2020年8月10日月曜日

画家、中村正義による写楽の考察


先日紹介した画家、中村正義は、日展を脱会し無所属の頃江戸時代の画家、東洲斎写楽の研究にも没頭していて、その研究の成果として1970年(昭和45年)「写楽」と題してノーベル書房から出版されています。

写楽については古今様々な研究者によって説が公表されていますが、画家の視点で述べられているものは皆無ということが中村正義は不満だったようで自ら名乗りを上げてしまったのです。

中村正義がまず主張したことは写楽は北斎など他の画家による代筆ではないということ。そのことを細かく的確に指摘しています。これらの事例には、なるほどと納得させられてしまうのです。

まず、これは東洲斎写楽の歌舞伎絵の部分ですが、手や足の描き方はたいへん難しく、類型的になりがちで、誰かがこれぞといった描法をあみ出すと、それを踏襲するのが普通になってしまう。と中村正義は述べています。これなどは画家ならではの見解、と感心させられます。。

ですから手や足の描き方には、これが写楽であるという決定的なものはないが、足の第一関節の盛り上がりなどは写楽独特のものを感じていたようです。写楽が描く耳はさらに凡庸でむしろ、これはマズイとも言っています。

ただし、目や眉の描き方は多様で、特に目の描き方には写楽独特のものがあると指摘しています。
写楽の絵は刷り物がほとんどで、寛政六年(1794年)に10ヶ月ほどの期間で140数点作られたとされていますが、それらの目の描き方はすべて違っている、と言っても過言ではないほど多様だったと
中村正義は述べています。

しかし描法は一貫していて、目の輪郭を薄墨で描き、上まぶたの線だけ濃い墨を入れ下まぶたは薄墨だけか、または全く描かない。

それから、これは首の後ろ、うなじ毛の生え際に数本描かれた「おくれ毛」

これは写楽独特のものだそうです。



また、中村正義は1969年(昭和44年)45歳のときに徳島県を訪れていますが、その時に取材に協力してくれ新聞記者が写楽の画集をめくっていてこの絵を見て、当時の阿波踊り名人である姓億政明氏にそっくりだと驚いたのだそうです。

この人が姓億政明氏YouTube動画ご覧下さい。リンクした動画2003年のもののようですが、動画の説明によると姓億氏79歳の頃。中村正義が取材した年は1969年ですから、当時姓億氏は45歳頃となります。さっそく姓億氏に会わせてもらったら、お互いにビックリだったそうです。写楽の絵を見せてもらった姓億氏はこんなものは初めて見た、と自分の専売特許を取られたように驚いたということです。その後、取材でいろいろ徳島の人に会うと写楽の絵に似ている人が多いのに驚いたそうです。


それから、阿波(徳島県)の人形浄瑠璃の木偶(デク・deku)を見て、その多様さと表情は写楽の絵にそっくりだと中村正義は指摘するのです。


これらのことから、写楽は一般的に言われているように徳島県出身ということは間違いないだろう結論付けます。ただし、江戸時代の文献「浮世絵類考」に記されている「写楽、俗称斎藤重十郎兵衛八丁堀に住す阿波候の能役者也」という記述には疑問を呈し、この記述は浮世絵類考の成立時にはなく、幕末慶応四年の最後の改訂版「新増補浮世絵類考」にしか見られないのはおかしいとするのです。それから、浮世絵類考の他の役者で絵を描く俳優・中村慶子の項では「歌舞伎役者・中村富十郎なり画を善くして英慶子と画号す」と記載されている例を挙げ、写楽が能役者もやっていた画家なら、そのように説明されているはずである、ともするのです。

阿波藩の資料では寛政四年(1792年)の「御役者」の最後の項に、江戸詰めの斎藤十郎兵衛の名があり「徳川礼典録」の文化十三年(1816年)の能番組に万作弟子斎藤十郎兵衛という記録があるそうですが、これらの名と写楽が同一人物とするのは早計であるとしています。加えて、能役者という読み方も漢文読みで「役者をよくする」と読む方が正しいのではないか、とするのです。同じような例として、実際に江戸時代の記録に能相撲と書かれているものがあり、これは「相撲をよくする」と読み下します。ですから、もし仮に写楽が斎藤十郎兵衛であったとしても能役者ではなく余興などで役者をよくする者くらいの意味ではなかったかとするのです。

そこで中村正義が注目したのは、写楽が描いている着物の柄で


このような着物の柄を描く数人の専門家に見てもらったところ、かなり熟練した職人でなければこのようには描けない、と口を揃えるのだそうです。

この絵の袖口に数本引かれた平行線は写楽独特のものだと中村正義は指摘しています。それから、柄の描き方が蒔絵のように見えるのものがあるのも写楽独特のもので、中村正義はそこに注目します。


中村正義は徳島を訪れたときに、たまたまその地の篤志家にこの蒔絵makieの印籠inrouと

この硯箱suzuri-bakoを見せてもらい、写楽はこの蒔絵の下絵師だったのではないか、と直感するのです。とくにこの梅の木の枝や花の描き方は写楽独特のものがある、
と指摘しています。このあたりは画家らしい発想で、興味深いところです。この印籠と硯箱は観松斎作と伝えられているものですが、この蒔絵師は徳島、阿波藩のお抱えだったようです。

画像左は観松斎作の印籠、右は写楽が描いたもの。この二つの柄の描き方の共通性を中村正義は指摘しています。

これは写楽が描いた着物の柄の上に観松斎作の印籠を重ねて撮影されたもの。これにも共通性があるとしています。その他に中村正義はいろいろとつぶさに比較しているのですが、署名の字体や落款rakkan、花押kaouにも共通性を見出しています。これらのことから、写楽が若い頃は阿波の観松斎蒔絵工房の一下絵師だったと結論付けるのです。これには説得力があります。

最後にこの絵は、中村正義が写楽の肉筆画である、と極めたものですが写楽の作品はほとんどが刷り物(版画)で肉筆画は描かなかった、とされていることにも、同じ画家としてそのようなことはあり得ないと反論するのです。以下の絵は中村正義が写楽の肉筆画と極めたもの。


これは扇に描かれたもの。

当時、新発見とされた「阿波にわか(阿波踊りの原形)」の肉筆画。
これも中村正義は写楽が描いたものに間違いない、としています。

中村正義が写楽が描いたと極めた版本、黄表紙の絵。これは写楽版画を出版した蔦屋が写楽版画を出す以前に出したもの。中村正義は蔦屋が写楽を見出だして最初に与えた仕事だろう、と推測しています。

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