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2023年2月14日火曜日

匠家必用記 下巻 三、四、五章 読み下し

匠家必用記 下巻
三、四、五章 読み下しを紹介
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 三 宮造りの事

宮社を造ら(ん)と欲ば先其やしろの故実を尋、あく迄吟味して社の風を定べし。其形様々有といへども、両部習合ならざる社は神明造りか社造りにすべし。是古代の風なり。延佳神主曰、上古宮造りの制法丁寧にして、且(そのうえ)質素也。後世の風俗は是にたがひて花靡(び)也。心あらん人は居家、調度に至迄古代の風をしたふべし。くみもの・ほりもの造は異国の


風にして、両部習合の制なれば、習合の宮はくみ物・ほり物をするともくるしからず。自余の社は組物・彫物を用ずして造るべし。然ば神代質素の理にかなひ、番匠たる人も神の御心に合べし。名目抄にも神社にはくみ物を用ずといへり。伊勢太神宮に組物・彫ものを用ずると有て、名目抄の意を思ひ合べし。中にも延喜式に載たる由来は久しき宮社は猶以て神明造、やしろ造にして可也。然ども伊勢及其外の名高き御社は故実を用ひて造れしことなれば、ことごとくその風に似するははばかるべきこと也。只何となくしっそしやうじやう(質素清浄)にしてかざり無、ていねいに古代の風をかんがへ造るべし。是人々家造りにおごるまじきとの神教也。宮社の図あらましおくに致ぬ。考え知るべし。惣じて宮社を造るには木は桧を用べし。余の木を用べからず。神代巻に、其用当を定。及ことあけてのたまはく、杉及櫲樟(よしょう・クスノキ科)此両樹者浮宝に以為(つくる)可(べし)。


檜は瑞宮の材を以為可といへり。此故に伊勢の神宮を造るに桧を用ゆるとみへたり。今雑木を用ゆるは古法にたがへり。柱を丸くすることは上古は万質素にして、山より木を切り出し皮を削、そのままはしらに用る故自然に丸し。是に倣て今宮社に丸柱を用ること也。宮を造る番匠は祖神の血脈の番匠をえらみて、工長(たくみかしら)と定こと故実也。然を今は此事をしる人もまれなり。番匠たる人も多くは姓氏を取失い、何やら角(か)やら、わけもなきことになり行、なげかしきこと也。扨宮造に臨では清浄の家に宿すべし。又は仮屋をいとなみて、是に宿するも可也。常に清浄火を食して他の火を交べからず。又病を問ず穢悪(えあく)のことに預るべからず。不浄の人と一座をする事なかれば、慎を第一としてはかまを着して、細工をつとむべし。自然おもはずけがれに混することあらば、早く其場を引はらひ、我家へかへり、清浄になるをまちてサイクをつとむべし。



四 屋根葺草の事

神社の屋根は茅ぶきをほんしきとす。こけらぶき、或は檜膚(桧皮)ぶき、とちぶき、(な)どの中古よりはじむるじんじゃにかぎり、瓦ぶきは大ひにいむ(忌む)こと也。屋根のむねにももちゆべからず。そうじて、とり井よりうちへ入べからず。もしありきたらば、はやくとりすつべきことなりと先輩に(き)けらし。


五 千木鰹木の事

千木は神社の棟左右へウチちがへたる木をいふ。違木の中略なり。上古宮を造に摶風(はぶ)の端棟へ余りたる象(かたち)也。神代の遺風にしたがひ神社にかぎり是を用。今百家にはハフと名付て棟のうちに包也。女神の千木は内をそぎ、男神の千木は外をそぐ。大政官府製法曰、大社の千木四支長さ壱丈三尺、中社の千木四支壱丈、小社四支長さ八尺云々。又一説に大社の千


木長さ壱丈六尺、壱丈弍尺、中社八尺五尺(寸か?)、小社三尺六寸、又三尺弍尺(寸か?)、弍寸(尺か?)八寸といへり。千木を氷木とも又比木とも、氷橡とも書り。ほうき本記曰、木の片掞(かたそぎ)は水火の起、天地の象也と云り。宮社により二神、三神、五神、七神を祭る宮は其御神名に付て、そぎやう内外のちがひあり。識者に問て製すべし。鰹木は斗木ともいへり。一説に大社の鰹木八丸、長五尺、わたり九寸。中社は六丸、長四尺、わたり八寸。小社四丸長三尺五寸、


わたり七寸といへり。其外神社によりて数の相違も有べし。先押通り女神の宮は陰数を用ひ、男神の宮は陽の数を用ること也。社の大小によって割合。鰹木の意は今在家かやぶきにして、棟の上おさへのため、かやを束ておく、是からすとどりといひ、或は針目おさへともいふ。是則鰹木の意也。今、伊勢太神宮に千木、鰹木を用るこのことのもと也。然ども神社により故なふして、みだりに千木かつを木をあぐることなかれ、くわしくは俗説せい弁にみへたり。

2023年1月17日火曜日

匠家必用記上巻九章と十章の 読み下しを紹介

匠家必用記上巻 九章と十章の
読み下しを紹介
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九 彫物の弁
俗間に堂塔の彫物をする番匠は器用也とて褒美し、彫物不鍛錬の番匠ははじ也とて賤むもの有。今按ずるに、堂塔の木鼻、渦雲、唐草等は皆番匠の職也。此外、生物、草木の類は彫刻匠の職也。彫刻匠も木匠の内の其一也といへども、今番匠、彫匠、板木匠とわかれたれば、器用たり共番匠は彫べき事にあらず。伝へ聞、上古は彫物はなきことにて、中比寺院建立の節は彫物をやとひてならしめ、番匠は番匠の職を勤といへり。必竟、彫物は番匠の表とすべき事に非ず。譬ば、屋根をふき、かべをぬるにも同じき也。


堂塔建立の節は必其人を頼て彫しむべし。番匠の極上彫より彫匠の下手が遥に勝べし。俗に餅は餅屋のが吉といふがごとく、番匠の彫物多くはいきほい(勢い)あしく、笑ひを後代にのこさん彫ざるが大に益有べし。彫物をするともほまれにならず、又ほらず共恥にもならず、是番匠の職に非るが故によく心得有べし。


十 番匠の祖神祭るの事
日本上古より伝へて番匠の祖神祭事は其職たる人のつね也。然共、祖神ましますことは知りながら其神名を取失ひ、仏者に混雑せられ、其祭においては仏経を誦、魚類を禁じ精進なることは、神事に非して仏法らしき紛物也。然ば屋造り、棟上等にも魚類を禁べきに、左はなくて反て酒肴等の統義を用ゆるは何事ぞや。是日本上古の遺風たへざるもの也。故に魚類を禁ずるは必仏者の取為としるべし。祖神の神の字を貴むからは、是非神事ならでは叶はぬ事也。早く本道へ立かへりて、日本の神事(に)改、日々に尊信し奉るべし。

番匠の祖神祭るの次第。
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狭知命(ひこさちのみこと)
如此(このごとく)板にでも紙にて此神号を書し、神棚に祭べし。神棚の上に鈴をかけて神並びの度毎に引きならすべし。
祭日五節句、又毎月朔日(ついたち)、十五日、二十八日。


借物
鏡餅 二 正月には勿論つねには見合たるべし。
神酒(みき) 弐瓶
魚類 弐尾 何にても時の見合たるべし。
御供(ごくう) 弐膳 長〇を用ゆて白木の木具を用ひてよし。ぬり物はあしし。
松榊を立べし
毎朝怠ず神拝して神恩を謝すべし。

禁忌(いみもの)
樒(しきみ) 俗に是を花枝といふ。大毒木なる故神事に不用(用いず)故に、あしきみと訓ず。「あ」を略して今しきみといふ。毒木也事は日本の書はもちろん唐土草綱目毒草の部の内にも見へたり。
線香 抹香 シキミにてセイスルゆえ右に同じ。或は常此香を匂へば自然とウツ上の病を生じ、あるいは人のキ(気)ヲヘラスといふ。よってソクセツシヤウカウバン(常香盤)の日(火)にてたばこをすわざるは此謂也。故に神社に香を焼ざるを見てスイリヤウすべし。元来香を用ゆる事はイコク(異国)よりはじまる也。天竺などは別して熱コク(国)也。ゆへに人のミチくさし、此ゆへにキ(貴)人に対メンするときはかなら(必)ずエカウロをマヘにおいてそのミのアシイをシリゾクル也。大ちとろん(大智度論)にもテンジクのクニはネツス以てミのクサキゆへを香以てミを 〇、ミニヌルといへり。
仏経 並に念仏唱ふるべからず。
数珠 並に仏具類
尼僧及汚穢、不浄の人神前に近付べからず。

2023年1月12日木曜日

匠家必用記上巻六章 「番匠を大工といふ弁」

 

匠家必用記上巻六章
「番匠を大工といふ弁」
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工は百工の惣称なり。上古、木を以て宮殿屋宅諸の器材を制作、之を木匠と云。日本紀に木匠、木工等の字を用ひてこたくみと訓ぜり。近世専(ら)番匠の字を通用して、たくみといへり。むかし飛騨の国の木工多く、諸国へ出る故に飛騨のたくみといゑり。ヒダのタクミを一人とヲボエタルモノあり、甚アヤマリなり。イサハウシ(氏)イハク(曰く)、日本後記にイワク、エンリャク十五年十一月己酉(つちのと・とり)合天下捜挿、諸国逃亡飛騨工等異称。日本伝云、飛騨国多匠氏功造宮殿、寺院造今称飛騨工万葉集の歌に、「とくからに ものはおもはす ひだ人の うつはみなわの たた一すじに」。拾遺和歌集に、「宮つくる ひだのたくみの ておのおと(手斧音)」、などなど。



シカルメヲミシカナ ヒダノタクミは一人にアラスル事をシルベシ。又桶匠(おけや)、檜〇匠(ひものや)、鋸匠(こびきや)、蓋?匠(やねや)、鏈匠(ひきものし)、彫匠(ほりものし)、竹匠(たけざいく)等も上古は皆木匠の内也といへども、後に分れて今それぞれの職となりぬ。職神を祭にも、ともに彼二神を数ふべし。又俗間に番匠をすべて大工といふは非也。大工は禁裏(御所)より定置し木工寮の内は(内輪)名也。百寮訓要抄に大工、権大工は是皆番匠の名也。此職細工所奉行する間、此輩を置るる也といへり。又日本記に舒明天皇


十一歳秋七月詔曰、今歳(この年)作らしむ。大宮及大寺を造。則ち、百済川測(ほとり)を以て、宮所と為す。是以て、西民は宮を造、東民は寺を造。便(すなわち)畫直縣(カエソテフミノアタイアガタ)を以て大匠と為す云々。又伊勢の神宮を造れる番匠を大工といわずして小工といへり。是又禁裏より補任頂戴せる小工職也。位階も六位已下也。然ば是に任ぜざる番匠は大工、小工と書べからず。工匠、木匠、番匠、匠人、じやうじ(匠氏)とう(等)の字を用いて、たくみと訓ずべし。

文中に引用されている
日本後記延暦15年11月の記述

同じく百寮訓要抄から木工寮大工の記述

2023年1月8日日曜日

匠家必用記上巻 五章 「神道は家業に離れざる弁」

 

匠家必用記 上巻から
五章 「神道は家業に離れざる弁」
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日本は神国と云道は神道といふ事粗(ほぼ)上に述といへども、再爰(ここに)番匠たる人の神道を挙ぐ。上古は人の心質素正直にして、自(おのずから)神の教に合故に神道といはずして、直に神道也。中比儒仏の二教渡りてのちわ、是に対して神道の号有。今俗間に神道とは神人、神酒、御供へいはく(幣帛)をささげ、柏手

打、祓を誦、神拝するを神道者とをもへるはこころ違也。是とは神事にして、神しょくたる人の神道。たとへば神前の小笠原しつけ方のごとし。其人においては尤可也。余の人は先それぞれの家業を第一に勤べし。是則神道の極意也。然ば番匠の職をつとむるは神職の神事のごとし。僧の仏事にも合、武士の武芸、農人の耕作n商人の商のごとし。士農工商共にそれぞれの家業は神の教なるに仍て武士は武神をうやまひ、農人は耕作の神をうやまひ、商人は商神を敬ひ、匠人はそれぞれの職神をうやまひて、神おん(恩)をしゃ(謝)し奉る事、あまねく人のしりたる事なり。故に其の神の教をよく守りて、家業を勤る人は神

応に合て福有。かくのごとく家業が神道の極意也。いたって重き道也事をしるべし。このあり難道を粗略にして其外に不相応なる事を好ば道にあらず。喩(たとえば)商人として弓馬の道を学び、或は修験(やまぶし)の行を真似して鈴錫杖をからめかし。医者は仁術なる事をわすれ商人のごとし利徳を斗(はかる)。農人は鎌鍬を廃(すて)て兵術やわくかを心掛。職人は家業を怠り真似して朝暮仏経念仏にあたら隙をついやし、其職の神より伝ふる事を忘れて僧徒のごとく仏事に落入職神を取失ひて仏法に混雑す。是とは我道とすべき事を忘れて他の道を貴む故、異端外道の修行と号(なづく)べし。外道とは家道にあらず

外の道也。かくのごとく異端外道を専に行ふ人はおのづから家業の大道をおろそかにする故終には身上はめつのもとひ(基)とも成べし。番匠も其職の神道成。證拠は此職を勤て渡世のなるやうに職神の教置給ふことなれば、誠を以て神を尊敬叮嚀(丁寧)に職を勤べし。かりしかば神の御心に叶ふ故、其身はいふにをよばず。子孫の家も栄なん故に神の道ほど有難道はなしと知るべし。儒仏の道も異国の聖人定めをかれ(置かれ)たれば、あしきといふにはあらず。僧徒が仏法を行ふは則道の止る処の至極は勧善懲悪のをしえ也。去ながら立る処の名目に違有。神は子孫繁昌好せ給ふ。正直淳和のおしへ成。出家は其身一代切、子孫断絶のもとひ

たるに仍る神の御心にかなはず。故に伊勢大神宮へ尼僧の直参を許ざるは此謂也。近世仏法に凝たる愚俗家業は神の教なる事を忘れて己が宗旨を貴み、じゃち(邪智)高慢にして神をないがしろにし、仏法ほど有難ものはなしとをもゑる人は、神の罪人道知らず也。今めいめいの先祖を考へ見るべし。其祖は神にあらずや。その孫として先祖をさげしむは人にあらず。形は人なれど心は鳥獣のごとく人の外也。ことさら天照大神の御国に生れ、神国の穀を食し、身命をやしなう事をしらざるは神のおんしらずとやいわん。天下の穀つぶしなり。番匠も其職を勤て世を渡るは仏の教にあらず。忝(かたじけなく)も日本番匠の祖神の御教なれば、いやでも神道を大切にせねば今日

立ず。故に日本のおしへを元とし、心を元の本にかへり、家業怠べからず。一書に曰、道は元来一也。ちまたををほき故に南北に迷ふ。糸は元来白し。染るをもって色かわる。人の心も相同じと。此一言尤しんずるにたれり。番匠も其職が一筋の本道にて、おしへのごとく正じきに行ときは、ものにまよふ事はなきし也。異国紛道故に本道を渡違てまよひがで来り。然共、儒仏の道もよく学時は神道の助となる事なれど、すすめやうあしければ、かへつて神道のかい(害)となる事多し。家業の隙あらばよき師をしたいて、神道の委ことを尋しるべし。先あらあら番匠の道の全体を、いはば日本の神風(ならはし)質素正直を元とし、親に孝、兄を敬

弟をあわれみ、朋友に愛敬有て、職神の教を守るべし。今此をしへを守る番匠の行ひを見るに、幼少より神道に志あつく常に心を正直にもち、かりにも人をいつはらず、一心不乱家職を面白く覚て、昼夜工夫をこらし上手となりて、天下に名をあげんことを心かけ、朝早く起て神を拝して、又両親へ一礼して細工に取付、下地より念を入、人の為によき事を思い、又細工を頼む人あらば請合の日限より前方に拵るをく故、一度もさいそくを得ず。且にはきう用(急用)の間に合て、頼人の勝手と成、値段ほも下直にすれば、人々も悦んで好ずとも宜事を云伝え、次第にあつらへて人多く也おのづから名人上手といわれ、其家日々繁昌して福有もの也。是常に神道を守る

故にかくのごとし。又、貧者となる番匠は第一愛教なく、朝祢して家職に怠り常に遊ふ事を好み、上手にならんと思ふ心もなく、うかうかと日をくらし、たまたま誂ものあれば、約束の日限相違して度々さいそくを受、俄に細工に取付、早く手渡しすればよきとおもう心から、万麁相(そそう)なれば、先の人腹立て仕方のあしき事を人にも告しらする故に二度頼む人まれ也。かかりしかば、次第にこんきゅうして貧者と成、弥々(いよいよ)下手と成て終に身上をもち破り妻子を路頭に佇ませ、その身も住処を逃走り、挙句のはてはこもかぶりと成、汚名を後代に残したる人挙て算難。是神の教に背故に神のばち(罰)かくのごとし。番匠たる人つつしんで家職の大道を油断なく勤

守るべし。別て禁むべきものわ、碁、将棋、双六、浄るり、三味線、淫乱、大酒也。是らをつつしまずんば、わざわひ必おきにあらす。出合細工の節は朝(早)く行て、仲間へ一礼し、細工を勤べし。長話、長煙草、大酒(な)どは細工の妨(さまたげ)。第一頼む人のきらふ事也。又細工のにぶきわ、つねに心の用ひやうあしきゆへ也。其職を立ながら、其道にうときは商人どの商下手と薬の不中医者のごとし。是に心の付ざる人は早く追揚られ、二度頼む人もまれ也。外聞といひ、はづかしきことならずや。かくのごときの人は其身一生下手の名を取、或は悪名を取て立身はなりがたき者也。此故に日夜家職の道を心懸上手と成て、後代に名をのこさん事を思ふべし。貧者と也

福者と也、上手となり、下手となりも、みな心の用いやう善と悪とに有。心を付て万事善にすすむべし。教の旨は様々有といへども番匠としては其職が第一としるべし。いはんとなれば日本番匠の祖神より伝来の職にして、此職勤、妻子をはごくみ家内安全にくらすは、皆是職じん(神)の御めみにあらずや。故に常に神おん(恩)を忘れず、万事正直に勤べし。然、仏法のじひ(慈悲)、善根も儒道の仁義礼智信もいわずはからずして、神道の内に有としるべし。国は神国、道は神道、家は神孫たる事を思ひて、心を日本に帰する。是を道に随ふ(と)いふ者也。

2023年1月2日月曜日

匠家必用記上巻三章読み下し

 

匠家必用記 上巻から三章の
読み下しを紹介しておきます
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三 聖徳太子は番匠の祖神に在ら非る弁

天王寺の説、俗説に曰、聖徳太子始て天王寺を建立し給ふ。これ日本寺建立の始也と、又太子もろこし(唐)へ渡りてばんじゃうの道をならひ得給ひ。帰朝の後日本のばんじゃうに此事を伝へ給ふ。依之(これによりて)番匠の祖神也。故に祭には仏教を誦(となえ)、魚類(肉食)を禁ずと云。今按ずるに天王寺は寺の始に非ず。日本記及諸

書を考るに聖徳太子は人王三十一代敏達天王の御宇二年正月に誕生し給ふ(聖徳太子は用明天王の皇子也。天王御即位なき内に誕生し給ふて、本の名を厩戸の皇子といへり。聖徳太子と云は諡号なるべし。然ども世俗厩戸皇子といふ名を知らざる人多き故、しばらく俗習に随ひ聖徳太子と記するのみ。下皆倣下)。其後三十二代用明天皇の御宇二年に聖徳太子摂州玉造りの岸の上(ほとり)に四天王寺を建立し給ふ(此年より七年後推古天皇の御宇元年今の荒陵山にうつす)是より以前寺建立の始有。故に王代一覧に曰、欽明天皇治世の十三年に当りて石州国より使者を献し、釈迦仏の像並仏教をたてまつる。大臣稲目是を拝し給へと帝すすめ奉。物部尾輿申ける、我朝神国なれば天皇の拝し給ふ神多し、いかでか異国の神を拝せんや、恐らくは本朝の神の怒を致給はん。これに仍り天皇拝し給はず。其像を大臣稲目

に給はる。稲目悦んで拝受す。則ち家を捨て寺とし、両原寺号て彼仏像を安置す。これ日本之仏法渡るの最初。また伽藍を造立の始なりと云々(日本記にも又同意)。寺嶋氏曰欽明天皇十三年始建両原寺今有河内国古市郡西林寺是也。乃本朝寺院の始也云々。是天王寺より三十五年以前寺建立のはじめ。如此(このごとく)日本記に敏達天王六年冬十一月庚牛(かのえうし)の朔日百済国王府付還使大別王等献経論若干巻並律師比丘尼禅師呪禁師仏造工寺造工六人、遂安置難波大別王寺云々。是天王寺建立より十年已前之事也。其時已(すで)に大別王寺あり時は是より已前の建立とみへたり。其比(ころ)聖徳太子五歳にならせ給ふ。また日本記に敏達天王十三歳、

馬子猶仏法に依て三尼を崇敬、三尼は氷田直与達等に付、衣食経を合供、石川宅に於仏殿を建、仏殿を作終。各下此二ケ寺は天王寺より三年以前に建立有。又日本記に天王寺と同時に馬子宿根飛鳥の真神の原に法興寺を建立し又南渕に坂田寺を造ること有。このころ聖徳太子十五歳也。彼天王寺建立の年より三十五歳已前両原寺を建立ありし時は聖徳太子いまだ生れ給はず。かくのごとく天皇子以前寺建立のはじめあらば俗説の相違せる事をしるべし。又聖徳太子唐土へ渡りて番匠の道を習ひ得給ひ、帰朝の後日本の番匠に此術を伝へ給ふこと正史実録に写て見へず。実に此ことあらば日本記にのせざらんや。其證なきを以て偽なる事を知るべし。(日本記曰崇峻天皇元年に善伝と尼受戒学問のため石州国へ渡り同三年三月に帰朝す。是等のあやまり聖徳太子の事とせるにや。)

又聖徳太子を番匠の祖神といふ事非の上に略(ほぼ)知るすごとく日本神代に番匠の祖神ましますなり。聖徳太子自番匠の業(わざ)をし給ふことを聞ず、たまたま四天王寺を建立したもふといへども番匠の祖神といふ事写て其理なし。実に祖神と敬ひ奉るは天地開闢することひとしく始て此道を起し給ふ故に祖神を申奉る。惣じて祖神の祖にていふ文字は事の始といふ意有。此本鋳物師の祖神、鍛冶の祖神、医の祖神等も日本にて其ことを始給ふ故に祖の一字を於てあがめ奉る也。まづそのことごと番匠の祖神も其道を興し給ひて御子孫に伝え給ひ。又人より人に伝へて、今此職をつとむるはこれ職神の残る教え也。今より前へくり戻して祖神の教へなる事を明らむべし。此道り(理)をよく考ふべし。夫寺を建立し給ふによって太子を番匠の祖神といふ

ならば、太子より六百余年已前垂仁天皇の皇女大倭姫命は伊勢大神宮及国々取々に宮を建立し給ふ。是はいかが申上きや。日本番匠の祖神は神代の事なれば、何万歳已前と給ふ事もはかりがたし。多く年数の明かなる神武天皇御即位のとき、大和橿原に内裏を建立し給ふに番匠の祖神の孫に命のり(みことのり)して送らしめ給ふことを考るに、宝暦四年に至り二千四百十四年なり。太子は漸千百余年也。なんぞや後代の太子を番匠の祖神とうやまうときは是より已前の人々は家もなく野にふし、山にふしたるや。かくのごときの事は書をよみ学文したる人はよくしりたる事なれども番匠は家業にいとまなく、学文し難故に俗説混して(まこと)の祖神を取違たる者也。此道理をよく合点して

俗説の誤を知るべし。又祖神たるに依る忌日を祭り仏教をよみ、魚類を禁じ精進する事聖徳太子を祭らば佐も有べし。番匠の祖神を祭るといへば神事也。神事にはかへって魚類を献じ仏教は大に忌ことなり。其故は伊勢大神宮の忌詞に経を染紙と云寺を瓦ふきと唱へて白地(あからさま)にはいわずに予とふに中比売僧癖に己が法を弘めんとて種々の弁舌をふるわし、妖怪を談(かたっ)て人を惑す事は野狐よりも勝たり。或は説法を題にして浮世軽口役者の似言(こはいろ)浄るり本を談義して、後は又文の蓮華札回向袋冥加銭などと仏法を売物とし、或は神を仏にこんじて宮社を天竺流に仕替、番匠の道具も仏菩薩の始給ふとわけもなき事をののしれり。然共仏を直に番匠の祖神と

ならざる故に聖徳太子に取付祖神とは立るなかるべし。実は己が仏法に引こんで米銭をむざぼる謀斗とみへたり。是に妖化(ばか)されし人々いつとなく誤伝へて番匠の祖神も取違へたるなるべし。太子も〇有てかかる非礼を聞給はば嘸(さぞ)めいわくに有つらん。是皆妖僧の癖見也。実の僧は妖怪を談じず金銀むさぼらず。仏意を演(のべ)て人に益有事をしらしむ故に此事を考、聖徳太子番匠の祖神おらざる事を知べし。聖徳太子を番匠の祖神と給ふる事諸書に拠なし。まどへる事あるべからず。


2020年4月13日月曜日

モラエス そして明治時代のペスト流行

いま、「孤愁・サウダーデ」という小説を読んでいる
著者は新田次郎だが
絶筆となり、子息である
藤原正彦氏が
書き継いだもの
主人公は明治時代の
ポルトガル外交官モラエスとその妻福本ヨネ 
600ページ以上ある
長編だが、いろいろと
興味深いことが満載
その一つ
これから初夏にかけて咲く
エニシダの花のこと
この花はポルトガルでは
ゲニスタ、スペインでは
イニエスタというらしい
ということはサッカーの
イニエスタ選手は
この花の名前(姓か)・・? 偶然にもモラエスも
イニエスタも神戸に
縁ができている・・

エニシダの花



こちらは今咲いている
レンギョウの花

よく見ると
エニシダの花とは
形状が違う

小説「孤愁・サウダーデ」に
書かれていることから
もう一つ
明治32年、神戸で
ペストが流行
これは史実で
明治32(1899)関西を中心
に罹患者は総計49名
(内死亡40名)で
内訳は神戸市22名
(内死亡18名)
大阪市21名(内死亡17名)
姫路で1名、その他
広島・福岡・和歌山・
長崎・静岡で死亡者
各1名ずつ
危惧した東京市長は
ペスト菌の媒介とされる
ネズミの買い上げ策を
同年12月27日の
東京参事会に提案
これは捕獲したネズミを
一匹五銭
(今の金額で1000円ほど)
で買い上げるというもの
これが施行されると
ネズミ捕獲器が
飛ぶように売れ、さらに
ネコを飼うことが大流行
夏目漱石が
小説「我輩は猫である」
で風刺するほどの
騒動だったようであります
神戸でのペスト流行は
半年ほどで
終息したようですが
明治32年は六甲山の鳴動と
群発地震が1年ほど続き
市民はかなり
不安だったようです

2020年2月3日月曜日

天岩戸神社の岩蓋 古代文字

宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する  天岩戸神社で発見されたとされる岩蓋  文政四年(1821年)に発見されたということですが  小型の箱式石棺の蓋(ふた)石だったということです  石棺内には銅鏡七面と四個の土器が副葬されていたということで小型の箱式石棺ということと副葬品の銅鏡に大鏡が含まれていることから  時代は弥生時代後期頃と思われます  文字が刻まれた蓋石と石棺が  同じ時代とは限りませんが・・・  

この岩戸文字が発見された後
明治八年(1875年)、大分県で上記(うえつふみ)が
発見され、そのなかの文字の解説により
この岩戸文字が解読されたということです

明治八年の読み
それみきみ みつみ 
おほえこれのうつはわ
ほのあかりのみこと
これのあめのいわとに
こもりますときに
あそひのそなえに
まつるひとの
おおみかかみわ
すめおおみかみの
みたまとして
あめのいわやとに
のこしもちいたししなるを
あめのいわやどの
これのきしに
いわもてよひらにたてて
かくしおくなり

昭和7年に記された
「高千穂古文字伝」より
田近長陽氏による読み
ソヂ ミキミカミツミカミケ
ミカトヲ(モ)ホエ 
コレノウツハワ
ホノアカリノミコトコレノ アメノイワトニ
コモリマストキノアソビノソナエニマツル
ヒトツノオ々ミカミワ
ハメヲ々ミカミノミタマシテ
アメノイアワトニ
ノコシモチ イダシナルヲ
アメノイワヤドノ
コチノキシニ
イワモテヲヒラニタテ
カクシオクナリ

参考として
藤芳義男氏による解読
其それ 神酒みき 甕みか 水みづ 甕みか
神食みけ 甕みか と覚おぼえ 是これの 器うつはわ
火明命ほのあかりのみこと 是これの天あめの岩戸いわと
に 籠こもります時ときの遊あそびの供そなえ
に奉まつる 一ひとつの大おお御鏡みかがみわ
皇すめ大御神おおみかみの御霊みたまとして天あめの
岩戸いわとに残のこし持もち出いだししなるを 
天あめの岩屋戸いわやどの 是これの岸きしに岩いわもて
四よ皮ひらに立たてて 隠かくし置おくなり

次に高橋良典氏による解読
祖母ゆ開かれつる神
避さるヶ戸を掘り
これに無戸籠うつくまる
火明ほのあかりの御代みよに 天之岩戸へ
籠こもります時に
阿蘇火のそば
地震なゐへわたり
タカヒメの祖おや
ツカヤリは
皇祖すめをやゆかりの
蓋ふたつくりて
天之岩戸へ逃れき
地怒り唸うなるを 
天之岩戸屋殿籠り
救へ岩守もりて 
生きながらえたり
由来いはれを吐けり

平中芳明氏による解読
それ みきみ みつみ お 
(相手側、満気身、密身、緒)
そちらは、気が満ちた御身、きめ細かい綿密な御身、
魂を繋ぐ緒

ほえ これの うつは わ 
(誉、恵、こちら側、打つ、葉、和)
秀でた叡智の、こちらの、心を打つ言葉が上手く混ざる

ほの あかりの みこと これの あめのいわとに (誉、証、尊、こちら側、天岩戸)
秀でた証の尊 こちらの天の簡単には動かない磐戸に

こもります ときに あそ ひの そなえ (籠、時、彼方側、秘、備)
籠ります時に、こちらからもそちらからも遠いあちらの密かな備えをする

に まつる ひとの お おみ かかみ わ (二、祀、尊、緒、御身、加佳味、和)
再び祀る時、尊き人の魂の緒、御身に要素が加わり良い趣きに上手く混ざり和合する

すめおおみかみの 
みたま として あめ
皇大御神の御魂として

いわやとに のこし もち いたし しなる (岩屋戸、残、保つ、至、品)
天の岩屋戸に保管して成熟するように

あめのいわやどの これの きしに い (天岩屋戸、こちら側、居)
天の岩屋戸のこちらの側に居て

わ もて よひらに たてて (和、以て、四方、盾)
協力して四方を護って
かくし おくなり (隠、置)
人の目にふれないようにして置く

他にも
あります。

2020年1月9日木曜日

明月神社と彫物師


正月の山歩きに行った際
途中で寄った
もう一つの神社 
こんもりとした小山は
古墳のようにも見えます 

近くに、このような
美しい形の山を
望むことができます




明月は「あかつき」
と読むようです
祭神は月夜見命
月夜見(つくよみ)は
月読とも書かれますが
神社の祭神としては
珍しく、かなり古い
ものと思われます
元宮は九州壱岐にある
月読神社とされています






社殿の裏と向かって右側は
大きな岩になっています
元々は磐座iwakura信仰
だったものと思われます

正月の供え物が
興味深い





装飾彫物も立派です



脇障子の彫物


こちらの脇障子の
裏面には彫られた年記と
彫物師などの名が
刻まれていました


年号は安政二年
(1855年)の卯年三月
次の行は
「摂州◯之庄◯里村」
次は「彫物師
新井弥三郎正次」
◯は判読できません

施主の名前も
刻まれています
右は巌本藤右エ門
左は西芳右エ門


日貿出版社から
出されている
寺社の装飾・近畿編で
紹介されている
大歳金比羅神社
本殿の装飾彫刻の作者は
「摂津国有馬郡
藍曲り邑mura
新井弥三郎正次」
となっているので
明月神社の住所の刻みは
「摂州藍之庄曲里村」
と思われます
ちょっと調べてみたら
この住所は現在の
兵庫県三田sanda市
藍本と思われます
三田市藍本は明月神社が
ある所とは20kmほどの
距離です

この表は安政二年の
摂津国での大工組の
様子ですが
(吉田高子氏による
論文から引用)
藍本にほど近い三田にも
大工組があったようなので
その繋がりから
藍本の彫物師である
新井弥三郎正次に
装飾彫物の依頼があった
ということも考えられます

参考までに
寛永年間(1624年~1645年)
の近畿六カ国の
大工組の様子が
「中井家大工支配の研究」
という谷直樹氏の論文で
述べられているので
その部分の表を
紹介しておきます
これを見ると
摂津国の大工組頭六人の内
彫物組頭が一人含まれて
その大工組は五人によって
構成されていることが
分かります