ギター製作家の視点
撥弦楽器製作家・田中清人の仕事、 趣味に関するブログ
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2010年9月7日火曜日
碧玉と九鬼水軍 その22
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これは 以前紹介した 中国 遼寧省 から出土している 戦国時代 (紀元前403~221年) の銅戈ですが はっきりとした 三つ巴紋 が見られます 同時代の遼寧省からは このような青銅器も発見されていますが これにも三つ巴紋が鋳込まれています...
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2010年7月15日木曜日
碧玉と九鬼水軍 その21
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古事記の有名な段、天照大御神が天の岩屋戸に籠った際に呼ばれた神に、鍛人 (かぬち) の天津麻羅 (あまつまら) 、 鏡を作った伊斯許理度売命 (いしこりどめのみこと) 、勾玉を作った玉祖命 (たまのやのみこと) 、鹿の肩甲骨で占いを行った天児屋根命 (あめのこやねのみこと) と...
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2010年7月12日月曜日
碧玉と九鬼水軍 その20
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前回述べた 猿田彦命と 天宇受売神を インドの古代インダス遺跡 から出土した 神官像と踊り子像に 比定する説があります パキスタンにある モヘンジョダロ遺跡から 出土している神官像 そして踊り子 とされる像 ...
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2010年7月5日月曜日
碧玉と九鬼水軍 その19
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これまでに紹介してきた、丹波篠山のニギハヤヒと関連のある地名、「 草ノ上 」と「 味間 」の間には丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳が、その西には元々は岩座(いわくら)信仰が行われていたと思われる、大変古く由緒ある佐々婆(ささば)神社が、そしてその西には丹波最大の円墳であ...
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2010年6月27日日曜日
碧玉と九鬼水軍 その18
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前回紹介した 三田市藍本 から篠山市味間にかけて、藍本の高川古墳群から出土した大刀と同様の装飾を施された大刀が集中して出土しています。篠山川沿いの山田1号墳からは金銅で装飾された大刀が、 2号墳からは 単鳳式冠頭 大刀、武庫川上流の庄境 (しょうざかい)1 号墳からは銀象嵌大...
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2010年6月24日木曜日
碧玉と九鬼水軍 その17
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ここ丹波篠山には、丹波最大級の前方後円墳である 雲部車塚古墳 があります。工房からほど近い所ですが、篠山川沿いの地域には旧石器時代からの遺跡もあるので、古代から住みやすい所だったのでしょう。 丹波篠山のように、内陸部の山深い地域では、川沿いに道があったのだと思いますが、古墳時...
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2010年6月22日火曜日
碧玉と九鬼水軍 その16
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昨日紹介した銅鏡の銘文の 「八月日十大王」を 「八月日下大王」とする説は ちょっと無理があるように思います 減筆で画数を減らしたとしても 「下」は「十」にはなりませんし 「八月日」という表現は刀の銘にはよく見られるのです 刀に年紀を入れるようになる...
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2010年6月21日月曜日
碧玉と九鬼水軍 その15
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この銅鏡は和歌山県橋本市にある 隅田八幡宮 に古くから伝えられてきたもので 現在では国宝に指定されています この鏡は日本で作られたものですが 作られた経緯が銘文として鋳込まれています 一般的には このように 読まれていますが この部分の 「...
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2010年6月15日火曜日
碧玉と九鬼水軍 その14
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6月2日に、ニギハヤヒと関連のある地名である「日下 (くさか) 」 を取り上げましたが( 参照 )、今回は「味間 (あじま) について述べようと思います。味間もニギハヤヒに関連があるのです。 2日には日下に関連がある地名として、 ここ丹波篠山 (ささやま) に草ノ上 (くさの...
2010年6月8日火曜日
碧玉と九鬼水軍 その13
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興福寺で出土したとされる三つ巴紋の軒瓦を手に入れました。 時代は室町時代と思われます。これには「東院北回廊柵周辺出土 1976年2月17日」というデータが書き込まれています。同様のもので左巻きのものが興福寺のHPにも紹介されています( 参照 )。 ...
2010年6月5日土曜日
碧玉と九鬼水軍 その12
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新撰姓氏録 には、当時 (平安時代初め) の氏族 (うじぞく) の出自や始祖が記されているのですが、その氏名には明らかに外国 (インドなど) のものと思われる発音が多く存在しています。それを姓氏録では漢字で書き記しているので注釈が必要なのですが、紹介したサイトでは読み方まで説明...
2010年6月2日水曜日
碧玉と九鬼水軍 その11
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丹波篠山出身の考古学者、福原潜次郎氏(故人)は昭和9年に出版した「多紀郷土史話」の中で、日下 (くさか) について考察しています。その説で興味深いのは、他の地域で日下と言われているのが篠山では「草ノ上 (くさのうえ) 」とされていて、この篠山の「草ノ上」が日下の起源地であるとし...
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2010年5月30日日曜日
碧玉と九鬼水軍 その10
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日下 (くさか) という地名や語源については様々に考察されていますが、古事記でも序文で、「姓 (うじ) の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯を多羅斯 (たらし) と謂ふ、かくの如きの類は本に随て改めず」と断りを入れているほどですから、古事記が編纂された当時(8世紀)でも特別な読み方だ...
2010年5月26日水曜日
碧玉と九鬼水軍 その9
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前回紹介した塩田八幡宮は、兵庫県三田 (さんだ) 市の 三輪・餅田遺跡からほど近いところにあり、その近くには 日下部 (くさかべ) という地名があります。 日下部は 新撰姓氏録 に記載されているので、元々は氏 (うじ) 名だったことが分かりますが、河内国 (かわちのくに・大阪...
2010年5月5日水曜日
碧玉と九鬼水軍 その8
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古代の日本列島周辺は石器時代から海上交通が盛んで、それに伴い様々な民族が日本に渡って来ていることが明らかとなっています。そのことを前提として、弥生時代の渡来主力民族を分類することもなされているようですが、これには多くの困難を伴い、私は誤解を受けることの方が多いような気がしていま...
2010年4月25日日曜日
碧玉と九鬼水軍 その7
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九鬼(くかみ)文書では「スサノオの命(みこと)」が重要視されていて、スサノオと関連のある 蘇民将来 説話も記されています。ということは、結論から言えば、九鬼家のルーツはインドにあるということになります。 ここ篠山の神社にもインドの影響を見ることができます( 参照 )。 さて、...
2010年4月21日水曜日
碧玉と九鬼水軍 その6
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前回述べたように、平清盛により天皇家が京都から福原 (兵庫県神戸市) に遷 (うつ) された所とされる地で、三つ巴紋の軒瓦が出土したのは何か暗示的なものを感じます。 左三つ巴紋の九鬼家は平安時代から熊野別当で、また 熊野三山の検校も兼ねていたとされていますが( 参照 )、...
2010年4月18日日曜日
碧玉と九鬼水軍 その5
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ブログを読んで下さった方から 上のような写真を送っていただきました この場にてお礼申し上げます 左右の三つ巴の軒瓦が 同じ敷地内にあったのだそうです 場所は兵庫県篠山市 この二種類の軒瓦が一軒の家に 使われていたのか知りたいところです・・・ 不思議な...
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2010年4月16日金曜日
碧玉と九鬼水軍 その4
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九鬼 (くき) 家の由来が記されている九鬼文書 (くかみもんじょ) では、九鬼家の祖神は「天豊春日命」となっています。 その31代後は中臣鎌足 (なかとみのかまたり) となっているので、天豊春日命の時代は紀元前後の弥生時代頃となるのでしょうか・・、その頃から現在の奈良県春日と...
2010年4月15日木曜日
碧玉と九鬼水軍 その3
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ここが謎の和服姿の女性が案内してくれた三田市三輪にある三輪神社であります( 参照地図 )。鳥居の紋を拡大して見てください。三輪というくらいですから三つの輪が重なった意匠になっていますが、遠くから見ると九鬼家の家紋である左三つ巴に似ているので、ちょっとドキリとしました。それから...
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