2010年11月28日日曜日

滋賀県出土の手焙り形土器 その2

下に紹介した地図の黒い点で示されているところは
古代の製鉄関連の遺跡です
時代は古墳時代から平安時代まで確認されているようです
鉄の原料は地元で採れる鉄鉱石を
使ったものとされています

遺跡は、滋賀県の中央部を占める

琵琶湖参照)の西側 に集中していますが
その地域は天日槍が通ったとされるルートと
合致しているのは興味深いところです
因みに、天日槍が渡来してきたとされる時期は

5世紀~6世紀前後という説が有力です

志賀町史から部分転載

(高橋一夫氏「手焙形土器の研究」から部分転載)
さてこちらの図は、弥生時代から
古墳時代にかけて使われていたとされる
手焙り形土器が出土している所ですが
琵琶湖の東側に集中しています
時代は上に紹介した製鉄関連の遺跡よりも
古いということになりますが
この違いは文化圏の違い
あるいは民族の勢力圏の違い
としか考えられないのです


(赤塚次郎氏による「東海系文化の拡散」より部分転載)
そう思いながら、たまたま目を通していた
「三国志がみた倭人たち」という本に
その文化圏の違いを

図示したものが載せられていたのです

これは青銅製の鏃(やじり)
多くの穴が開けられた
多孔銅鏃というものと
S字(かめ)A類と云われる土器の出土地が
示されている図です(●が土器の出土地)
こうして見ると、先に紹介した
手焙り形土器の出土地と
重なっていることが分かります


2010年11月24日水曜日

製作中のギター 横・裏のFrench Polish仕上 

製作中のギター
横・裏板の塗膜仕上をしました
この後、響板とヘッド・ネックを仕上げます


2010年11月22日月曜日

晩秋の丹波

昨日のことになりますが
近くの山へ紅葉狩りに行ってきました
観光地ではないので
日曜日でも他に誰もいません
2時間ほど山歩きをしました

雑木の中で赤くなっている紅葉が
日光に映えています
これくらいの感じがいいですね・・



小山の頂上からの眺め


この山は石英質の岩山ですが
頂上の岩に誰かが丸い転石を置いていました
底が平らに加工されていたので
何かの目的で置かれているのでしょうか・・
長さは12cmほどの石です

不思議なことに、この石は
この山でよく見かける石質なのです
人工的に加工された形跡は
底の部分しか見られませんので
やはりどこかから持ち込まれたものと
思うのですが、転石になるような
大きな川は近くにはありません
はて?・・・

2010年11月17日水曜日

小鳥砥と中世中山砥

以前、三河産縞名倉として紹介した
砥石が(参照)実は三河産ではなく
岐阜県高山産の小鳥(おどり)砥ということが判明しました
この小鳥砥という中砥は岐阜県にある山本砥石店
販売されていて、商品画像を見てもしや
と思い取り寄せてみたのです

こうして並べてみると瓜二つです


研ぎ心地や鋼への傷の付き方も同様で
強い研磨力があります。動画をUPしました


そしてこれは、動画にも登場する
京都中山産の仕上げ砥(砥前層のもの)です
これは、中世(江戸時代以前)から
掘られていたという坑道から
新たに掘られたものだということで
今回手に入れてみました
参照:さざれ銘砥


中庸の硬さのものを選びましたが
手許にある通常の中山産のものより
力強く、ザックリと研ぐことができます
反応よく、底力も充分で私好みの砥石です
筋は当たりません


研ぎ心地に似合わず鋼は緻密に仕上がっています
この砥石だけで仕上は充分です

こちらも同じ中世中山の戸前
これは上のものより
やや硬めですが、同様によく反応し
強い研磨力があります

こちらも当たる筋はありません

仕上がりはこちらの方が
鏡面ちかくまで仕上がります
鋼は玉鋼(たまはがね)

2010年11月16日火曜日

19世紀ギターラプレヴォット ヘッドとボディのニス塗り

19世紀ギター ラプレヴォット・タイプの
セラックニス塗りの様子 動画UP

2010年11月15日月曜日

特注サイズギター製作その16 セラックニス下塗り

響板のニス塗りの様子
動画UPしました



ラプレヴォット・タイプは
横板と裏板を水性ステインで
薄く色付けをしています

特注サイズ・モダンは
横板と裏板は目止めを行う前に
縁飾りの白い線が目止め剤で汚れないように
水性サンディングシーラーを塗っています
これは目止め後サンドペーパーで研ぎ落とします
同様に表板も無色のセラック・ニスで
下塗りをしておきます

2010年11月14日日曜日

窓付鋸でスプルースの製材

次回製作する、マリアハープの響板
ヨーロッパ産スプルースを
窓付鋸で製材しました

動画UP
 楽しめると思います



全長90cm、刃渡り尺八寸(55cm)
窓付鋸としてはかなり大きい方だと思います
この鋸は伐採用なのか
刃のアサリ(左右の振り巾)が大きく
製材用としては使えませんでした
それで、製材用に自分でアサリを狭くしました


銘は名前が判読できません
会津住 中屋(なかや)までは読めます
最後は花押(かおう)でしょうか・・
参照

その後手に入れた窓鋸の動画



2010年11月12日金曜日

2010年11月11日木曜日

特注サイズギター製作その14 ブリッジ接着後の反応



ブリッジ接着後のタッピング反応


動画UPしました

ラプレヴォットの指板削り動画はこちら



2010年11月7日日曜日

特注サイズギター製作その13 指板接着後の反応

指板接着後のタッピング反応
動画をUPしました


指板は厚めのものを接着していますので
この後、指板を削っていくと
また反応は変化していきます

モダン・タイプは同時にネックも削るので
その変化はより顕著になります
また、この後、響板にブリッジを接着すると
反応は大きく変化します

この最終段階を想定して
板厚や補強材の削りを行ってきたわけです
その元は私の心(イメージ)の中で
響いている楽器の音であります


滋賀県出土の手焙り形土器


滋賀県では弥生時代後期から古墳時代にかけて使われていたとされる、手焙り形土器が多く出土しています。手焙り形土器に関しては高橋一夫氏による研究論文(1998年出版)がありますが、それによると、滋賀県では1998年までの時点で発見されている個数は132点に及んでいます。この数は大阪府と並んで全国最多の出土数ですが、興味深いのは、滋賀県で発見されているもののほとんどが、琵琶湖の東側に集中しているのです。琵琶湖の西側では南部の大津市で4点、中部の高島市で1点発見されているだけです。先日紹介した志賀町史でも、当地からは出土していませんが、手焙り形土器が滋賀県から多く発見されていることに触れ解説されています。ところが、この土器についての最も重要な、内部の付着物、とくに煤については誤った記述がなされています。この志賀町史第一巻は、出版されたのが平成八年(1996年)となっているので、高橋氏の研究論文が出版される2年前となり、執筆者も当時の一般的な認識として書かれたのだとは思いますが、誤りはなんとか訂正する手立てを講じてほしいものです。

とは言っても、高橋氏の論文でも、手焙り形土器の用途は不明とされていて、加治木義博氏によるインドでの近年までの使われ方の指摘は無視されています。
無視ではなく認識不足だったのかもしれませんが、加治木氏の指摘は昭和58年(1983年)に発表されているので、加治木氏の著書が学術論文ではなかったにしても、全く知らなかったということなら学者として勉強不足、あるいは
探求不足ではないでしょうか。それとも故意に無視されているのでしょうか。不可解なことであります。







これは滋賀県大津市で見かけた
手焙り形土器のような?洞(うろ)がある木

2010年11月5日金曜日

猿田彦と滋賀県

先日、滋賀県の大津市伝統芸能会館に行った際に、
近くにある大津市歴史博物館に寄ってきました。

滋賀県は関西に越して来た時から頻繁に足を運んでいますが、
歴史博物館はこれで三度目でしょうか・・。
今回は当地の古代史資料を目当てに行ってきました。
ショップでは何種類か販売されていましたが、志賀町史の
古代について書かれてある巻が興味深かったので手に入れてきました。

古代の滋賀県といえば、私はまず琵琶湖の南に位置する
野洲市から大量に発見されている銅鐸を思い浮かべるのですが、
それと関連して、琵琶湖西岸の高島市を連想します。
この地は猿田彦とたいへん縁が深いのです。
このことは以前HPで少し述べていますので参照ください
(日本の歴史について「その八」12段目)。
これについて補足的なことも後日述べようと思っていますが、
当地の氏族である和邇氏(わにうじ)と小野氏(おのうじ)も
見過ごすことができないので、今回少し触れようと思います。

まず和邇氏ですが、志賀町史では、本来は和邇部氏で
4世紀後半に和邇部氏と和邇氏が結び付いたとなっています。
本拠地は今でも琵琶湖中央部西岸に地名として残っています(地図参照)。
この地図のJR和邇駅近くに小野神社があるので、この地は小野氏も
関わっているようですが、小野氏は大和(奈良県)の春日の和邇一族から
分岐したとされていますので、和邇氏とは同族として
共存していたものと思われます。
余談になりますが、滋賀県高島市の田中神社から発見された
ホツマツタエでは和邇氏は琵琶湖北部の伊香の地から
高島の地に移ってきたとされています(地図参照)。
以前述べたように、この地には羽衣伝説があります(参照)。
ということはルーツは東南アジアということになります。

話を戻しますが、小野氏からは聖徳太子の時代(6世紀頃)に
遣隋使として派遣された小野妹子が出ていて、和邇氏からは
大津宮廷の支配者である天智(てんじ)天皇崩御後の
壬申の乱(672年)で勝利した天武(てんむ)天皇が輩出されています。
志賀町史の和邇氏の記述で興味深いのは、
和邇部氏(和邇部臣・おみ)は7世紀の終わり頃まで宮中の鎮魂祭で
神楽を奉仕する女性(猿女・さるめ)を出していたということです。
このことは、ここ丹波篠山の佐々婆神社と同じなのです。
佐々婆神社は私の工房のすぐ近くなのですが、以前紹介したように(参照
この神社の祭神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)、つまり猿女なのです。
そしてこの地も古来から神社に奉納舞をする巫女を輩出していたとされているのです。
このように、滋賀県の琵琶湖西部とここ丹波篠山の地は
深い繋がりがあったようなのです。
また、先に紹介した天武天皇が、壬申の乱の際に協力しなかった隼人を
丹波の地に追いやったというのも、丹波の地は隼人とも
繋がりが深かったからではないでしょうか(参照)。



2010年11月4日木曜日