「よき細工は、少し鈍き刀を使うといふ妙観が刀はいたく立たず」ということについて白洲正子氏は随筆「いまなぜ青山二郎なのか」(1991年単行本発刊)で「「鈍き刀」の意味を今まで私はその言葉どおりに受けとって、あまり切れすぎる刀では美しいものは造れないという風に解していた」と書き、続いて「ところがそれでは考えが浅いことをこの投書によって知らされたのである。その手紙の主がいうには、鈍刀といってもはじめから切れ味の悪い刀では話にならない。総じて刀というものはよく切れるに越したことはないのである。その鋭い刀を何十年も研いで研いで研ぎぬいて刃が極端に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃はじめてその真価が発揮される。兼好法師はそのことを「鈍き刀」と称したので、「妙観が刀はいたく立たず」といったのは切れなくなるまで使いこなした名刀の何ともいえず柔らかな吸いつくような手応えをいうのだと知った」と読者からの手紙の内容を紹介している。
これを読んだとき
私はそれはちょっと違うゾと
思ったので、そのことを出版社を通して著者に一筆したためた。
もちろん返事などは来なかったがその後20年以上経っている現在でもその時に書き送った内容は間違っていなかったと思っている。
加えて、ここ数年の
仕事で使っている刃物の入れ替えによる鉋や小刀など刃物についての様々な経験から、さらに深い確信を得ている。そのことを一口で言えば「焼入れと焼戻しの具合」ということになる。要するに「よき細工は少し鈍き刀を使うといふ」というのは細工(繊細な細かい木工作業)をするときの小刀は鋼が柔らかめ、つまり焼戻し温度が高いものを使ったと言えるのではないでしょうか。
そうした刃物の方が切れが軽くコントロール性も優れているのです。妙観はそのことを知っていたとも言えます。
「少し鈍き」というのは
焼戻しが多めになされている
つまり焼戻し温度が高かった
結果鋼は比較的柔らかく(鈍く)なっている。その方が小刀などは切れが軽く削り肌も滑らかなのです。そのことを「刃が甘い」とも表現しますが、この当然のことが刃物を実際に使ったり、より良い刃物を追求したことがない人にはなかなか理解できないでしょう。
それ故、白洲正子氏は「鈍き刀」を「あまり切れない刀」と理解してしまっています。
小刀の切れ具合については
これまでの経験では低い焼戻し温度(焼戻しが不十分=鋼が硬い)では切れが重く、焼戻し温度を上げると(鋼が比較的柔らかになる:甘めの刃)切れが軽く、削りのコントロール性も良くなりました。このことは徒然草の一節「よき細工は、少し鈍き刀を使うといふ」ということを証明していることになります。
ですから、白洲正子氏に助言をした意見「その鋭い刀を何十年も研いで研いで研ぎぬいて、刃が極端に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃、はじめてその真価が発揮される。兼好法師はそのことを「鈍き刀」と称した」というのは、これは考え過ぎで、何故真価が発揮されるのか、また、どのように真価が発揮されるのか説明もなされていません。文学的な魅力のある推察ではありますが「妙観」が優れた木工家、あるいは彫刻家であったならば、刃物の焼入れ・焼戻しについての知識も当然あっただろうと想像されるのです。「妙観が刀はいたく立たず」という書き振りもそのことを強調しているのではないでしょうか。
付け加えておきますと、私など刃物処理の素人が焼戻しを行う際には温度管理をして慎重にやりますが(参照)、専門の鍛冶屋さんは焼入れを行った後すぐに火床の火にかざし、経験と勘で温度を見計らい焼戻しを行うというのが一般的のようです(参照)。
この動画では、水をかけて
焼戻し温度を見計らっています。この作業を見ると分かるように、火にかざして焼戻しをする際、刃物全体を均一に同じ温度にするのは不可能なので、焼戻し温度を一定に確保した油で焼戻しをすることも行われています。
(参照:22分30秒あたり)
さて、徒然草が書かれたのは
鎌倉時代末ということになっていますが、この時代どのように焼戻しが行われていたのかは想像に難くありません。おそらく先に紹介した動画のように鍛冶職人が経験と勘で行っていたものと思われます。ということは、刃物全体を一挙に同じ温度にするのは、なかなか難しいことで、とくに繊細な作業に使う小刀や彫刻刀などは相手が小さいだけに、ちょっとした加減で刃先部分だけが高温になったりしやすいのです。これは私も経験がありますが、小刀を火で焙って全体を同じ温度にするのはほとんど不可能のように感じます。どうしても鋼が薄くなっている刃先部分が先に高温になります。ということは、焼戻しの場合高温になっている刃先の方が硬度は低くなりがちなのです。つまり刃先の方が元の部分よりも鋼は柔らかいとうことになります。それを、そうならないようにやるのが腕の良い鍛冶屋さんということになるのでしょうが、小刀など小さなものではほとんど不可能だと思われるのです。
ですから白洲正子氏が書いている「その鋭い刀を何十年も研いで研いで研ぎぬいて刃が極端に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃はじめてその真価が発揮される」 というのが、小刀の元の方が焼きが多く戻っていて柔らかくなっている。ということを言いたいのだったら、それは間違っているのではないか
と私は白洲氏に書き送ったのです。