前回紹介した三田市藍本から篠山市味間にかけて、藍本の高川古墳群から出土した大刀と同様の装飾を施された大刀が集中して出土しています。篠山川沿いの山田1号墳からは金銅で装飾された大刀が、2号墳からは単鳳式冠頭大刀、武庫川上流の庄境(しょうざかい)1号墳からは銀象嵌大刀が出土しているのですが、これらの古墳では例外なく鎧・甲に馬具もいっしょに埋葬されています。篠山川の最上流にある雲部車塚古墳も同様のものが出土していて、この古墳は石棺はまだ開けられていないということなので、石棺の中にはさらに多くの副葬品があるものと思われます。
篠山市から三田市にかけて、金属加工に使われたと思われる手焙り形土器も出土しているので、弥生時代の伝統が古墳時代まで続いていたとすれば、大刀の装飾は当地で行われていた可能性も否定できません。
篠山市から三田市にかけて、金属加工に使われたと思われる手焙り形土器も出土しているので、弥生時代の伝統が古墳時代まで続いていたとすれば、大刀の装飾は当地で行われていた可能性も否定できません。
、「手焙り形土器」の件ですが、鉄の精錬時に酸化鉄を鉄に戻す還元の工程で使うものではないだろうか。
返信削除開口部が小さいので空気が入りにくく、不完全燃焼状態にし、
鉄を還元するのに使ったのではないでしょうか。
上が伸びてるのは、煙突効果で燃焼を助けるため。
円筒状の補助煙突もその近くにあるのかも。
剣の件・・・朱蒙(チュモン)という韓国ドラマをご存知でしょうか? 高句麗建国のはなしです。中国は漢の時代です。
例によって、ツングース族がいつの間にか朝鮮族に置き換わっていますが。
そのなかで剣はいつも左手で鞘を掴むように持って歩き、
帯に挿んだり太刀のように吊るしたりしていません。
また、戦うときは右手で捌き、鞘は投げ捨てています。
日本の古代の創造図では吊るしてあるが、手で持って歩いてたんでしょうか?
日本刀のように左手で捌くような使い方をするようになったのはいつごろからだろうか?
ご存知であれば教えてください。
源 信正
謎の須恵器は還元に使われたのではないかというご意見
返信削除納得できます。ご教示ありがとうございました。
なるほど、上部の突起は不完全燃焼させるための
煙突だったのですね。
この煙突から黒い煙がモクモクと立ち昇っていた・・
還元は焼物やメッキでも為されるようなので、
当時も何かそのようなことに使っていたことも考えられますね。
朱蒙という韓国ドラマのことは知りませんが、
剣の保持や捌きについては、何かを参考にしたのだと
思います。それが何なのか知りたいですね。
日本では、古墳から出土する埴輪でしか知ることは
できないようです。
http://blogs.yahoo.co.jp/karasawa0901/archive/2009/07/15
http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/koukosiryou/kunisitei/kuni-kouko01.htm
上に紹介したサイトで見ると、刀は腰に提げられていたようですね。
3月あたりのブログで複数口の壷のことを書かれていましたね。
返信削除楽器の一種ではないかとの推理おみごとでした。
これまた朱蒙のドラマの小道具で申し訳ないのですが、
同じような複数口の素焼き壷が机の中心に置く照明器具として使われていました。
壷本体を油壺とし、それぞれの口の油紐に点火して照明器具として使われていました。
物のない時代、工夫して様々な使われ方をしたのだと思います。
源 信正
複数口の壺(子持ち壺)は西アジア、インドそして
返信削除日本から出土していますが、日本で出土しているものには
周りの小さい壺の底が開いて本体とつながっているものと
底が密閉されて独立した壺になっているものがあります。
考古学者は、独立した子壺は古墳の副葬品として
作られたものなので手抜きをしたのだろうと推察していますが
おっしゃるように、照明器具として使われたとした方が
納得できます。これは説得力がありますね。
ありがとうございます。
別の話になりますが、ポンペイ(紀元1世紀頃)の遺跡の
壁画の戦士の鎧が日本の古墳から出土しているものと酷似
していたり、中国・甘粛省卓尼(チョニ)という所で
行われている民族芸能の衣装が日本の能装束にそっくり
だったりと、日本特有のものと思われているものが、
他の国でも見られるということは多くあるのですね・・
チョニの芸能では日本刀そっくりの刀まで持っているのです。
このあとブログで画像をUPします。