2011年9月10日土曜日

篠山ヤケヤノ坪遺跡で弥生時代の鉄斧出土


兵庫県篠山市西岡屋にある
ヤケヤノ坪遺跡と西岡屋遺跡の
現地説明会に足を運びました
 これは今回出土したものの中で最も注目されている、ヤケヤノ坪遺跡で発見された鉄斧の一部とされるものですが、時代は紀元100年頃だということです。
以前述べたように、この頃は北部九州王国(福岡県北部)、出雲王国(島根県)、吉備王国(岡山県)、丹後王国(京都府北部)が各地で同時に勢力を誇っていた時代で、その象徴となるものは鉄器でした。それが古代丹波の南に位置する篠山から出土したことの意義は大きいものと思われます。というのは、一般的に古代丹波は日本海側の丹後も含まれていたとされているのですが、鉄斧が出土した今回の遺跡には播磨系の土器も発見されているのです。ということは、弥生時代後期のこの方形周溝墓に埋葬されていた人物は播磨(兵庫県南部)との関係が強かったという見方もできるわけで、その人物に副葬された鉄斧も播磨からもたらされた可能性があるわけです。

それから、丹後で出土している内行花文鏡や貨泉、
陶塤(とうけん)が篠山ではまだ発見されていないというのも引っかかります。ですから篠山は播磨系だった可能性があることになり、しかもルートは西に進む篠山川沿いではなく、南に下る武庫川沿いだったということになりそうです。篠山川下流に位置する丹波市山南町では丹後系の土器が出土しているので、このあたりは丹後の勢力圏であったことが考えられるのです(参照4段目)。
しかし時代は3世紀頃とされているので、やや無理があるのですが・・。
それからこれも以前に述べたことですが、武庫川を南下するルートは、銅が採掘されていた味間から白髪岳~酒滴神社~三田市を経由して西に進み播磨に至るものです。このことはこれまで三回にわたって述べてきた「不思議な符合 飛騨の位山と芦屋市」とも関係してくることでもあるのです。

播磨系の土器


これらは地元で焼かれたもの
だということです



ヤケヤノ坪遺跡
鉄斧は周溝墓3から出土したということです 


4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

柘植久慶・・私が大好きな作家の一人であるが、彼が作品にするとき、現地に行って、その当時の風景を想像するところから解析を始める。
例えば、古戦場跡を観察する場合、林を頭の中で伐採し、地形を組み立てる。
木は2,30年で大木に成長する。大きな楠もその当時はなかった可能性もある。
西側上空からの航空写真がありますが、田んぼが広く広がっています。
田中角栄以前の航空写真があれば、日本の元風景に近いものがあるのではなかろうか と思うことがあります。
その写真を見ることができれば、破壊される前の、墳墓、砦跡などが建設された理由がもっとはっきりわかるような気がします。
    源 信正

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

航空写真に書き込まれている西岡屋遺跡の上に見える
森には古墳があり、諏訪神社もあります。
なぜこんな所に諏訪神社があるのか不思議に思うのですが
古代から信濃国(長野県)と交流があったか、
古代丹波と安曇野は海人(あま)系の同族だった
ということもことも考えられます。

航空写真の左側に縦に走っている道は
古代山陰道だったということです。
この道の先には大きな古墳が連なっており
途中、サルタヒコが祀られている居籠(いがも)神社が、
その先にはアメノウズメなどを祭神とする佐々婆神社があります。
その先には丹波最大の前方後円墳、車塚古墳があり
それを進んでいくと亀岡、京都に及びます。

匿名 さんのコメント...

京都のハモ料理・・・湖の魚でなく海の魚を京都に住む人が食べたい一心で仮死状態に強いハモが選ばれ、それを運ぶ道が整備された。
国道あるいは高速の原型は古代の連絡路であるのはよく言われることです。
前方後円墳という言葉は小学校の時に学びますが、現物を認識している人は少ないと思います。
こういう私も、宇佐で、現物を見たのがほんの5年ほど前のことです。
大きさと形状が認識できたあとは、古墳跡と見ると、そこに立ち寄って見るようにしています。そして、近くの神社に祀られている、神様の御名前を拝見します・・・キヨンドさんのおかげで、新たな物の見方ができるようになりました。
有難う御座います。
      源 信正

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

車塚古墳のすぐ脇の小山には古墳を上から見るための
展望台が整備されています。
初めてこの展望台から前方後円墳を見たときには感動しました。

宇佐・国東・臼杵の八幡神社神宝の資料集を手に入れました。