9月10日に紹介した、篠山のヤケヤノ坪遺跡に関していろいろと探りたいことがあるので、いま古代史を洗い直しているのですが、ちょっと興味深いことに突き当ったので、忘れないうちに記しておこうと思うのです・・
ヤケヤノ坪遺跡のすぐ近くには諏訪神社があるということも9月10日のブログのコメントで述べましたが、
弥生時代の遺跡と、その数百年後の天平時代に勧請された神社とは何も関係がないということも云えるかもしれませんが、こういったことは以外と古くからの繋がりがあったりするものなのです。
10月1日のブログでは工房近くの佐々婆神社の秋の祭礼を紹介しましたが、リンクした動画で曳かれている山車は船の形をしていて、八幡丸という名が付けられています。ここにも長野県の諏訪大社の御舟祭りとの共通点があります。ということはどちらもルーツは海人(あま)系の民族ということになります。時代は弥生時代とみていいでしょう。海人には宗像(むなかた)系、住吉系、そして安曇(あずみ)系がありますが、長野県には安曇野という地名があるくらいですから、諏訪神社は安曇系です。そして佐々婆神社の山車の一つに八幡丸という名が付けられているということは、この地も安曇系と云えます。
もう一つ、滋賀県の琵琶湖西岸にある高島市には安曇(あど)川という名の川がありますが、やはり安曇系でしょう。この地は猿田彦とつよい繋がりがあり、丹波篠山と同様銅鐸民族です。高島市には白髪神社がありますが、篠山には同じ名の山があるのも何か因縁を感じます。長野県からも銅鐸は出土していますが、諏訪大社といえば祭りで使われる鉄鐸を連想します。また、安曇野は猿田彦と天鈿女(アメノウズメ)を祀る道祖神の発祥の地とされています。因みに篠山の佐々婆神社の祭神には天鈿女神が加わえられています。
それから諏訪大社で行われる御柱大祭はネパールのインドラ・ジャトラという柱立ての祭りとよく似ているという指摘があるように、あきらかにインドの影響を受けていると云えます。このことは丹波篠山にも云えて、以前のブログで紹介したように、篠山の八幡神社に古代インドと同じモチーフの装飾が施されているのは、見過ごすことができない事柄だと思われるのです(参照)。
先に紹介した琵琶湖西岸は近江京が置かれたりもしていますが、その時の主人公である天智天皇の弟とされる天武天皇は、壬申の乱後、協力しなかった隼人を
篠山に追いやったとされています。
なぜ篠山なのかずっと疑問に思っていたのですが、やはりそれ以前から隼人と篠山の繋がりはあったとみていいように思うのです。
工房の近くには日置という地名があります。この地名は隼人の故郷とされる鹿児島県にもあるので、篠山とは何らかの関係があるとは思っていましたが確たるものは掴めていませんでした。ところが先日、中村明蔵氏が著した「隼人の研究」に目を通していて、おやと思うことがあったのです。そこでは古代南九州の豪族について述べられていたのですが、鹿児島県には曽君という豪族がいたとされていたのです。それではっとしたのは、篠山の日置の北隣には曽地(そうじ)と言う地名があるのです。中村氏は「畿内やその周辺部に隼人は移住しているが、曽君が移住した形跡はない」としているのですが、曽地という地名は見過ごすことはできないような気がするのです。
それに加えて興味深いのは、篠山の曽地には古墳群がいくつか確認されていて、そのうちの一つには丹波最大の横穴式石室を持っているものもあるのです。もしこの古墳と隼人最大の豪族とも云われる曽君が何らかの関係があるとしたら、天武朝以前から隼人は丹波篠山と関係があったと云えることになります・・
篠山市曽地にある宝地山古墳から
出土している七鈴鏡(面径16,9cm)
これは倣製鏡と思われます