(4)三重県鈴鹿市山辺町「猿田」
・隣の上野町(約1km)より弥生時代の銅鐸片出土
・約3kmに弥生時代の玉作遺跡の茶山遺跡(鈴鹿市高岡町)
・約8kmに4世紀末の前方後円墳「野褒野(のぼの)王塚古墳」
・約10kmは、鈴鹿市辺法寺町小字「穴虫(あなむし)」

(5)三重県熊野市大泊には、小字「サルタ」「サダ」が共出。

(6)三重県には、地名「佐田」15件と多い。
・津市白山町佐田には、小字「舟木」
隣接する津市白山町上ノ村には小字「黒ン坊(くろんぼう)」があり、
黒部の変化地名

(7)「佐田」を古代には、連体助詞「な、ぬ、の」を追加し、「さぬた、さぬだ」
といっており、これが「さるた」に変化した可能性を想定しているが、
「さぬだ」地名が、三重県に1件存在していた。
三重県伊賀市下友田「佐奴田(さぬだ)」
付近の地名、遺跡は、
・伊賀市下友田「大黒(おおぐろ)」
伊賀市田中「黒口(くろぐち)」
・約4kmは、古墳時代前期の東山古墳(伊賀市円徳院)。伊賀地方最古。
・約7kmは、古墳時代前期の山神寄建神社古墳(伊賀市山神)
唐草文帯三神三獣の三角縁神獣鏡が出土。同笵鏡はないが、
同じ文様では奈良県の鏡作神社からも発見されており、
かつ鏡作神社直近に「黒部」「穴虫」地名がある。

「佐田」「大貞」なども調査の必要を感じていますが、まずは「猿田」優先で調査の予定。
なお、地名と遺跡の距離は、15km以内で調査しています。
奈良時代の駅家間平均距離が14.7kmとの報告があり、これを根拠に
同一居住圏の範囲は、15km以内と仮定したものです。

「完全踏査古代の道」 木下良監修、武部健一著  2004年10月1日発行 吉川弘文館


「笹場(ささば)」地名
前橋市小屋原町「笹場」
地内を広瀬川が流れるが、古くは広瀬川が、利根川の流路であった。
1)約3kmに前橋天神山古墳(前橋市広瀬町)4世紀前半の前方後円墳
 三角縁神獣鏡が出土し、同じ鋳型で鋳造された鏡として、
 奈良県櫻井市桜井茶臼山古墳、 奈良県天理市黒塚古墳の鏡がある
 参考: 奈良県桜井茶臼山古墳の近傍地名:黒目、穴蒸(あなむし)、木部(きべ)

2)約5kmの弥生時代後期の西太田遺跡(伊勢崎市安堀町)
 から、甕に入った砂鉄が出土
 甕の種類形式は、茨城県北部の十王台式土器(日立市含む)

3)約5kmは、前橋市上佐鳥町、下佐鳥町
 佐鳥(さどり)は、砂取(さとり)のことと思われる。

三重県津市の「しぶみ」という地名
<三重県津市渋見町(しぶみちょう)>
1.地内に「志夫美神社」 延喜式式内社の志夫彌神社  祭神志夫美神
2.渋見町地内に小字「赤目」「塩田」
3.約3kmは、津市安濃町清水小字「黒部」
4.約2kmの津市野田より銅鐸出土

三重県で、砥石と銅鐸が関係する事例
京都府京都市右京区梅ケ畑は仕上砥石産地でかつ銅鐸出土していますが、
これを含めて2例目です。

三重県津市白山町川口小字「砥石谷」
ただし本当に砥石が産出されたとの記録は未確認です。
川口から約4kmは、津市白山町藤小字「舟木」。
川口から約3kmは、津市白山町「北家城、南家城(いえき)」。
地名研究で有名な谷川健一は、その著「青銅の神の足跡」で、
家城=伊福(いふく、いふき、いおき)で、伊福は銅鐸鋳造に関わる集団だと述べています。

高知県安芸市伊尾木の小字地名「砥石谷」
伊尾木からは銅鐸が出土しています。
砥石を産出したとの記録は未確認。
銅鐸の時代に砥石が重要な資源のひとつとして認識され使用されていたことが、
3件のデーターで言えるかと思います。

和歌山県の地名事例。砥石との関係は未調査。
和歌山県御坊市塩屋町北塩屋小字「黒免(くろめ)」 
                   「くろめ」は「くろべ(黒部)」の変化地名
(1)約6kmに和佐水銀鉱山(日高郡日高川町和佐)
(2)約4kmは御坊市湯川町小松原で銅鐸出土
(3)約9kmは、日高郡日高川町蛇尾小字「船木谷」


ここからは私の補足として、兵庫県姫路市と和歌山県の例を紹介しておきます。
まず姫路市に砥堀という地名があり、そこから6kmほどのところに、銅鐸の
鋳型片が出土している今宿丁田遺跡名古山遺跡があります(地図参照下さい)。
名古山遺跡の鋳型片は砥石として再使用されていた形跡があるということです。

それから近年まで紀州砥という荒砥が採掘されていた和歌山県白浜近辺と
銅鐸が出土している3ヶ所の地(地図参照下さい)。

そして但馬砥の産地、兵庫県豊岡市日高町では多数の銅鐸の破片が発見された
久田谷遺跡があります(地図参照下さい)。

2013年10月5日土曜日

昔に採掘された優れた青砥を入手

京都丹波亀岡産と思われる
大きな青砥を手に入れました


「各国大博覧会賞牌受領」という字が
右から置かれているので
時代は大正から昭和初期と思われます

ラベルに書かれてある「大礼記念京都大博覧会」は
昭和3年に行われているようなので(参照
このラベルはそれ以降のものということになります





研ぎ面(柾目面)に茶色いゴマ粒状の斑点が確認できます


やや赤みがかっていますが
それほど柔らかくはなく、カッチリと砥ぐことができます
鉋研ぎにはちょうど良い感じです
YouTube動画参照下さい


丹波産青砥によく見られる針気(地鉄に付く太目の研ぎ傷)が
ほとんど見られず、緻密で粒度がよく揃っています
地・刃の境がクッキリとし、内曇で研いだように研ぎ上がっています
こういった感じは神前産には見られないと思うので
産地はもう少し南西の、青野から宮川あたりでしょうか・・
粒度は約#1200

このような青砥には30年ぶりに出合いました・・
30年以上前、20代の頃は研ぎの師匠から分けてもらった青砥を
主に使っていて、5本ほど使い減らした頃、分けてもらいに行ったら
もう優れた丹波青砥は手に入らないと言われました
そのことの意味は後々理解することになるのですが
その、若い頃使っていた優れた丹波青砥と
この青砥は顔も研ぎ感も、研ぎ上がりもよく似ているのです
思わず、ご老体でも目がキラキラとした師匠の顔が浮かびました・・




動画では青砥の次にやや硬めの中山産・戸前を使いましたが
やはり青砥の傷をいきなり消すのは無理があったので
この太平山天井巣板(内曇うちぐもり)に取り換えました





内曇砥独特の研ぎ上がりで
地・刃ともに美しく微塵に曇ります



最終仕上げに使った
京都梅ヶ畑・中山産の戸前


やや硬めの仕上砥で
中研ぎを細かめに研ぎ上げておくと(#2000以上)
これだけで研ぎ上げることができますが
#1200ほどだと時間がかかってしまいます


研いだ鉋身は以前紹介した義廣銘寸四


2020年4月13日月曜日

モラエス そして明治時代のペスト流行

いま、「孤愁・サウダーデ」という小説を読んでいる
著者は新田次郎だが
絶筆となり、子息である
藤原正彦氏が
書き継いだもの
主人公は明治時代の
ポルトガル外交官モラエスとその妻福本ヨネ 
600ページ以上ある
長編だが、いろいろと
興味深いことが満載
その一つ
これから初夏にかけて咲く
エニシダの花のこと
この花はポルトガルでは
ゲニスタ、スペインでは
イニエスタというらしい
ということはサッカーの
イニエスタ選手は
この花の名前(姓か)・・? 偶然にもモラエスも
イニエスタも神戸に
縁ができている・・

エニシダの花



こちらは今咲いている
レンギョウの花

よく見ると
エニシダの花とは
形状が違う

小説「孤愁・サウダーデ」に
書かれていることから
もう一つ
明治32年、神戸で
ペストが流行
これは史実で
明治32(1899)関西を中心
に罹患者は総計49名
(内死亡40名)で
内訳は神戸市22名
(内死亡18名)
大阪市21名(内死亡17名)
姫路で1名、その他
広島・福岡・和歌山・
長崎・静岡で死亡者
各1名ずつ
危惧した東京市長は
ペスト菌の媒介とされる
ネズミの買い上げ策を
同年12月27日の
東京参事会に提案
これは捕獲したネズミを
一匹五銭
(今の金額で1000円ほど)
で買い上げるというもの
これが施行されると
ネズミ捕獲器が
飛ぶように売れ、さらに
ネコを飼うことが大流行
夏目漱石が
小説「我輩は猫である」
で風刺するほどの
騒動だったようであります
神戸でのペスト流行は
半年ほどで
終息したようですが
明治32年は六甲山の鳴動と
群発地震が1年ほど続き
市民はかなり
不安だったようです

2011年1月21日金曜日

巴紋様々

大阪府吹田市の
万博公園内にある
国立民族学博物館
ウサギに因んだ
企画展が行われましたが
その展示物に東南アジアの
タイで使われていた
「皮むき器」がありました
それに付けられていた模様に
おや?!と思ったのですが
この文様は以前紹介した
巴形銅器に
似ていませんか・・?


 これは以前紹介した
弥生時代の
巴形銅器(参照
渦の向きは逆で渦の数も
違っていますが
良く似ています

原田大六著
「銅鐸への挑戦 1巻」
から部分転載

巴形銅器については
原田大六氏の優れた
考察がありますが
氏は著書で、中国秦代の咸陽宮の軒瓦(参照)に
巴形銅器とよく似た
文様があるということを
昭和50年代に
発表されていたのです

原田大六著
「銅鐸への挑戦 1巻」
から部分転載

それから、上の図は
アメリカのミシシッピ川
下流で発見されている土器(ミシシッピ文化)に
見られる文様として氏が紹介しているものですが
これにも同様の
文様が見られるのです

ここでもう一度
以前紹介した(参照
中国戦国時代の銅戈を
見て頂きたいのですが
この銅戈が出土したとされる
遼寧省に及んだ
文化と同じものが
東南アジアにあるというのは
納得できますが
北アメリカ大陸にも
流れていたということには
驚いてしまいます


2013年1月15日火曜日

古い会津鉋 重房銘寸六を研ぐ


昨日UPした研ぎ動画で
使った砥石と同じもので
重房銘の鉋身を研いでみました
動画UPしました)
この刃角度もギター製作に使うには
低すぎるので
先端5mmほどを26度~27度に
角度修正しながら研いでいきました

最初に使ったのは伊予砥
粒度約800


次に丹波亀岡・岡花産青砥
粒度約1200


仕上げ研ぎは
最初に丹波亀岡・丸尾山産巣板
黒蓮華


同じく亀岡・一本松産戸前


亀岡大内産仕上砥


最終仕上げは京都梅ヶ畑
中世中山産仕上砥


2009年12月25日金曜日

丸尾山砥石恐るべし

久しぶりに砥取家さんを訪れました
国道372号線が亀岡市に入って間もなく
左折し、北東に進むと丸尾山が見えてきます
工房からは車で30分ほどで行けます

このあたり一帯はあちこちに砥石山があり
優れた砥石として知られている神前産(こうざき)の砥石山もこのすぐ近くにあります(神前産の砥石は、現在は掘られていません)
また、優れた中砥である丹波青砥も、ここから
ほど遠くない所で採掘されているのです


砥取家さんのすぐ近くには
このように杉の大木が聳えていて
大内神社があります
まずここで挨拶をし、砥取家さんに向かいます


掘り出してきた原石を加工する作業所の脇に
試し研ぎのための砥石が所狭しと並べられています


今回は、強靭な特殊鋼の鉋(かんな)を研ぐための
中継ぎ用の仕上げ砥石を探しにきました
23日に述べたように
硬めで力のあるものはないかと
あれこれと試させてもらいました


そして、2枚の仕上げ砥石を手に入れました
これはそのうちの1枚で、丸尾山の
八枚層のものだそうです
23日に紹介した産地不明の優れた砥石
よく似た反応を示してくれました

この砥石は緻密で透明感があり
大理石のように見えます。砥石は見ただけでは判らない
典型のようなものでした。筋は全く当たりません


研磨力も申し分なく、1分ほどで
中砥の#1500の傷をほぼ消すことができました
私はこの後鏡面仕上げをしますが
このままでも充分使えます



そして、これは御主人もいつのものか判らない
というほど古い仕上げ砥石で
四代続いている砥石採掘の御先祖の
誰かが掘ったものだろうということです
採れた山は丸尾山ではないということです
このような砥石は、これまで見たことがありません


裏と側の様子ですが
側は今のように機械で挽いたものではなく
手鋸で挽いたものだそうです

これは上の八枚層のものより硬い砥石ですがよく反応し
強い研磨力があります


これも1分ほどで中砥の傷を消すことができました
申し分なしの仕上がりです


刃先の拡大写真