大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)は、壬申の乱に先立ち吉野(奈良県)に隠棲したとされていますが、舎人(とねり)を通じて美濃(岐阜県)や尾張(愛知県)の地方豪族との連絡を密に取り、武器や兵力の増強を図っていたともされています。そして、天智天皇が崩御するやいなや近江(おうみ・滋賀県)に攻め込み、天皇の皇子である大友皇子を自殺に追い込んで壬申の乱に勝利し、天皇に即位したことになっています(673年)。
この一連の出来事のなかで、大海人皇子が吉野に隠棲したことについては、歴史家により様々に考察されていますが、私が興味深いのは、古代吉野の地は神武天皇東征譚の舞台にもなっていて、大阪湾の草香(くさか・日下)の地に上陸したものの戦いに敗れ、痛手を負った神武が逃げ延びたとされる地でもあるということです。
その地で神武はかくまわれて、大海人皇子と同様に兵の増強を図ったとされています。ということは、当時(弥生時代~古墳時代と思われる)の吉野には神武と同族の民族が住んでいた可能性が考えられることになります。
吉野の地には国栖(くず)というところがあり、大海人皇子はこの地にも足を延ばしているようですが、国栖は隼人や土蜘蛛、熊襲などと同様の正史側から見た蛮族とされています。ということは、
大海人皇子も同族ということが考えられるわけです。
また、大海人皇子が美濃や尾張とも関係があったということは、その地も同族だった可能性もあるということも考えられます。
滋賀県から出土している古代の木製弓
大阪市立博物館刊行
「出土木製品にみる人の知恵」図録から部分転載
されるもので、右の弓は弥生時代のもので
松原内湖遺跡出土のもの
どちらも魏志倭人伝に記されている
「兵には矛・楯・木弓を用う
木弓は下を短く上を長くし
竹箭は鉄鏃あるいは骨鏃なり」
という内容と合致し、
魏志倭人伝が記された当時(2世紀~3世紀頃)
日本列島では主に現在の和弓と
同形のものが使われていたようですが
それが縄文時代からあったということに
驚いてしまいます
因みに、これは弥生時代の銅鐸に
鋳込まれた図ですが
弓は下を短く、上を長くして使っています
湖西線関係遺跡発掘調査報告書/1973 を調べていたら
返信削除http://wwwsoc.nii.ac.jp/historbot/zassi/12-1/12-1_p15-28_kudo.pdf
を見つけました。
磨製石斧、鉄製斧で木をきるのに何回叩くかを真剣に科学した教授がいました。
データーは綺麗な二次曲線になっていますが、実際に作業した学生さんたちは次の日腰が立たなかったでしょうね。
源 信正
興味深いデータですね。
返信削除クリの木が磨製石斧で伐採しやすいというのは以外でした。
実験の参加者は男女30名で1本の木を数人で交代で
伐ったということですので、グループにより結果の巾が
あったということは想像できます。
参加者のなかには、その後ほんとうの樵(きこり)になった人もいたりして・・・