2010年11月7日日曜日

特注サイズギター製作その13 指板接着後の反応

指板接着後のタッピング反応
動画をUPしました


指板は厚めのものを接着していますので
この後、指板を削っていくと
また反応は変化していきます

モダン・タイプは同時にネックも削るので
その変化はより顕著になります
また、この後、響板にブリッジを接着すると
反応は大きく変化します

この最終段階を想定して
板厚や補強材の削りを行ってきたわけです
その元は私の心(イメージ)の中で
響いている楽器の音であります


滋賀県出土の手焙り形土器


滋賀県では弥生時代後期から古墳時代にかけて使われていたとされる、手焙り形土器が多く出土しています。手焙り形土器に関しては高橋一夫氏による研究論文(1998年出版)がありますが、それによると、滋賀県では1998年までの時点で発見されている個数は132点に及んでいます。この数は大阪府と並んで全国最多の出土数ですが、興味深いのは、滋賀県で発見されているもののほとんどが、琵琶湖の東側に集中しているのです。琵琶湖の西側では南部の大津市で4点、中部の高島市で1点発見されているだけです。先日紹介した志賀町史でも、当地からは出土していませんが、手焙り形土器が滋賀県から多く発見されていることに触れ解説されています。ところが、この土器についての最も重要な、内部の付着物、とくに煤については誤った記述がなされています。この志賀町史第一巻は、出版されたのが平成八年(1996年)となっているので、高橋氏の研究論文が出版される2年前となり、執筆者も当時の一般的な認識として書かれたのだとは思いますが、誤りはなんとか訂正する手立てを講じてほしいものです。

とは言っても、高橋氏の論文でも、手焙り形土器の用途は不明とされていて、加治木義博氏によるインドでの近年までの使われ方の指摘は無視されています。
無視ではなく認識不足だったのかもしれませんが、加治木氏の指摘は昭和58年(1983年)に発表されているので、加治木氏の著書が学術論文ではなかったにしても、全く知らなかったということなら学者として勉強不足、あるいは
探求不足ではないでしょうか。それとも故意に無視されているのでしょうか。不可解なことであります。







これは滋賀県大津市で見かけた
手焙り形土器のような?洞(うろ)がある木

2010年11月5日金曜日

猿田彦と滋賀県

先日、滋賀県の大津市伝統芸能会館に行った際に、
近くにある大津市歴史博物館に寄ってきました。

滋賀県は関西に越して来た時から頻繁に足を運んでいますが、
歴史博物館はこれで三度目でしょうか・・。
今回は当地の古代史資料を目当てに行ってきました。
ショップでは何種類か販売されていましたが、志賀町史の
古代について書かれてある巻が興味深かったので手に入れてきました。

古代の滋賀県といえば、私はまず琵琶湖の南に位置する
野洲市から大量に発見されている銅鐸を思い浮かべるのですが、
それと関連して、琵琶湖西岸の高島市を連想します。
この地は猿田彦とたいへん縁が深いのです。
このことは以前HPで少し述べていますので参照ください
(日本の歴史について「その八」12段目)。
これについて補足的なことも後日述べようと思っていますが、
当地の氏族である和邇氏(わにうじ)と小野氏(おのうじ)も
見過ごすことができないので、今回少し触れようと思います。

まず和邇氏ですが、志賀町史では、本来は和邇部氏で
4世紀後半に和邇部氏と和邇氏が結び付いたとなっています。
本拠地は今でも琵琶湖中央部西岸に地名として残っています(地図参照)。
この地図のJR和邇駅近くに小野神社があるので、この地は小野氏も
関わっているようですが、小野氏は大和(奈良県)の春日の和邇一族から
分岐したとされていますので、和邇氏とは同族として
共存していたものと思われます。
余談になりますが、滋賀県高島市の田中神社から発見された
ホツマツタエでは和邇氏は琵琶湖北部の伊香の地から
高島の地に移ってきたとされています(地図参照)。
以前述べたように、この地には羽衣伝説があります(参照)。
ということはルーツは東南アジアということになります。

話を戻しますが、小野氏からは聖徳太子の時代(6世紀頃)に
遣隋使として派遣された小野妹子が出ていて、和邇氏からは
大津宮廷の支配者である天智(てんじ)天皇崩御後の
壬申の乱(672年)で勝利した天武(てんむ)天皇が輩出されています。
志賀町史の和邇氏の記述で興味深いのは、
和邇部氏(和邇部臣・おみ)は7世紀の終わり頃まで宮中の鎮魂祭で
神楽を奉仕する女性(猿女・さるめ)を出していたということです。
このことは、ここ丹波篠山の佐々婆神社と同じなのです。
佐々婆神社は私の工房のすぐ近くなのですが、以前紹介したように(参照
この神社の祭神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)、つまり猿女なのです。
そしてこの地も古来から神社に奉納舞をする巫女を輩出していたとされているのです。
このように、滋賀県の琵琶湖西部とここ丹波篠山の地は
深い繋がりがあったようなのです。
また、先に紹介した天武天皇が、壬申の乱の際に協力しなかった隼人を
丹波の地に追いやったというのも、丹波の地は隼人とも
繋がりが深かったからではないでしょうか(参照)。