2010年7月28日水曜日

不思議な符合(隼人と錫)その2

錫石は日本でも産しますが、産地はそれほど多くありません(参照)。丹波にも2カ所ほど産地があり、紹介したサイトで説明されている明延鉱山は、発見されたのが平安時代初めとされていますが、それ以前にも鉱石は何か掘られていたかもしれません。ですが一応、古墳時代以前には掘られていなかったとしておきましょう。
丹波のもう一ヶ所の産地は京都府亀岡市稗田野行者山にあります(地図参照)。この近くには大谷鉱山がありますが、そこは大正時代からタングステンを採っていたところなので、古代の錫の産地とは関係はあまりなさそうです。
問題は行者山の錫石です。行者山と名前が付いているくらいですから、古代から鉱石を求めて人が入っていたものと思われます。それから、その地に鎮座する稗田野神社です。この神社の由緒はかなり古そうで、また説明されている裏側には他の事実が隠されているような気がしてなりません。
それもそのはずで、この地、口丹波でもある亀岡市は隼人との深い関係があったのです(参照)。その隼人発祥の地とされる鹿児島県にも錫石の産地があるのは偶然とは思えないのです。



この地図は兵庫県篠山市中心部の
平安時代頃の郷域想定図です

4 件のコメント:

  1. 学生時代は鹿児島にいました。
    薩摩隼人の隼人は北部の隼人のことだと思っていました。
    大隅(鹿屋)隼人でなく、阿多の隼人のことを言うんですね。
    明治中期の地名変更で阿多の名前が消えてしまっています。
    北部ではなく南部地域であるのに始めて気づきました。
    近くに頴娃(えい)という地域があり、その地域で話される薩摩弁は特殊で(頴娃語)といわれてました。
    また、薩摩は女性の地位が低く思われていますが、実情は女性が強く男性はお釈迦様の手のひらで孫悟空がもてあそばれてたように、女性が家をしっかり守ってたからこそ、外でのびのびできていただけなんです。
    太古の昔鹿屋(かや)の姫の時代からの女性統治の影響だったのですね。
    北部で唯一、隼人の名前が残ってるのは何故だろう?

    隼人に関連する名前が京都近辺にあるということは、やはり、九州連合軍(卑弥呼・・・宇佐、球磨、曽於、隼人)が北進して進駐した証拠ではあるまいか?
    しかし、政変で敗者となり古事記では、上手に歴史改変したのではなかろうか?
    ???ばかりで申し訳ありません。

             源 信正

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  2. もし錫石の産地と隼人が関係があるとしたら、
    私もそこのところに引っ掛かるのです・・
    何故、薩摩半島と大隅半島の付け根にあたる地域、
    阿多地域ではないのか・・しかも薩摩側ですね。
    平安時代以前にはどちらも日向に属していたようですが・・
    兵庫県でも隼人の地域は広く分布しています。
    それだけ強力なものを持っていたのでしょうね。
    神武東征の出発点は鹿児島のようですし、
    神武のモデルとなっていたのがニギハヤヒだとしたら
    隼人とも繋がってきます。
    ブログにUPした古代篠山地図に余部(あまるべ)という郷がありますが
    この余部というところは金属加工など特殊な技術を持った
    集団の地域だったようです。
    もちろんこの集団はニギハヤヒと関連があります。

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  3. 古代図の草上と神田の境に村雲という地名がありますね。
    村雲は平安後期叢雲と呼ばれていたようです。
    余部で作った刀を丹波の砥石で磨き美しい刀剣を作っていたのではないでしょうか。
    日置郷(ひえ)は阿多地区がある日置とのつながりがあるのかも知れませんね。

            源 信正

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  4. ご指摘のとうりだと思います。
    5・6世紀の丹波の古墳からは立派な大刀が
    多く出土しています。
    外装の金属加工も当地で行っていたのかもしれません。
    真継という郷名も金属加工に関係しているような気がします。

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