これまでに紹介してきた、丹波篠山のニギハヤヒと関連のある地名、「草ノ上」と「味間」の間には丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳が、その西には元々は岩座(いわくら)信仰が行われていたと思われる、大変古く由緒ある佐々婆(ささば)神社が、そしてその西には丹波最大の円墳である新宮古墳があります。これらを地図上の記してみると、篠山川に沿って均等な距離にあるのが分かります(地図参照)。また雲部車塚古墳の北東にある櫛石窓神社もほぼ同距離隔たっています。これは何か意味があるのでしょうか・・興味が湧きます。
「多紀郡郷土史話」では多紀の郡(こおり)は古代は水郷であったとし、先に紹介した地図上の古墳は当時の湖の浜に臨んで造られているようである、としています。ですから、湖の大きさを車塚古墳から味間までとすると、大きさは東西12kmほどあったということが推測されます。
上にリンクした味間のところで、味間という所は古代は湿地だったと述べ、その名残りとしての大沢、牛ヶ瀬という地名を挙げておきましたが、それと同様の和田という地名が佐々婆神社の近くにあるのです。「多紀郡郷土史話」の著者は湖岸を和田と呼ぶことは我が国各地にその例が多いと説明しています。他には「多紀郡郷土史話」が書かれた(昭和9年頃)当時、地名として残っている北島、善左衛門島、松ノ木島、沢田島などは湖中に点々とした浮き島状の地であったものと思われる、としています。
また別誌の「多紀郷土史考」では湖水の東岸に当る所に磯宮八幡宮がある、としていますが、これらをまとめてみると、篠山盆地の古代の湖は平安時代頃まで存在していたということが想像されます。そしてその湖は北東の端が車塚古墳があるところで、南東の端には磯宮八幡宮があり、西の端には味間の島姫神社があったということが言えそうです。(地図参照下さい)。
篠山の地は明らかに銅鐸民族圏です。この地では銅鐸はまだ発見されていませんが、状況証拠は多く存在します。その一つが神社の祭神です。先に紹介した新宮古墳のすぐ近くに居籠神社(いがも)というのがあるのですが、この神社の祭神は猿田彦命です。近くを流れる藤岡川は昔は猿田川と呼ばれていたということで、この川からは昔、猿田彦と対になっている天宇受売神(あめのうずめのかみ)の塑像が見つかっているということです。
天宇受売神は先に紹介した佐々婆神社の祭神でもあります。この女神は天照大神が岩戸隠れをした際に、アマテラスの注意を惹くために、閉じられた岩戸の前で胸をはだけて踊りを披露したとされる神でもあります。ですから、猿田彦命と天宇受売神は大変に古い時代の神ということになります。そして、銅鐸を日本にもたらしたのは猿田彦命とされているのです。
「多紀郡郷土史話」では多紀の郡(こおり)は古代は水郷であったとし、先に紹介した地図上の古墳は当時の湖の浜に臨んで造られているようである、としています。ですから、湖の大きさを車塚古墳から味間までとすると、大きさは東西12kmほどあったということが推測されます。
上にリンクした味間のところで、味間という所は古代は湿地だったと述べ、その名残りとしての大沢、牛ヶ瀬という地名を挙げておきましたが、それと同様の和田という地名が佐々婆神社の近くにあるのです。「多紀郡郷土史話」の著者は湖岸を和田と呼ぶことは我が国各地にその例が多いと説明しています。他には「多紀郡郷土史話」が書かれた(昭和9年頃)当時、地名として残っている北島、善左衛門島、松ノ木島、沢田島などは湖中に点々とした浮き島状の地であったものと思われる、としています。
また別誌の「多紀郷土史考」では湖水の東岸に当る所に磯宮八幡宮がある、としていますが、これらをまとめてみると、篠山盆地の古代の湖は平安時代頃まで存在していたということが想像されます。そしてその湖は北東の端が車塚古墳があるところで、南東の端には磯宮八幡宮があり、西の端には味間の島姫神社があったということが言えそうです。(地図参照下さい)。
篠山の地は明らかに銅鐸民族圏です。この地では銅鐸はまだ発見されていませんが、状況証拠は多く存在します。その一つが神社の祭神です。先に紹介した新宮古墳のすぐ近くに居籠神社(いがも)というのがあるのですが、この神社の祭神は猿田彦命です。近くを流れる藤岡川は昔は猿田川と呼ばれていたということで、この川からは昔、猿田彦と対になっている天宇受売神(あめのうずめのかみ)の塑像が見つかっているということです。
天宇受売神は先に紹介した佐々婆神社の祭神でもあります。この女神は天照大神が岩戸隠れをした際に、アマテラスの注意を惹くために、閉じられた岩戸の前で胸をはだけて踊りを披露したとされる神でもあります。ですから、猿田彦命と天宇受売神は大変に古い時代の神ということになります。そして、銅鐸を日本にもたらしたのは猿田彦命とされているのです。
これは古代丹波北部、後の但馬(たじま)に属する
朝来(あさご)市和田山町にある
長尾古墳から出土した大刀拵え
古墳時代後期 全長105m
ウルトラマンの故郷M78星雲の近くにあるオリオン座の三ツ星がエジプト ピラミッドの配置に相似しているとよく言われます。
返信削除篠山古墳群の配置は北斗七星に似ているような気がします。
毛利家の三ツ星伝説があるので、星に願いをかけて配置したとしても不思議ではありませんね。
ところで、写真はどこの神社ですか?そして刀剣はなんという名前なのですか?
篠山・・・丹波界隈は面白いところですね。
1000円高速があるうちに一度いってみたいと思います。
源 信正
星の配置を模して古墳(あるいは神社)を配したという
返信削除ことは考えられますね。ご教示ありがとうございます。
そういえば、北斗七星を象嵌した七星剣もありますし、
古墳内部に北斗七星を描いた例も見られます・・
写真3枚につながりはないのですが、2枚目の神社は
雲部車塚古墳の近くにある八幡神社です。
近いので先日ちょっと覗いてきました。
この神社がある小山も、どうも古墳のようですね・・
このあたりには古墳が密集していて、荒らされた古墳も
多いようです。
http://kirinosato.fc2web.com/tanba-kofun2.htm#hojyo
大刀は丹波北部の、但馬に属する朝来郡和田山町にある
長尾古墳から出土しているものです。全長は105cm。
柄の部分は補修されているようですが、
たいへん良い状態で残されています。
翡翠の加工の項目を見ていました。
返信削除研磨に使うパウダーの種類については吉野ヶ里の見学に行ったときからの課題でした。
乾燥したパウダーと考えていたので思考が停止状態になっていましたが、明日の祖母の正月命日のために包丁を研いでいて気づきました。
砥石の汁を使ったのでは。
これだと、簡単にマイニュートな粒度を確保できます。
研磨剤の保管も簡単です。
貫通棒も形状にこだわる必要は無く、単純な丸棒で可能です。
このような考え方はいかがでしょう。
源 信正
お察しのとうりだと思います。
返信削除現在でも、たとえばメノウ産地の兵庫県小浜市の
「若狭めのうセンター」では加工の実演をやっていますが
http://www.wanoa.com/articles/1760/
研磨はもちろん、原石を切る際にも鋸に泥をかけながら
行っています。(もちろん今では電動の鋸ですが)
この泥の成分によって作業の効率が左右されますので
古来からいろいろと試行錯誤が為されたのだと思います。
今では様々な粒度のアルミナの粉も売られていますので
私はそれを使っています。
刀の拭いについてはご存知だと思いますが、今私の研究課題がその、 拭いなのです。
返信削除なぜ、拭いをすると青黒くなるのか?
現在の仮説
1)乳鉢で擦った鉄粉の粒子が不均一
2)紗(水銀)金を混入
3)1)の不均一な尖った粒子が鉄の弱い部分を不均一に掘り起こし、2)の混入物溶着による、乱反射により弱い光になり、暗く見える。
4)刃の部分に着いた溶着物を撤去するために砕いた刃つや砥
で均一に研ぎ出し白くする。
私は今風の研ぎより昔研ぎのほうが鉄の働きがよくわかって好きだな。
源 信正