16日に紹介した
ムリヤ・ゴンド族の
鹿踊りの写真を
掲載するにあたり
ブログのご本人に引用の
お願いをした際
ご厚意で他の写真も
お送り頂いたのですが
その内の1枚を見て
おや?と思ったのです
この鹿踊りは
鹿狩りの様子を題材に
踊られるということで
場面は
「人々が鹿を崇める場面」
「神官らしき人物が狩猟を取り仕切る場面」
「狩人が弓矢で鹿を狙う場面」
などがあるということです
これは神官と思われる
人物が持っている
石斧だということですが
これに刻まれている
魚の形状にドキリとしたのです
これと同じ形状のものが
正倉院に収められているのです
これがそうです・・
正倉院には水晶・琥珀・
犀角・瑠璃で作られたもの
があるということですが
これは瑠璃・ガラスで
作られた魚形の腰飾りです
そしてこれは犀角
サイの角で作られた腰飾り
これは琥珀の腰飾り
以上、正倉院展の
図録から引用しました
この図録には水晶のものは
紹介されていませんが
正倉院が建てられた目的は、
東大寺を建立した聖武天皇の
崩御後、后の光明皇后が
遺品を東大寺に寄進し、
それを保管するためであった
とされています
ここで不思議な
符合があるのですが
光明皇后は鹿の胎内から
生まれたという
伝説があるのです
奈良の春日大社と鹿は
対になっているようなものですが
これは春日の神が鹿に乗っ
て鹿島から奈良へやって来た
という伝説が
元となっているようです
ということは、そこには
中臣氏が浮かんでくることになり
中臣氏の祖は天児屋根命と
されていますから
卜部うらべということになります
つまり光明皇后は鹿の肩甲骨を
焼いて占う鹿卜を専門にしていた
氏族の出ということになるのです。
鹿の皮は古代では鑪たたらの
鞴ふいごに使われていて
製鉄には必要不可欠な
ものでした
古代インドには
ウーツ鉄を作り出した
優秀な産鉄民族が
優秀な産鉄民族が
いたようですから
インドの鹿狩りの踊りは
そのことと関係が
そのことと関係が
あるのかもしれません
私の故郷は博多湾の近くですが
その東端にある
志賀島(しかのしま)は鹿の島でもあり
その島にある志賀海神社には
奉納された鹿の角を保管しておく
鹿角堂があります
私が生まれ育った町の近辺は
古代は金属精錬あるいは
鋳造の地でありました
(参照)
16日に鹿踊りの写真を
紹介したのには訳があって
この写真を見たとき
私は日本書紀の
応神天皇の巻の一云の条に
記されている
「角の付いた鹿革を着た人々が
海に入っていた 云々・・」
という件を思い出したのです(参照)。
角がある人について
記された箇所は他に
垂仁天皇巻の一云条にもあり
そのツヌガノアラシトという
人物は天日槍のことと
されていますが
もし応神天皇の巻に
記されている人々と
天日槍が同じ民族だとしたら・・
と想像が膨らむのですが
なんと、古事記では
なんと、古事記では
応神天皇の母とされる神功皇后は
天日槍から六代目の子孫にあたる
としているのです
天日槍の時代は5世紀頃と
思われますので
古墳時代中期で畿内に
大型の前方後円墳が
造られた時代です
天日槍集団は冶金、鍛冶、
土木、木工、
須恵器(高温で焼く焼物)など
当時の最先端の技術を持っていたようですが、
朝鮮半島の新羅からやってきたとされる民族が、
インドの習俗を持っているということになれば
話はややこしくなってきます
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