2010年12月31日金曜日

サルタヒコとカモ氏

前回述べた葛城山(奈良県)には、神武東征以前に賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が勢力を持っていた、と
山城国風土記逸聞(参照)に記されています。後に
賀茂建角身命は八咫烏に化身して神武を導いたという有名な話になるわけですが、後の賀茂氏の元祖でもあるわけです。カモの他の当て字としては、加茂、加毛、甘茂、鴨などありますが、ここ丹波篠山にある居籠神社(いがも)参照)のイガモはカモとは関係があるのでしょうか、知りたいところです。
葛城山がある大和(奈良県)にはもう一つ三輪氏という古豪が存在します。三輪氏については「碧玉と九鬼水軍」で少し触れましたが(参照)、祖はニギハヤヒです。
つまり葛城の賀茂氏と三輪山の三輪氏は同族ということになります。
賀茂氏は出雲風土記や記・紀では賀茂神戸(かも かんべ)として記載されていますが、出雲の大国主の国譲りでは仲介役として登場しています。
前回紹介した、大和国栖(くず)の主である一言主から
派生したとされる事代主(ことしろぬし・言代主)は、出雲の賀茂神社の主祭神として祀られていますが、事代主は託宣を司っているとされていますので神戸(かんべ)の役割を果たしていたようです。





2010年12月27日月曜日

葛城山と尾張

大阪と奈良の間には葛城山(かつらぎさん)がありますが、古事記では、この山に行幸に行った雄略天皇(5世紀とされる)が葛城山の主である一言主(ひとことぬし)と遭遇する話が記されています。
この葛城国の主は大物主系の物部氏(もののべのうじ)という説があります。もしそうだとすると、尾張連(おわりのむらじ)と熊野連の祖は葛城国ということになり、大物主は
ニギハヤヒと同義ですから、前回述べた吉野の国栖
(くず)族と同族ということになります。それを裏付けるように、尾張連と熊野連は大海人皇子を支援しているようです。
新撰姓氏録では尾張連は火明命(ほあかりのみこと)を祖としていますが(参照)、火明命はニギハヤヒと同義です。
また、熊野連の熊野という地名は以前紹介した九鬼家(参照)の出自地でもあり、やはり大物主系です。

5世紀頃の東海地方は大和王権の軍事的拠点とされていたようで、日本書紀のヤマトタケル東征譚では、
ヤマトタケルに従った者として、美濃(岐阜県)の弟彦公(おとひこのきみ)、伊勢(三重県)の石占横立(いしうらのよこたち)、尾張(愛知県)の田子稲置(たごのいなぎ)、乳近稲置(ちじかのいなぎ)の名が記されています。
稲置は稲城とも書かれますが当て字はともかく、イナギとは紐を使った投石(参照)を得意とした兵集団という説もあります。日本書紀では異佐誤(いさご)と記していますが、日本語では石弾のことを礫(つぶて)とも言います。
川崎真治説によると、イサゴや石・イシは紀元前3000年頃のメソポタミアのウル語あるいはシュメール語の
アサグやアスクが語源であるとしています。

2010年12月26日日曜日

天武天皇とニギハヤヒ

大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)は、壬申の乱に先立ち吉野(奈良県)に隠棲したとされていますが、舎人(とねり)を通じて美濃(岐阜県)や尾張(愛知県)の地方豪族との連絡を密に取り、武器や兵力の増強を図っていたともされています。そして、天智天皇が崩御するやいなや近江(おうみ・滋賀県)に攻め込み、天皇の皇子である大友皇子を自殺に追い込んで壬申の乱に勝利し、天皇に即位したことになっています(673年)。
この一連の出来事のなかで、大海人皇子が吉野に隠棲したことについては、歴史家により様々に考察されていますが、私が興味深いのは、古代吉野の地は神武天皇東征譚の舞台にもなっていて、大阪湾の草香(くさか・日下)の地に上陸したものの戦いに敗れ、痛手を負った神武が逃げ延びたとされる地でもあるということです。
その地で神武はかくまわれて、大海人皇子と同様に兵の増強を図ったとされています。ということは、当時(弥生時代~古墳時代と思われる)の吉野には神武と同族の民族が住んでいた可能性が考えられることになります。
吉野の地には国栖(くず)というところがあり、大海人皇子はこの地にも足を延ばしているようですが、国栖は隼人や土蜘蛛、熊襲などと同様の正史側から見た蛮族とされています。ということは、
日本列島の先住民族とも言えるわけで、国栖の族長がナガスネヒコとされていたりしますので、初期産鉄集団であるニギハヤヒとも繋がっているということになります(参照)。そうすると、神武と
大海人皇子も同族ということが考えられるわけです。
また、大海人皇子が美濃や尾張とも関係があったということは、その地も同族だった可能性もあるということも考えられます。



滋賀県から出土している古代の木製弓
「出土木製品にみる人の知恵」図録から部分転載

左は滋賀里遺跡出土の縄文時代晩期と
されるもので、右の弓は弥生時代のもので
松原内湖遺跡出土のもの

どちらも魏志倭人伝に記されている
「兵には矛・楯・木弓を用う
木弓は下を短く上を長くし
竹箭は鉄鏃あるいは骨鏃なり」
という内容と合致し、
魏志倭人伝が記された当時(2世紀~3世紀頃)
日本列島では主に現在の和弓と
同形のものが使われていたようですが
それが縄文時代からあったということに
驚いてしまいます


因みに、これは弥生時代の銅鐸に
鋳込まれた図ですが
弓は下を短く、上を長くして使っています

2010年12月24日金曜日

砥石の不思議 その2

今回、新たに手に入れた砥石を試してみました


まずこの砥石ですが
2点とも三河産白名倉です
スケールと比較するとお分かりのように
砥石としてはごく小さなものですが
これがたいへん優れているのです
層はおそらくボタンから八重ボタンだと思われますが
右のものの方が粒子が粗いので
こちらが八重ボタンでしょうか
バン層やアツ層のような
中名倉ではないと思うのですが
反応の良さと研磨力は
手許にある他の三河名倉のどれよりも優れています
これを使ってしまったら
他のものは使う気になれません

こういった優れた大物が
昔はふんだんにあったのでしょうね・・



これは上の画像の右側のものです
裏に「岩崎選」という印が押されています
岩崎とは刃物界では著名な
岩崎航介氏とその御子息の岩崎重義氏の
ことだろうと思われるのですが
その御方の検印が押されているものと思われます



You Tube にUPした動画では
研ぎ傷がよく確認できないので
ここに紹介しておきます
まずこれは、最初に使っている人造中砥
シャプトン「刃の黒幕」grit1500の研ぎ傷の様子です




そしてこれは
最初の画像右側の三河白名倉(八重ボタンか?)




左側の三河白名倉(ボタンか?)
中砥でここまで仕上がっていると
後の仕上げがたいへん楽です






これは仕上砥の京都梅ケ畑
中世中山産の曇砥






最終仕上げとして使った
同じく中世中山産の仕上砥

仕上げ砥はさざれ銘砥
紹介されているものです

2010年12月22日水曜日

簗瀬市蔵・初刀匠の合作刀 

この刀は、このブログにコメントをいただく
源 信正さんこと簗瀬(やなせ)哲也氏の
曽祖父の簗瀬市蔵氏と祖父初氏による合作刀で
昭和三年の昭和天皇の即位を祈念して打たれたものだそうです

12月20日のブログにコメントをいただいているように
この刀には刃中に長い金筋(金線)が入っているということですが
御自身、これが金筋なのか自信がないということです
これをご覧になって皆さまどう判断されますか

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以下、簗瀬氏による説明です

簗瀬市蔵の父彦六は備前長船刀匠横山左近介源祐信(友成56代孫)の門人で、祐信が安政三年11月11日福江城下に屋敷知行を下され作刀。万延元年9月15日に五島を辞去するまでの3,4年間滞在した際に長船の作刀を学び(1854~1860)五島神社の宝刀を明治17年に鍛造した。
五島には横山祐信と簗瀬一党にのみが刀工といわれている。
五島神社の御刀はWWⅡ戦後の際、もって行かれました。
裏表に昇り龍下り龍が彫られたのでなく、研磨の時に自然と浮き上がってきたので、宝刀とされたといわれてます。
この刀を作刀したのは、私の曽祖父「源朝臣 簗瀬市蔵 信正」(みなもとのあそん やなせいちぞう のぶまさ)(刀工名 源 信正)です。亡くなる一年前69歳の作で、祖父 初(はじめ)との合鎚で昭和三年に作刀したものと思われます。
彦六は信正の父になります。

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刃中にあるこのような筋を
金筋と言ったり銀筋と言ったりしますが
金筋の定義は、鑑定の指南書などでは
「刃縁や刃中に現れる筋で
沸が凝結して黒く光り輝いている直線状のもの
屈折しているものは稲妻と称する
金筋と同様でも白みを帯びて見えるものは銀筋と呼ぶ」
とされています
とすると、この刀のように
刃文に沿って曲線を描いているものは
稲妻とする方が妥当なのでしょうか・・

人によっては、白熱電球に当てて見て
金色に見えなければ金筋とは言えない
という人もいますので
なかなか判断が難しいところではあります

私が思うところは
この筋は沸(にえ)の凝結が緩いもののように見えますので
薩摩刀によく見られる沸筋とするのが妥当のような気がします
薩摩風稲妻とでも言いましょうか・・
しかし、この御刀は匂(におい)出来のように見えます
匂出来の刀にも沸筋が出るものなのでしょうか・・
不思議といえば不思議です・・

2010年12月20日月曜日

砥石山ロード

19日は京都の東山方面へ行ってきました
ここ丹波篠山から京都に向かうには
国道372号線を南東に進みますが
途中、仕上砥石が採れる亀岡市を通過します(参照
亀岡市近辺は他にも、優れた中砥で知られる
青砥が採れる山もあります
丸尾山方面を過ぎ、京都縦貫道の千代川インターに入るため
372号線から左折し東に進みますが
その道をしばらく進むと神前(こうざき)という所を通ります
この付近も砥石山があり
以前は神前産の仕上げ砥石(参照)や
岡花産の青砥が採掘されていたということです(参照

京都縦貫道が終わると京都市西京区の国道9号線で
それを千代原口の交差点まで進み
そこを左折し嵐山に向かいます
このコースは京都の東部に行く場合の
私のお気に入りのコースです

 ここは嵐山の名所 「渡月橋
桜の時期や紅葉の時期は
大渋滞になるのでここは通りませんが
今の時期は大丈夫です
それでも日曜日なので多くの観光客で賑わっていました

渡月橋が架かっている川は桂川で
この上流は亀岡市になり保津川と呼ばれていて
そこから川下りの船が出ています(参照
亀岡市とその上流の南丹市の
川の西側には仕上砥石の産地八木乃島があり
(千代川インターの近くになります)
東側には大平、新田、愛宕山などの
仕上砥石の山が連なっています(地図参照


嵐山の観光地を抜け、東に向かうと高尾方面
途中から南に進み、しばらく行くと
左側に大きな池が見えてきます(広沢池)
この時はほとんど水がなく干上がっていました
向こうに見える山の奥が
仕上砥石の名産地梅ケ畑地区です
中山、奥殿(おくど)、菖蒲(しょうぶ)等々・・




池の北西側ですが
山向こうが、これも仕上砥石の産地
鳴滝方面になります

そこをさらに南東に進むと仁和寺、竜安寺、金閣寺と
名刹が続きます

金閣寺を過ぎ、大通りに出ると
そこは西大路通の北端にあたり
私はさらに北に進み北大路通りに入り
そこからさらに北の通り、北山通に入ります

12月の北山通はなぜか私は好きなのです
通りの途中、コーヒーで一服した後、街をウロウロし
東山の銀閣寺を目指して車を進めるのです・・
地図参照下さい

2010年12月17日金曜日

お守り刀展拝観

大阪歴史博物館で開催されている
お守り刀展覧会に足を運びました

 地下鉄の出口を出ると
間近に博物館の建物が聳えています
後方には大阪城天守閣が聳えているのが見えるのですが
後ろに立っている高層ビルに呑まれて
ちょっと威厳が消されてしまっています・・





 会場入り口の様子
せっかくなので、常設展示も見ることにしたら
エレベーターで10階まで行くように云われたので
そのようにしました
刀剣展は6階で行われているということです






 10階から常設展示を見ながら
エスカレーターで降りていくと
途中の踊り場が全面ガラス張りになっていて
このように大阪城を望むことができます





 会場内は撮影禁止になっていたので
展示の様子はお伝えできませんが
私の心に残った一振りを
ぜひ見ていただきたいと思います
(販売図録から部分転載)

これは鎌倉時代中期頃の姿をした太刀ですが
作者は岐阜県の吉田政也氏
今年、平成二十二年の新作です
全面が山鳥毛丁子刃文となっています
おそらく岡野家に伝わる国宝の一文字「山鳥毛」を
意識して打たれたものであろうと思いますが
見事でありました
研ぎも氏自身が行ったということですが
妖しいまでの存在感に
時間の経つのを忘れて見入ってしまいました
ぜひ一度手に取って拝見したいものです

その他の展示刀の受賞作は
全日本刀匠会HPで紹介されています





 それからこの短刀は
展覧会とは関係がないものですが
展示会場で販売されていた刀剣誌の
精炎vol.3に掲載されていた
天田昭次氏の作品です
見事な相州伝に息を呑んでしまいました・・





博物館を出ると
天守閣の上には月が出ていて
空の左側には、伊丹空港か関西空港かは
分かりませんが
飛び立った旅客機が間近に・・
このとき、なんとも云えない感慨に打たれてしまったのです・・

2010年12月8日水曜日

新作 小型モダン・タイプ完成

 新作の小型モダン・タイプが
出来上がりました
弦長:640mm
音出しをYou TubeでUPしました

ボディサイズ
長さ:460mm 上部幅:250mm 
ウエスト幅:205mm 下部幅:330mm

長さ:480mm 上部幅:255mm
ウエスト幅:210mm 下部幅336mm

参考までに
1864年製の弦長650mmのトーレスの
ボディサイズは
長さ:483mm 上部幅:272mm
ウエスト幅:235mm 下部幅:360mm 

























2010年12月2日木曜日

三河白名倉と中世中山仕上げ砥

新たに手に入れた砥石を
早速使ってみました

まずこれですが
京都梅ケ畑地区にある中山間府のなかで
中世(江戸時代以前)から
採掘されている坑道で新たに掘られたものです
前回のものより硬めの
最終仕上げ用のものを手に入れました
入手先:さざれ銘砥




ひじょうに硬いにもかかわらず
よく反応し、心地よく研ぐことができます











そしてこちらは
三河白名倉砥の天上層のものです



これはほとんど仕上げ砥と
云ってもいいくらいです
寛政十一年(1799年)に発行された
「日本山海名産図会」 で
三河名倉砥が仕上砥石として
紹介されているのが納得できます

2010年12月1日水曜日

手焙り形土器は何に使ったのか

先日、主に東海地方で出土している
銅鏃を紹介しましたが(参照
攻める方の武器があれば
守る方の武具もあるはずです
まず考えられるのは鎧ですが
弥生時代の鎧は、古墳時代のような鉄製ではなく
木で作られたものだったようです
それから、弥生時代には盾も使われていたようで
これも木製だったようです

常設展示されているものですが
中央部に丸いものが付いていた痕跡があります


こちらは愛知県から出土している
弥生時代の巴形銅器です
これは盾に付けられていたのでは
ないかという説もあります
そうすると、上に紹介した木製の盾と同様のものに
付けられていた可能性もでてきます

それから、裏側に付けられている金具は
後付けだと思われますが
これを取り付けるには、現在行われている
ロウ付けと同様の作業が行われたものと思われます
そうすると、このときに手焙り形土器が使われた
可能性があるのではないでしょうか


こちらは佐賀県から出土しているものですが
この鉤状の突起も後付けと思われます
これらを作るための刃物や工具を
加工する際に手焙り形土器が
使われていたのかもしれません(参照