2011年4月30日土曜日

能面と刀

世界文化社刊 梅若六郎著
「まことの花」から部分転載 

今日は久しぶりに篠山の能楽資料館に
足を運びました
2年ぶりになりますか・・
ここを訪れる度に、能が完成された
室町時代の能面のすばらしさに
感嘆させられるのです
それに鼓の蒔絵と衣装の絵柄の大胆さ・・

能楽資料館を後にして、次は篠山の刀工
藤井啓介氏の鍛刀場を訪れました
作品展示コーナーで目にした氏の作品は
室町時代の能面の緊張感に負けていない
存在感があり、氏の力量に
改めて感服してしまったのであります
最近の氏の地鉄(じがね)
よく詰んだ古刀期や新刀期の地鉄に
劣らぬものがありますが
刃文の匂い口(刃文の幅)の見所の多さも
見事だと思います

氏の作品は玄人好みといいますか
刀を見る目がある程度身に付いている人にしか
分かってもらえない部分が多いので
ある面、損をしているのかもしれませんが
氏はそれにもかかわらず
自分の目指す方向性にブレがないのが
すばらしいと思うのです
その頑な姿勢は室町時代の能面に
通ずるものでもあるとも感じさせられたのです


12 件のコメント:

  1. 藤井刀匠の日本刀鍛錬場をお伺いし、お忙しい中、藤井刀匠のお話のなかで、学び研究を重ねてこられた谷間が深く切り込んでる関の3本杉、詰んだ美しい地鉄、優雅な美しさを醸し出すお守り刀、実力を思い切り発揮できるような(刀剣界の)社会環境作りが、御刀を愛する私たちの勤めであることをあらためて実感しました。
     キヨンドさん、藤井刀匠の貴重なお時間をいただき感謝いたします。
                源 信正

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  2. 千枚で軽く引いてみました。
    ・水をかけて、いきなりタツに引いてみました。いわれる通り見事な食いつきのいい研磨力です。
    地の部分と刃の部分がクッキリ見事に分かれます。
    新たな刃紋が表れ、小足等も出てきました。

    ・磨汁をそのままにしてみました。
    水のなかに見えていた鉄の粉が次第に茶色に変化してきます。やはり酸性。

    ・流石自然砥石です。
              源 信正

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  3. お役に立てて幸いです。
    内曇と併用するとどうなるのでしょうね・・

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  4. 内曇を軽く引いてみました。
    体重をかけて引くと言いますが、軽くかけています。
    千枚で現れた姿が消えていきます。
    その代わり虹色に光ってきます。
    内曇を長く時間をかけて引くと言いますから、
    長い時間をかけて細かくエッチングしたら、別の姿が現れるのかもしれません。
    楽しみです。
           源 信正

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  5. 連休後半、暇を見ては内曇をかけています。
    前に砥石でつけた傷が浮き出してきました。
    内曇一日引いてもサビは落ちないといわれる通り、一度千枚にもどし内曇で引くと消えました。
    人工砥石では現れない詰んだ肌が出てきます。
    気になるところを短いストロークで引いた後、刀の流れに沿って長いストロークで引き直すと内曇の砥石目もうまく隠せます。
    帽子部分は未だその形を決め切らずにそのまましています。
    斜めに切るか直に切るか、それが問題です。
    シェークスピアに聞いてみましょうか。
           源 信正

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  6. 御先祖の意向を汲むなら「筋違い」、
    世間様の目を気にするなら「切り」
    といったところでしょうか・・

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  7. http://www.emuseum.jp/result?d_lang=ja&mode=detail&s_lang=ja&itemCount=8&class=6
    ご存知 東京国立博物館武具 のページです。

    内田康夫 しまなみ幻想 のなかに
    大山祇神社宝物館 には国宝・重文の武具8割が収蔵されている
    ということが書かれています。
    気になってググッてみると確かに神社の紹介にも同じように書かれています。
    国宝 禽獣葡萄鏡(斉明天皇御奉納)
    国宝 澤瀉威鎧(越智押領使好方奉納)
    国宝 赤絲威鎧・大袖付(源義経奉納)
    国宝 紺絲威鎧・兜・大袖付(河野通信奉納)
    国宝 紫綾威鎧・大袖付(源頼朝奉納)
    国宝 大太刀 銘 貞治五年丙午千手院長吉
    国宝 牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵(護良親王奉納)
    国宝 大太刀 無銘 伝豊後友行(大森彦七所用)
    重文 紺糸裾素懸威胴丸(太祝安用の女、鶴姫着用)
    この他にも目立った国宝重文があり、東京国立博物館より多くのものがあるというのでしょうか?
             源 信正

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  8. 大山祇神社があるところは、瀬戸内海の海上ルートの
    ど真ん中。
    弥生時代は日本の中心地と言ってもよかったのでは
    ないでしょうか。
    しかも周りは当時の高地性集落がずらり。
    大山祇(積)神は鉱山の神でもあったと思われますので
    日本人のルーツと行っても過言ではないかもしれません。
    京都太秦(うずまさ)の秦氏も本拠はもっと西の
    播磨(はりま・兵庫県南西部)だったようですから。
    瀬戸内海近辺はやはり当時の日本の中心地だったのでしょう。

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  9. たしか阿多隼人の地、鹿児島県南西部の山にも
    大山祇神社があったような・・・

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  10. やはりありましたね。
    こちらの方が本家に近いでしょう。。
    http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kagoshima/kagoshima/post-212.html

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  11. 本家の本拠地は金峰山近辺でしょうね・・
    http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=31.473182,130.401878&spn=0.133816,0.178185&z=12&brcurrent=3,0x353e6962b9a8db2f:0x73f5e742e0ab0328,1

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  12. 金峰山近辺は大学時代夜な夜な走っていたところです。
    その頃から歴史に関心を持っていたらもっと詳しい情報を集めていたのですが・・・
    古代の神社は有力者の墓、商業・農業の鎮守あるいは鉱物開発の拠点と考えるのがいいと思います。
    現在地でなく本来の位置を知ることが肝要かと思います。
    金峰山の大山祇神社の近辺には錫が採れる。
    国宝とは言いませんが古代史に関わるものが宝物にあればいいのですが。
          源 信正

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