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2015年4月1日水曜日

ネズミ男・・? そして鑿・ノミいろいろ

今朝 近くの河原で拾った石
中央の茶色の模様はネズミ男にしか見えない



こちらは、刃物産地である兵庫県三木市にある
内藤商店から届いたもので
三種類の三分追入ノミ
どれもかなり古いものだそうです


銘は左から春峰、鶴菊で内藤商店の問屋銘ということです
右端は大内銘で先代によって鍛えられたものだそうです

大雑把な研ぎ上がり状態ですが
裏研ぎを含め20分ほどで三本を研ぎ上げたのでご勘弁を・・
とりあえず切れるようには研ぎました




鋼はどれも炭素鋼です


刃角度は上から春峰銘・約27度、鶴菊銘・約29度、大内銘・約30度
刃角度が違っていても
それぞれの切れ味はよく分かるのがおもしろい


仕事で使ってみました
この作業は特に刃物の切れが要求されます
これは刃角度27度の春峰
ここでは裏を当てて削っていますが
鎬面を当てて削るには
これくらいの角度が使い易い


これは刃角度29度の鶴菊銘
このように鎬面を当てた削りではもっと低い方が使い易い
この部分は左手を使っていますが
私は本来左利きなので問題なく行えます


大内銘のもので、刃角度は30度ありますが
切れが軽く大変使い易い
これは充分仕事で使えます

ただ、鋼の鍛接の状態を見たら買わないと思う・・
切れれば問題ないことなのですが
選ぶ段階では切れのことまで分からないので
鋼の鍛接の様子など見栄えが悪かったら
どうしても避けてしまうのですね・・



これは手許にある小山金属製の
いつもは上の作業は右端の三分(9mm幅)の
追入ノミを使うのです


今回、上の3丁の追入ノミと使い比べてみましたが
やはりハイブリッド全鋼のものが
最も切れが軽く、使い易いのです
これには驚いてしまいました・・

さらに付け加えますと
上の内藤商店の問屋銘である
春峰銘と鶴菊銘は小山金属製なのでそうです
ということは、小山金属の刃物製造技術は
確実に進歩していると言えるのではないでしょうか

小山金属は量産メーカーとなっているようですが
量産体制でここまで優れたものを作り上げることができる
というのは、現代技術の優れた部分と言えるのでは・・
鋸は完全にそうなっています


因みに、バイディングを入れるための横板の削り取りには
このフィッシュテール・ノミ(15mm幅)を使っています


これも手頃な価格のものですが、よく切れます
やや研ぎにくいのが難ですが・・

2015年1月19日月曜日

中世たたら実験操業の様子 新見の銑押し製鉄

岡山県新見市で毎年行われている
中世たたら実験操業で、昨年2014年
操業以来8年目にして銑鉄の生成に成功したということです
関係者の仲田芳人様から画像の提供を頂きましたので
その様子をお伝えしたいと思います

以下は仲田芳人様による報告文から引用したものです

新見市は中世の時代、京都・東寺の荘園として栄え
新見荘の年貢は鉄、和紙、漆などでした
25年前から中世の歴史を生かしたまちづくりを進めていて
その一環として「中世たたら製鉄」の再現操業が
2006年から市内正田の操業施設で行われています


今年2014年の操業は10月25、26日に行われました
縦横1m×1.7m、高さ1.25mの中世の炉を築き
夕方6時から翌日の午後3時半まで昼夜操業しました




今回の操業で使った砂鉄は765.8kg、木炭1153kg
出来た銑鉄(ずく)は約400kgと推定されています


4台の手押しふいごは、市内外の300人が交代で
「押して、引いて」の掛け声に合わせて押し、炉に風を送り続けました
新見の「たたら」製鉄は、「ずく押し」と呼ばれる銑鉄(鋳物鉄)造りです
「ずく押し」は明治時代半ば以降途絶えていた技術ですが
ついに今回、「ずく押し」を日本で初めて成功させ、快挙を達成しました




中世の炉を再現しての操業は全国でも例がありません
全国各地の企業、大学、研究者、一般の方々等
たくさんの人が操業を支え、活気があふれています










26日午前10時ごろ、炉底部のノロを取り除くと


ドロドロと「流れ銑(ずく)」が流れ出した
まるでおろちのようにも見え、感動的な瞬間でした












16年前から新見の「たた」らを指導されてきた
国選定保存技術保持者の木原明さん(奥出雲町)は
「炉の構造と砂鉄の配合を変え、8年間の試行錯誤の成果
炉はまだ元気で100%大成功」 と話されました

昔の会津刃物産地(福島県)では所によっては
自家用の小精錬所で銑(ずく)を吹いていたということが
堤章氏の著書 「会津の刃物鍛冶」では説明されていますが
今回備中新見(岡山県)で出来た銑で
どのような刃物が作られるのか興味が湧くところであります


2014年7月11日金曜日

義廣銘鉋と初代・田中義廣(田圃義廣)

現在手許にある義廣銘の鉋
通称田圃義廣と呼ばれているもの(参照
二寸鉋(炭素鋼)、真贋は不明、後代か・・

寸六(炭素鋼 参照
後代と思われます(真贋は不明)

寸四(炭素鋼 参照
後代と思われます(真贋は不明)

寸四(特殊鋼 参照
これは初Ubu身の状態で保管されていたものですが
比較的新しいものと思われます
(真贋は不明・参照下さい

刃物鍛冶の初代・義廣(広)については
スズキ刃物店のHPで詳しく解説されていますが
そこで義廣について書かれてある「怪物伝」
著者・横山源之助(有磯逸郎)が紹介されています
そのデジタル・データが近代デジタルライブラリー
公開されていますので、それを転載、紹介しておきたいと思います

以下、初代義廣である田中義廣についての記述ですが
旧字を現代漢字に置き換えておきます
( )内は私によるルビ、意訳あるいは読みです
従いまして、文責は私、田中清人にあります

鉋刃物師 田中義広
大工仲間では、義広の鉋といえば、仮令(たとえ)一日の食事を
廃(や)めても、道具箱に一・二丁備えておきたがる
東京帰りの大工が、国許の明輩に誇る一つは
義広の鉋で、顔を合わせて道具の比較をやる時
各種の道具の中より、義広の鉋を出し
同職の羨む顔を眺めて、妙に兄貴風を吹かせている
これを見ても、大工の間に、義広の鉋が持てている様子が判ろう
然れば大工の間に評判を打っているこの義広という刃物師は
いかなる人であるか、私はある日、この鉋の名人義広を
浅草公園の右手、横に五階の見ゆる柴崎町の住所に尋ねた
何か家内に混雑があったものと見え、同家と親戚同様の間柄なる
佐藤米次郎という老人が、記者を一室に迎えて義広の人柄を語る

義広は越後(新潟県)三条在の農夫の子
威勢のよい米次郎老人、記者に茶をすすめながら
私はもう七十に近い耄碌爺、先生方を相手に膝突き合せて
お話するような柄ではありませんが、義広は私あっしと同国同村で
おまけに幾十年の間というものは
兄弟のような、親子のような間で御座いやした
義広の事は、まァ私の外(他)は誰も知ったものは
有りやすめえから、知っただけは、ぶっきら棒に一切合切申しやしょう
はい、田中義広も、素性は越後三条在の小池村という土地の出産で
本名は仁吉と申しやした、父親は孫右衛門といった
中分限の百姓農家の産でありながら
妙に、子供の時より細工物を好めり

子供の時より細工物を好めり
それは文明の今日であれば、百姓の子も、大臣参議になるのは
別に不思議でもありやせんが、徳川の時代では
百姓の子は那処(何処どこ?)までも百姓で果てるのが
習いであるのに、仁吉の慮見(考え)はその様ではなく
なんでも、己ァ(おらぁ)細工人になるんだ、てんで
在所から二里(約8km)ばかり隔たっている与板という
二万石の城下に出て、鍛冶屋に丁稚奉公しやした
はい、これが仁吉が、鍛冶屋に足を踏み入れた
そもそもの最初でげした
ご承知でもありやしょうが越後(新潟県)は
日本では雪で名高い土地、丁稚に這入ったその年でした
山道の出雲崎へ抜ける五里(約20km)ばかりの処に八幡の社がある
仁吉はその社へ、雪の降る寒中に裸詣りして、技量の揚るのを念じた
その翌年、誰に教わったものか、技量を鍛く(みがく?)のが
江戸に限るてんで、未だ真個はんの子供の十歳の時江戸に出でたり

十歳の時江戸に出でたり
はい、仁吉が江戸に出やしたのは、十歳の時でありやした
日本橋の中橋の、あの小川という待合の横手に
この界隈で男を売った鈴田の定さんという鑿(ノミ)の鍛冶屋が
ありやして、そこで革鞋(革製のワラジ=靴のことか?)を脱ぎ
首尾よく、江戸職人の家に身を置くことが出来た
二十歳の時、年期を勤め上げ、一年の礼奉公終わり
二十一の年、下谷の西中町に世帯を持ちやしたので・・・
はい、当時私の親主は、三間町に世帯を持っておりやしたから
私の親父の店請で、世帯を持ちやした訳
二三年西中町に居て、間もなく八丁掘の方に住居を変えやした

安政二年の大地震に名を揚げたり
仁吉の人柄が如何どうと申して、別に容貌に違った所も
ありやせんでしたが、何でも欲気のない事と言ったら
それは、不思議なほど欲気のない人でした
考えていることは、どうしたら良い鉋ができるであろうと、そればかり
焼の入れよう、鞴(ふいご)の吹きよう、炭の継ぎよう
土の使いよう、鋼の用いようを一生懸命に考えて
何時(いつ)も憂鬱ふさぎの虫でいやした
特にチクサという鋼(はがね千種鋼)にも二通りあって
何れを用いたらよいか、と思案の揚句に思わず口へ現わして
考え考えして居(お)りやした、鋼ばかりで有りやせん
土の使いようでも、普通の鉋師が遣っている荒木田の土は
如何(いかに)もわるい、之にも一方ならず苦労し
当時大阪の○十の鉋(源兵衛のことと思われます)は大評判
鉋は江戸職人に出来ないと定められていやしたが
遂に大阪の本場を圧して、江戸鉋の名声が
日本国中に響くようになりやしたのは
贔屓眼(ひいきめ)では有りやせんが
(原文は贔負となっていますが贔屓のことと思われます)
全く義広の力だろうと思わる
義広の名が揚ったのは、彼(か)の安政二年の大地震の時で
一時(いっとき)に大工仕事が出て、ぱっと義広の名が揚りやした
と、米次郎老人、話説に調子乗り、記者の前に膝をすすめ来る

欲気なき代りに孝心深し
大地震以来は、義広の銘打った鉋は、大工の間に大評判となり
普通の者なれば、儲けるは此時、と大に貯めるべき筈なれど
欲気のない義広は、其様なそんな事に頓着なく
這入ってくる金を財布に集めて、それを自ら携えて
国許の父親に送った、まァ彼(か)の時貯め込んで置けば
土蔵の二ッや三ッは、出来ていたろうに、頓と其様な考慮がなく
当時国許の甥が、放蕩で身を持ちくづし(崩し)
身代の傾けかかったのを見て、父親は心配していることだろう
と百幾十里(400km以上)の道をとぼとぼ歩いて
その貯まった金を携え、毎年国許へ帰って、父親を喜ばせていた
今から思うと、仁吉は孝心深い人でありやしたですから
明治になる迄は、何時も貧乏でしたが、貧乏は
私共と違ってちっとも苦にしなかったのも
今から思うと、仁吉が豪(え)らかったのでありやしょう

職人の中の職人
義広が何時も言って居やしたのは
人間は数ある中の数に入らぬといかねえ
職人の中の職人と為らねえじゃ、死くたばった方が良い
なんて言ってやした、でがしたから家の紋は酢漿(酢漿草・カタバミ)
でしたが、上羽の蝶(アゲハチョウ)は、人の長に為る縁起だてんで
酢漿を上羽の蝶の紋に換えやした
名を義広と仕やしたのも、世に自作の鉋を広めたい
という意だと申しやすが、先生、理屈に合って居やしょうかしら

刃答え(応え)、小切れ、旨切れ
鉋にも色々と種類が有りやすが
先ず「六分(一寸六分鉋・身幅約6.5cm)」
「八分(一寸八分鉋・身幅約7cm)」と
恁(こ)う二通あれば(参照)鉋は揃ったものと見られる
之は大工道具の鉋について申したので
尚 経木鉋という奴が此頃馬鹿に流行って参りやした
之は帽子や菓子箱の中に入れる経木を拵える鉋で
此方で出来る経木鉋(義広の鉋)で削ると
丸で芳野紙(吉野紙)同様に薄く、すうと、綺麗に出来上がる
何でも鉋は刃答え(応え)、小切れ、旨切れと
恁(こ)う三拍子揃わねば名作とは言われませぬ
刃答えが仕(し)ても子切れが仕ないと駄目
小切れが仕ても、すうと塩梅(あんばい)能(よ)く
旨切れが仕なければ、初手からしぶとい鉋と定まるが
世間の鉋を見ると、刃答え、小切れ、旨切れと
恁う三拍子揃った鉋はまことに寔(まこと)に少ない

不言言、不説説
といって、此の鉋ばかりは、口先で、那処どこ(何処)を
如何どうしたらよい、と教ゆる訳には参らぬ
手で製(こしら)えるからといって、
鉋は手業(てわざ)で出来る者でない
考一つ、脳一つ、心神こころで製えるので有りやすから
全くの処、親が子に教ゆる訳にもゆかぬ
厄介な代物(しろもの)、と米次郎老人
諄々として、鉋を製えることの困難を語る
之で見ると、名人というものは、口や言葉で教えられて
出来るものでないことが判かる

他人を弟子に取らず
前に申したように、義広の製品は、製作は一切秘密に
しておりやすから、他人を弟子に取らず、家の者と、親戚の者
真の五六人で、兀々(こつこつ)拵えておるような
次第でがすから、如何(いか)ほど注文があっても
五六人で拵える製品より多くは出来やせん
損な事だ、とお笑いに為る方もあるが、滅茶羅に世間へ
出しては、義広の名前に拘(かか)わるから
決して他人を弟子に取りやせん
はい、仁吉の歿(亡)くなったのは明治29年(1896年)の八月
長男の義太郎は59才で、つい先頃歿くなり
今は孫の石太郎が、義広を名乗って、弟の仁志太郎と
祖父の名を落とさぬようにと、仕事を励んでおる・・・

明治37年7月~9月

以上ですが、ここで古い鉋に興味をお持ちの方は
この文の中に義廣の兄とされている國弘のことが
一言も触れられていないのに気付かれたかもしれません
鉋の名工義廣、鑿(ノミ)の名工國弘は兄弟と
昔から言われていたようですが
もしかして、本当の兄弟ではなく
東京で鍛冶修行中の兄弟弟子だったのでは・・?
出身が同じ新潟県とうことで
修行中に親密になったということも考えられます

國弘は鉋も打っていて、國弘の鉋身には
鷹の羽の紋が刻印されていますが(参照
これが家紋だとしたら、義廣の酢漿草(かたばみ)とは
家紋が違っているということになります
真実はいかに・・・

2014年5月22日木曜日

明治10年第一回内国勧業博覧会出品解説書

以前紹介した(参照下さい)
明治10年第一回内国勧業博覧会の出品解説の内
砥石の産地が掲載されている本を紹介して欲しい
という要望がありましたので
UPしておきます

明治前期産業発達史資料
これは昭和37年(1962年)に
復刻されたものです

砥石に関する解説は
第7集(1)に掲載されています

復刻版で紹介されている
明治時代に出版された原本

明治30年代に撮影された
博覧会の様子

同じ頃関東で撮影された
鎌研ぎの様子



砥石の産地が記載されている頁

砥石に関する記述のところを現代語風に読み下しておきます
間違いなどありましたら
ご指摘お願い致します

中砥石各種
各県、諸州から産出されているものを蒐集しゅうしゅうした
砥石を産出する地は、
おおむね運輸の便が悪いので
運搬が容易な土地では
古来から採掘されていて
すでに掘り尽くされている
所もある
このことから、中砥石が古来から必需品だったことが伺われる

あわせ砥石 青砥石
精砥あわせと
剃刀(カミソリ)砥のことである
青砥は煙草たばこ屋が
主に使っている
これらの砥石は泥磐層中に
産するので精砥の色はたいてい黄色あるいは褐色で
青みを帯びているものもある
青砥は暗い青一色で
出ることはない

白精あわせ砥石
白精砥石の最上のもの
とされるのは
降灰石にまれに産する
三河名倉砥のようなものである
この砥石が降灰層中に成立する造化法(生成過程)は
絶妙で驚嘆に値するものである

以下、その点を
詳細に解説すると
降灰石が堆積している
地面の面積は
その堆算法に随えば、日本列島の面積の約10分の1~2である
その層は大抵他の諸石の
上部に有り
広大な面積を占めている
そのなかで将来的に磐石に
化成するであろうと
思われる層は陸奥北郡
二戸郡の全地域にある
それは一望できる長丘を
形成していて
場所によっては長さは400kmほどあり
概ねおおむね新しく降灰し
堆積したものである
当時、降灰で海が陸になったことも知られている
その火山は西には
岩城山(岩木山・津軽富士)

南に岩鷲山(南部富士)、北には(焼山・恐山)がある
他にはこれらの地から40km~80km地点にも火山が多く
長丘を形成する要因となったものと思われる
この他、火山地域で降灰が岩石の脈を成すときは
20km~80kmに及ぶ
この岩石生成は火気造化によるものなので
石中に生物の痕跡は見られない

第13号 降灰石
三河国 設楽したら郡川合村
採掘され始めたのは
寛永年間とされ
それ以来、時に採掘が止められたり、再開されたりしてきた
現在、地元の人によって
採掘されているが
世の中に広く行き亘る
ほどではない

砥石の脈は20余りのはっきりとした層になっていて
その層は厚いところと
薄いところがある
その中で緻密で鋭利なものが
あわせ砥として使われる
この砥石は火山作用により
生成されていて
それを図によって示しておく

この砥石の効用は刀剣を研ぐには最上とされていて
刃の研ぎ上がりは霜が降りたような艶となり
素晴しい艶を発するので砥石の価値はたいへん高い


三河白名倉砥石の層の図

上磐
メシロ(目白):一寸五分(4.5cm)
テンジョウ(天井):
二寸五分(7.5cm)
アツフタ(厚蓋の意味か?):
七寸(21cm)
ヤケン(薬研か?):五分
(1.5cm)
中砥石:一寸八分(5.4cm)
オオムシ(大ムシか?):五寸(15cm)
シモムシ(下ムシか?):
二寸五分(7.5cm)
上砥石:二寸(6cm)
カメ:五分(1.5cm)
トダ(イ砥台か?):二寸(6cm)
下磐