弥生時代の始まりを紀元前1000年説を採ると、
この頃ニギハヤヒ族が日本にやってきた可能性が
あるような気がします。世界史ではこの頃バビロンの覇権が
イシンからアッシリアに移り、これに対抗してカルデア人
(アラビア海の海人)がイシンの王族を中国に亡命させ
萁子朝鮮をたてています。それに伴い近辺では様々な
軋轢があったことが想像されますが、当然その流れが
日本列島に及んだ可能性もあるものと思われます。
紀元前700年頃には九州の国東半島で製鉄遺跡が
発見されているので、これはニギハヤヒ族がやって来ている
可能性大です。そのおよそ600年後、紀元前100年頃に
銅鐸文化が始まったとされています。
北海道と沖縄を除き、全国的に分布している弥生時代の
遺跡の中で、銅鐸、銅剣、銅矛などを持った青銅器文化
というものは九州から近畿に集中しているのが特徴的です。
ですから弥生時代の始まりは製鉄技術を持ったニギハヤヒ族が
日本列島に入ってきたのを嚆矢とし、その後西日本に
青銅器文化を持った猿田彦族が入ってきたという
図式を描くことができそうです。
ついでに述べておきますと、天日槍は3世紀から4世紀にかけて
日本にやってきたものと思われます。このときには、朝鮮半島の
当時の最先端の鉄加工技術や、それまで日本にはなかった
高温で焼く須恵器を作る技術を持って来たとされています。
この頃ニギハヤヒ族が日本にやってきた可能性が
あるような気がします。世界史ではこの頃バビロンの覇権が
イシンからアッシリアに移り、これに対抗してカルデア人
(アラビア海の海人)がイシンの王族を中国に亡命させ
萁子朝鮮をたてています。それに伴い近辺では様々な
軋轢があったことが想像されますが、当然その流れが
日本列島に及んだ可能性もあるものと思われます。
紀元前700年頃には九州の国東半島で製鉄遺跡が
発見されているので、これはニギハヤヒ族がやって来ている
可能性大です。そのおよそ600年後、紀元前100年頃に
銅鐸文化が始まったとされています。
北海道と沖縄を除き、全国的に分布している弥生時代の
遺跡の中で、銅鐸、銅剣、銅矛などを持った青銅器文化
というものは九州から近畿に集中しているのが特徴的です。
ですから弥生時代の始まりは製鉄技術を持ったニギハヤヒ族が
日本列島に入ってきたのを嚆矢とし、その後西日本に
青銅器文化を持った猿田彦族が入ってきたという
図式を描くことができそうです。
ついでに述べておきますと、天日槍は3世紀から4世紀にかけて
日本にやってきたものと思われます。このときには、朝鮮半島の
当時の最先端の鉄加工技術や、それまで日本にはなかった
高温で焼く須恵器を作る技術を持って来たとされています。
嚆矢???と思い早速辞典をひっくり返しました。
返信削除かぶら矢 物事の始まり。・・・なるほど。
キヨンドさんの文を読みながらあらためて韓国ドラマのうまい視点に感心しました。
朱蒙のなかに、モパルモという鉄器職人が出てきます。容姿はサル顔です。
朱蒙が高句麗建国の後、一時王妃でもあったソソノは一族そしてモパルモを連れて、南の肥沃な土地に移っていく。
その土地がどことは言わないところがいいですね。
感情移入に伴う情報操作・・・うまい方法です。
日本の女性たちは韓国ドラマをドラマと捉えずに、史実としてとらえてるきらいがあります。かなり危険信号。
国家は、国家にとって危険人物、危険思想を抹殺するために史実を創作し、文書化する。
抹殺されそうな思想はこれまた、上手に文書として隠す。
どちらも史実だと思います。
歴史は、後世の人々が判断するもの。
その当時の人々の気持ちになって考えるか、後世の判断基準に従って考えるか、迷うところです。
ター様への返信に書きそびれたところがあります。
鑑定に同行された広井様の言葉です。
”刀を殺すのは簡単です、生かすのはとても難しい。”
鑑定で偽物としてしまえば、その御刀は所有者の保護の対象からはずれていく可能性があり、最悪はその、存在が消滅する ということです。
また、刀工たちは日々精進して作刀をしていたと信じていますが、中には不心得者がいた可能性は否定できません。
しかし、偽物と鑑定した中には作者が写しのために作刀したものがあった可能性も否定できません。
それで、その判断は未来に託してもいいではないかという考え方を示してくださいました。
様々な可能性を掘り起こすのが今私たちに課せられた課題だと思います。
源 信正
朱蒙、鉄器職人、サル顔・・
返信削除まさにサルタヒコですね。
猿田彦は高句麗系という説もありますが
おもしろいことに、祀られている神社は新羅系が多いのです。
これなども、時代が下るにしたがい、その時々の権力者の
都合のよいように変えられている証拠ではないでしょうか。
世の中で尊敬されている神は自分の祖先なのだと・・
二か月ほど前、丹波守吉道を見せてもらったことがあります。
これの上身は京丹波後代の吉道と思われるのですが、
中心(なかご)は大阪丹波初代の字体で銘が切られていました。
兵庫県支部の方々に意見を伺ってみると、中心の厚みが
異様に薄く、銘ぶりもおかしいので、偽名の可能性がある
ということでした。
こういうふうに、上身の出来は悪くはないのに
刀剣業者の都合なのか、値段が高い銘に変えられている
という刀も多く存在するようです。
我々が使う鉋でもそれに似たことが為されていた時期が
ありました。
鉋身に玉鋼と刻印が打たれているのですが、実際は玉鋼ではなく
安来鋼の青紙や白紙が使われているのです。
青紙でしたらグラインダーで火花を出せばすぐに判別できますが
白紙だったら同じ炭素鋼ですから、火花を出したくらいでは
判別できません。
売らんがためにこういったことまでしていたのです・・
さすがに今ではそういったことはないようですが、
それらは今でも出回っていますし、以前私もそれに
騙されたことがあります。
残念なことに、この業界は騙された方が悪いようなのです。
猿田彦というのは、「猿田」という土地に住んでいる男王と考えるのが妥当と考え、「猿田」という地名がないか調査してみました。
返信削除ニギハヤヒのキーワードから遠賀物部の出身地と思われる遠賀川のある旧筑前国の地名をまずは調査してみました。他県も調査予定ですが時間がかかりそうです。
結果は次の通りです。
1.福岡県糟屋郡須恵町猿田
2.福岡県糟屋郡上須恵町猿田
3.福岡県福津市畦町猿田
4.福岡県北九州市八幡西区藤田猿田
1,2項は、須恵川水系ですが、宇美川に合流し、最終的には多々良川に合流します。
1,2項の場所から、西へ約4kmは糟屋郡志免町南里「タタラ」で、タタラ地名があります。
御参考まで。
高口定雄(茨城県日立市)
ご教示ありがとうございます。
返信削除時代によっては九州北部はサルタ国とされていたことの
名残りと思いたいところです・・
返信削除兵庫県篠山市の内場山墳丘墓出土の鉄鏃は鑿の頭のような形をしており、
方頭鏃という呼び方があるようです。
そのことについて、次の文献情報がありました。ご参考まで。
13年ほど前の文献なので、現在と知見が変わっているかも知れませんが。
1.方頭鏃群 弥生時代後期に出現してから、中心となる形式は変化しながらも、古墳時代全期間のみならず、奈良・平安時代も存続する鏃である。鏃身上部の方頭のみに刃があるのが特徴である。
2.北部九州を中心とした九州地方では、方頭鏃、圭頭鏃がきわめて濃厚な分布を示し、この形式の鏃のみで構成される場合と、ほかの形式とセットになる場合がある。
3.とくに、方頭鏃は、高句麗、新羅系の遺物として朝鮮半島全域に濃密に分布するようであり、九州地方を含めた一大分布圏が形成されている。
出典: 考古資料大観7 弥生・古墳時代 鉄・金銅製品
千賀久・村上恭通 責任編集
小学館 2003年12月20日発行
高口定雄(茨城県日立市)
鑿頭式鉄鏃については、次のような記事もあり、じっくり検討しないと、間違いをおこしそうです。
返信削除島根県神原神社古墳に納められた副葬品
さて、神原神社古墳から出土した副葬品は、鏡だけではありません。棺の中には被葬者に副えて多くの鉄製品が納められていたのです。主なものとして、大刀、鉄剣、鉄鏃、などの武器や、鏨、錐、鎌、鋤先といった農工具類があげられます。このうち、とても興味深い副葬品に鉄鏃があります。出土したほとんどの鉄鏃は、鑿頭式(さくとうしき)とよばれる先端が鑿のように水平になった鉄鏃でした。調査の結果、この鉄鏃は、地元ではなく畿内で製作され、神原に持ち込まれたらしいことがわかったのです。
高口定雄(茨城県日立市)
ご教示ありがとうございます。
返信削除島根県から出土した鑿頭式鏃が
「地元ではなく畿内で製作され、神原に持ち込まれたらしいことがわかった」
というのは、どういう判断基準でわかったのか興味が湧くところです。
それと、素朴な疑問として、鑿のような平たい形状の鏃は真直ぐ飛ぶのだろうか・・
と思ってしまうのですが、実際に射るような実験はなされてたのか、
これも興味が湧きますね。