2011年9月3日土曜日

不思議な符合 飛騨の位山と芦屋市 その3

8月12日に述べたように、兵庫県芦屋市には打出小槌町とい地名があるのですが、打出の小槌といえば七福神の一神である大黒天が持っているものでもあります。
大黒天は元はインドの神とされていますが、古代出雲の最後の王とも云える大国主命習合されています。これは平安時代以降のことのようですが、なぜ習合されたのか興味が湧くところであります。
大黒天の持ち物としてもう一つ、左手で背に担いでいる袋がありますが、これは元々は砂金を運ぶためのものだったという説や、銅鐸民族である古代出雲国が古墳文化を持った民族により奴隷化された際に、古墳造営のために土運びに使ったという説などがあります。

この銅鐸は芦屋市の打出小町から出土しているものですが
表面に流水紋のある古形銅です。
高さ45.5cm 重さ4.7kg
因みに、大宰府の観世音寺には日本最古とされる大黒天立像(木造)が宝蔵されていますが、この像では小槌は持っていません。顔も福々しい笑顔ではないので、インドの神と習合される前の大国主かもしれません。
大黒天と習合された後は右手に小槌を持っていますから、これを使って山で採集した鉱物を入れていたということも考えられます。ということは、12日に紹介した岐阜県飛騨の位山(くらいやま)の岩に刻まれた槌の形をした古代文字と大国主命は何らかの関連があるのかもしれません。
先に述べたように、古代出雲国は銅鐸民族でしたが、それと同時に亀をトーテムとする民族でもありました。出雲大社をはじめ出雲の神社に亀甲紋の社紋が多いのはその名残と云えます(参照)。
これは敷衍して、亀という字が含まれる地名にも名残があるとも云えます。
私が7歳から18歳まで住んでいた福岡県の亀山という地名もそうだと思いますが(参照)、それを裏付けるようにこの地域では古代から金属精錬や加工が行われていました。また、以前紹介した春日市も近くにあります(参照)。このように、亀をトーテムとする銅鐸民族は当然銅の精錬や加工にも通じていたのですが、その後、大国主の国譲りの神話から伺えるように、新たに日本列島に入って来た民族により征服されす。それが白鳥をトーテムとする民族なのですが、これはおそらく朝鮮半島からやって来た最先端の製鉄技術と鉄加工技術を持った民族だったものと思われます。天日槍(アメノヒボコ)はおそらくこの民族だと思われますが、この民族が日本の古墳時代を創り上げていくわけです(参照)。
こういったことを考えてみると、日本で古くから歌い継がれてきた「かごめ かごめ」のなかに、「鶴と亀がすべった」という表現がありますが、これは意味が深いことになります・・

新國民社刊 鹿島曻著「倭と王朝」から転載
北海道で発見されている殷字が刻まれている石
小樽市と余市の境界付近で
発見されたということですが
鹿島曻氏はこの地域を殷をルーツとする
辰国の北限としています

沖縄で発見されたもの
同様のものが他にも発見されています

宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する
天岩戸神社で発見されたとされる岩蓋
文政四年(1821年)に発見されたということですが
小型の箱式石棺の蓋(ふた)石だったということです
石棺内には銅鏡七面と四個の土器が副葬されていたということで小型の箱式石棺ということと副葬品の銅鏡に大鏡が含まれていることから
時代は弥生時代後期頃と思われます
文字が刻まれた蓋石と石棺が
同じ時代とは限りませんが・・・

この岩戸文字が発見された後
明治八年(1875年)、大分県で上記(うえつふみ)
発見され、そのなかの文字の解説により
この岩戸文字が解読されたということです

明治八年の読み
それみきみ みつみ お
ほえこれのうつはわ
ほのあかりのみことこれのあめのいわとに
こもりますときにあそひのそなえ
にまつるひとのおおみかかみわ
すめおおみかみのみたまとしてあめ
のいわやとにのこしもちいたししなる
をあめのいわやどのこれのきしにい
わもてよひらにたてて
かくしおくなり

昭和7年に記された
「高千穂古文字伝」より
田近長陽氏による読み
ソヂ ミキミカミツミカミケ
ミカトヲ(モ)ホエ コレノウツハワ
ホノアカリノミコトコレノ アメノイワトニ
コモリマストキノアソビノソナエニマツル
ヒトツノオ々ミカミワ
ハメヲ々ミカミノミタマシテ
アメノイアワトニノコシモチ イダシナルヲ
アメノイワヤドノコチノキシニ
イワモテヲヒラニタテ
カクシオクナリ

参考として
藤芳義男氏による解読
それ 神酒みき 甕みか 水みづ 甕みか
神食みけ 甕みか と覚おぼえ 是これの うつは
火明命ほのあかりのみこと これの天あめの岩戸いわと
に 籠こもります時ときの遊あそびの供そなえ
に奉つる 一とつの大おお御鏡みかがみ
すめ大御神おおみかみの御霊みたまとして天あめ
岩戸いわとに残のこし持もちいだししなるを 
あめの岩屋戸いわやどの 是これの岸きしに岩いわもて
ひらに立てて かくし置くなり

次に高橋良典氏による解読
祖母ゆ開かれつる神避るヶ戸を掘り
これに無戸籠うつくま
火明ほのあかりの御代みよに 天之岩戸へ籠こもります
時に阿蘇火のそば地震なゐへわたり
タカヒメの祖おや ツカヤリは
皇祖すめをやゆかりの蓋ふたつくりて
天之岩戸へ逃れき
地怒り唸うなるを 天之岩戸屋殿籠り
救へ岩守りて 生きながらえたり
由来いはれを吐けり

平中芳明氏による解読
それ みきみ みつみ お 
(相手側、満気身、密身、緒)
そちらは、気が満ちた御身、
きめ細かい綿密な御身、魂を繋ぐ緒

ほえ これの うつは わ 
(誉、恵、こちら側、打つ、葉、和)
秀でた叡智の、こちらの、
心を打つ言葉が上手く混ざる

ほの あかりの みこと これの あめのいわとに
 (誉、証、尊、こちら側、天岩戸)
秀でた証の尊 こちらの天の簡単には
動かない磐戸に

こもります ときに あそ ひの そなえ
 (籠、時、彼方側、秘、備)
籠ります時に、こちらからもそちらからも
遠いあちらの密かな備えをする。

に まつる ひとの お おみ かかみ わ
 (二、祀、尊、緒、御身、加佳味、和)
再び祀る時、尊き人の魂の緒、
御身に要素が加わり良い趣きに、
上手く混ざり和合する

すめおおみかみの みたま として あめ
皇大御神の御魂として

のいわやとに のこし もち いたし しなる 
(岩屋戸、残、保つ、至、品)
天の岩屋戸に保管して成熟するように

を あめのいわやどの これの きしに い 
(天岩屋戸、こちら側、居)
天の岩屋戸のこちらの側に居て

わ もて よひらに たてて
 (和、以て、四方、盾)
協力して四方を護って

かくし おくなり (隠、置)
人の目にふれないようにして置く

あります

4 件のコメント:

  1. http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/gengokenkyu/mojishico/kamiyomojico.htm

    解読に使った豊国文字を見つけました。

    現物の所在は不明ですが、拓本が宮崎県庁本館の向かい宮崎県文書センターにあるようです。3年前(2008) 7月31日まで展示していたそうです。
    昔から50音での発音をしてたのでしょうか?

    そうすると、中国、朝鮮、などとは全く違う言語体型となります。
    では、日本語は日本列島において独自に発展したものだろうか?

          源 信正

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  2. 古代文字といっても時代により様々あったようですが
    幕末から明治にかけて捏造されたものもあるという説も
    無視できません。ですが、すべてがそうであるというのも
    極論であると思います。
    上に紹介した沖縄で発見された線刻図は、同様のものが
    北海道のフゴッペ洞窟でも発見されています。
    これが発見された際には当時の言語学者金田一京助が
    これは誰かによる近年の落書きであると断定し
    世を騒がせたことがあるようですが、後に
    他の国でも同様のものが発見され、落書きではないことが
    判明しているようです。
    ファイストスの円盤文字をはじめとして同様の文字は
    各国に多く存在しているようです。
    ですから、こういった文字を使っていた民族が
    ちょうどソロモン王が世界各地にコロニーを作っていた
    ように、世界中を回っていた可能性もあるように思います。
    HPでも述べているように、石器時代から海上交流は
    盛んに行われていたということは動かしがたい事実と
    思われるので、その可能性は大きいと思います。

    そういったことから、石川三四郎や木村鷹太郎といった
    研究者を嚆矢として、古代の世界の中心は日本だった
    という説も多く出されているのではないでしょうか。
    トヨクニ文字にしても同様のものはインドでも岩に
    刻まれたものが発見されていたり、
    契丹古伝には紀元前の中国大陸は日本人の祖先と同じ民族が
    支配していた、というようなことも書かれてあるので
    そう主張したい気持ちはよく分かります。
    ですが、見方を変えれば、そういった縄文時代の頃と
    思われる文化が日本には延々と残っていて
    他の国では疾の昔に変わってしまっているという
    ことも考えられます。
    その一つに「ア・イ・ウ・エ・オ」の
    50音もあるのかもしれません・・

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  3. 付け加えておきますと
    「ア・イ・ウ・エ・オ」の50音や
    「い・ろ・は」歌は平安時代になってできたものと
    されているのですが、それ以前は弥生時代の頃から
    八母音だったとされています。
    言語学者の大野晋氏もこのことから、上記(うえつふみ)
    偽書説を主張していたようですが・・
    上記は鎌倉時代、貞応二年(1223年)に豊後大守の
    大友能直によって編纂されたということになっていますので
    この頃には八母音ではなく五母音だったということになります。
    ということは、トヨクニ文字の元であるインドの
    ブラフミー文字やカロシュティ文字は八母音なので
    おそらくトヨクニ文字も八母音だったものと推察されます。

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  4. 自分なりに解読してみましたが、不明な文字がいくつも出てきます。
    解釈が少し異なりますが、素直に藤芳義男氏の解読に従いたいと思います。

    石棺内には銅鏡七面と四個の土器が
    副葬されていたということで....

    御神酒 御神食 御水 それと御明かり(油) 用の土器を八百万の神々が天岩戸に集まる時のために備えておきます。

    七面の鏡のうち一つは皇大御神の御霊として天岩戸
    に置かれてあるものを
    天岩戸の近くに4枚の石板をたてて(石棺)の中に入れておきます。
    高貴な方の奥様がお亡くなりになったときに、蓋石に刻んで
    置かれて土を被せてあったものが、長い月日のうちに表土が流され、露出したしたのでしょう。

              源 信正

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