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2023年1月2日月曜日

匠家必用記上巻三章読み下し

 

匠家必用記 上巻から三章の
読み下しを紹介しておきます
間違いなどありましたら
ご教示願います
三 聖徳太子は番匠の祖神に在ら非る弁

天王寺の説、俗説に曰、聖徳太子始て天王寺を建立し給ふ。これ日本寺建立の始也と、又太子もろこし(唐)へ渡りてばんじゃうの道をならひ得給ひ。帰朝の後日本のばんじゃうに此事を伝へ給ふ。依之(これによりて)番匠の祖神也。故に祭には仏教を誦(となえ)、魚類(肉食)を禁ずと云。今按ずるに天王寺は寺の始に非ず。日本記及諸

書を考るに聖徳太子は人王三十一代敏達天王の御宇二年正月に誕生し給ふ(聖徳太子は用明天王の皇子也。天王御即位なき内に誕生し給ふて、本の名を厩戸の皇子といへり。聖徳太子と云は諡号なるべし。然ども世俗厩戸皇子といふ名を知らざる人多き故、しばらく俗習に随ひ聖徳太子と記するのみ。下皆倣下)。其後三十二代用明天皇の御宇二年に聖徳太子摂州玉造りの岸の上(ほとり)に四天王寺を建立し給ふ(此年より七年後推古天皇の御宇元年今の荒陵山にうつす)是より以前寺建立の始有。故に王代一覧に曰、欽明天皇治世の十三年に当りて石州国より使者を献し、釈迦仏の像並仏教をたてまつる。大臣稲目是を拝し給へと帝すすめ奉。物部尾輿申ける、我朝神国なれば天皇の拝し給ふ神多し、いかでか異国の神を拝せんや、恐らくは本朝の神の怒を致給はん。これに仍り天皇拝し給はず。其像を大臣稲目

に給はる。稲目悦んで拝受す。則ち家を捨て寺とし、両原寺号て彼仏像を安置す。これ日本之仏法渡るの最初。また伽藍を造立の始なりと云々(日本記にも又同意)。寺嶋氏曰欽明天皇十三年始建両原寺今有河内国古市郡西林寺是也。乃本朝寺院の始也云々。是天王寺より三十五年以前寺建立のはじめ。如此(このごとく)日本記に敏達天王六年冬十一月庚牛(かのえうし)の朔日百済国王府付還使大別王等献経論若干巻並律師比丘尼禅師呪禁師仏造工寺造工六人、遂安置難波大別王寺云々。是天王寺建立より十年已前之事也。其時已(すで)に大別王寺あり時は是より已前の建立とみへたり。其比(ころ)聖徳太子五歳にならせ給ふ。また日本記に敏達天王十三歳、

馬子猶仏法に依て三尼を崇敬、三尼は氷田直与達等に付、衣食経を合供、石川宅に於仏殿を建、仏殿を作終。各下此二ケ寺は天王寺より三年以前に建立有。又日本記に天王寺と同時に馬子宿根飛鳥の真神の原に法興寺を建立し又南渕に坂田寺を造ること有。このころ聖徳太子十五歳也。彼天王寺建立の年より三十五歳已前両原寺を建立ありし時は聖徳太子いまだ生れ給はず。かくのごとく天皇子以前寺建立のはじめあらば俗説の相違せる事をしるべし。又聖徳太子唐土へ渡りて番匠の道を習ひ得給ひ、帰朝の後日本の番匠に此術を伝へ給ふこと正史実録に写て見へず。実に此ことあらば日本記にのせざらんや。其證なきを以て偽なる事を知るべし。(日本記曰崇峻天皇元年に善伝と尼受戒学問のため石州国へ渡り同三年三月に帰朝す。是等のあやまり聖徳太子の事とせるにや。)

又聖徳太子を番匠の祖神といふ事非の上に略(ほぼ)知るすごとく日本神代に番匠の祖神ましますなり。聖徳太子自番匠の業(わざ)をし給ふことを聞ず、たまたま四天王寺を建立したもふといへども番匠の祖神といふ事写て其理なし。実に祖神と敬ひ奉るは天地開闢することひとしく始て此道を起し給ふ故に祖神を申奉る。惣じて祖神の祖にていふ文字は事の始といふ意有。此本鋳物師の祖神、鍛冶の祖神、医の祖神等も日本にて其ことを始給ふ故に祖の一字を於てあがめ奉る也。まづそのことごと番匠の祖神も其道を興し給ひて御子孫に伝え給ひ。又人より人に伝へて、今此職をつとむるはこれ職神の残る教え也。今より前へくり戻して祖神の教へなる事を明らむべし。此道り(理)をよく考ふべし。夫寺を建立し給ふによって太子を番匠の祖神といふ

ならば、太子より六百余年已前垂仁天皇の皇女大倭姫命は伊勢大神宮及国々取々に宮を建立し給ふ。是はいかが申上きや。日本番匠の祖神は神代の事なれば、何万歳已前と給ふ事もはかりがたし。多く年数の明かなる神武天皇御即位のとき、大和橿原に内裏を建立し給ふに番匠の祖神の孫に命のり(みことのり)して送らしめ給ふことを考るに、宝暦四年に至り二千四百十四年なり。太子は漸千百余年也。なんぞや後代の太子を番匠の祖神とうやまうときは是より已前の人々は家もなく野にふし、山にふしたるや。かくのごときの事は書をよみ学文したる人はよくしりたる事なれども番匠は家業にいとまなく、学文し難故に俗説混して(まこと)の祖神を取違たる者也。此道理をよく合点して

俗説の誤を知るべし。又祖神たるに依る忌日を祭り仏教をよみ、魚類を禁じ精進する事聖徳太子を祭らば佐も有べし。番匠の祖神を祭るといへば神事也。神事にはかへって魚類を献じ仏教は大に忌ことなり。其故は伊勢大神宮の忌詞に経を染紙と云寺を瓦ふきと唱へて白地(あからさま)にはいわずに予とふに中比売僧癖に己が法を弘めんとて種々の弁舌をふるわし、妖怪を談(かたっ)て人を惑す事は野狐よりも勝たり。或は説法を題にして浮世軽口役者の似言(こはいろ)浄るり本を談義して、後は又文の蓮華札回向袋冥加銭などと仏法を売物とし、或は神を仏にこんじて宮社を天竺流に仕替、番匠の道具も仏菩薩の始給ふとわけもなき事をののしれり。然共仏を直に番匠の祖神と

ならざる故に聖徳太子に取付祖神とは立るなかるべし。実は己が仏法に引こんで米銭をむざぼる謀斗とみへたり。是に妖化(ばか)されし人々いつとなく誤伝へて番匠の祖神も取違へたるなるべし。太子も〇有てかかる非礼を聞給はば嘸(さぞ)めいわくに有つらん。是皆妖僧の癖見也。実の僧は妖怪を談じず金銀むさぼらず。仏意を演(のべ)て人に益有事をしらしむ故に此事を考、聖徳太子番匠の祖神おらざる事を知べし。聖徳太子を番匠の祖神と給ふる事諸書に拠なし。まどへる事あるべからず。


2020年4月13日月曜日

モラエス そして明治時代のペスト流行

いま、「孤愁・サウダーデ」という小説を読んでいる
著者は新田次郎だが
絶筆となり、子息である
藤原正彦氏が
書き継いだもの
主人公は明治時代の
ポルトガル外交官モラエスとその妻福本ヨネ 
600ページ以上ある
長編だが、いろいろと
興味深いことが満載
その一つ
これから初夏にかけて咲く
エニシダの花のこと
この花はポルトガルでは
ゲニスタ、スペインでは
イニエスタというらしい
ということはサッカーの
イニエスタ選手は
この花の名前(姓か)・・? 偶然にもモラエスも
イニエスタも神戸に
縁ができている・・

エニシダの花



こちらは今咲いている
レンギョウの花

よく見ると
エニシダの花とは
形状が違う

小説「孤愁・サウダーデ」に
書かれていることから
もう一つ
明治32年、神戸で
ペストが流行
これは史実で
明治32(1899)関西を中心
に罹患者は総計49名
(内死亡40名)で
内訳は神戸市22名
(内死亡18名)
大阪市21名(内死亡17名)
姫路で1名、その他
広島・福岡・和歌山・
長崎・静岡で死亡者
各1名ずつ
危惧した東京市長は
ペスト菌の媒介とされる
ネズミの買い上げ策を
同年12月27日の
東京参事会に提案
これは捕獲したネズミを
一匹五銭
(今の金額で1000円ほど)
で買い上げるというもの
これが施行されると
ネズミ捕獲器が
飛ぶように売れ、さらに
ネコを飼うことが大流行
夏目漱石が
小説「我輩は猫である」
で風刺するほどの
騒動だったようであります
神戸でのペスト流行は
半年ほどで
終息したようですが
明治32年は六甲山の鳴動と
群発地震が1年ほど続き
市民はかなり
不安だったようです

2020年2月3日月曜日

天岩戸神社の岩蓋 古代文字

宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する  天岩戸神社で発見されたとされる岩蓋  文政四年(1821年)に発見されたということですが  小型の箱式石棺の蓋(ふた)石だったということです  石棺内には銅鏡七面と四個の土器が副葬されていたということで小型の箱式石棺ということと副葬品の銅鏡に大鏡が含まれていることから  時代は弥生時代後期頃と思われます  文字が刻まれた蓋石と石棺が  同じ時代とは限りませんが・・・  

この岩戸文字が発見された後
明治八年(1875年)、大分県で上記(うえつふみ)が
発見され、そのなかの文字の解説により
この岩戸文字が解読されたということです

明治八年の読み
それみきみ みつみ 
おほえこれのうつはわ
ほのあかりのみこと
これのあめのいわとに
こもりますときに
あそひのそなえに
まつるひとの
おおみかかみわ
すめおおみかみの
みたまとして
あめのいわやとに
のこしもちいたししなるを
あめのいわやどの
これのきしに
いわもてよひらにたてて
かくしおくなり

昭和7年に記された
「高千穂古文字伝」より
田近長陽氏による読み
ソヂ ミキミカミツミカミケ
ミカトヲ(モ)ホエ 
コレノウツハワ
ホノアカリノミコトコレノ アメノイワトニ
コモリマストキノアソビノソナエニマツル
ヒトツノオ々ミカミワ
ハメヲ々ミカミノミタマシテ
アメノイアワトニ
ノコシモチ イダシナルヲ
アメノイワヤドノ
コチノキシニ
イワモテヲヒラニタテ
カクシオクナリ

参考として
藤芳義男氏による解読
其それ 神酒みき 甕みか 水みづ 甕みか
神食みけ 甕みか と覚おぼえ 是これの 器うつはわ
火明命ほのあかりのみこと 是これの天あめの岩戸いわと
に 籠こもります時ときの遊あそびの供そなえ
に奉まつる 一ひとつの大おお御鏡みかがみわ
皇すめ大御神おおみかみの御霊みたまとして天あめの
岩戸いわとに残のこし持もち出いだししなるを 
天あめの岩屋戸いわやどの 是これの岸きしに岩いわもて
四よ皮ひらに立たてて 隠かくし置おくなり

次に高橋良典氏による解読
祖母ゆ開かれつる神
避さるヶ戸を掘り
これに無戸籠うつくまる
火明ほのあかりの御代みよに 天之岩戸へ
籠こもります時に
阿蘇火のそば
地震なゐへわたり
タカヒメの祖おや
ツカヤリは
皇祖すめをやゆかりの
蓋ふたつくりて
天之岩戸へ逃れき
地怒り唸うなるを 
天之岩戸屋殿籠り
救へ岩守もりて 
生きながらえたり
由来いはれを吐けり

平中芳明氏による解読
それ みきみ みつみ お 
(相手側、満気身、密身、緒)
そちらは、気が満ちた御身、きめ細かい綿密な御身、
魂を繋ぐ緒

ほえ これの うつは わ 
(誉、恵、こちら側、打つ、葉、和)
秀でた叡智の、こちらの、心を打つ言葉が上手く混ざる

ほの あかりの みこと これの あめのいわとに (誉、証、尊、こちら側、天岩戸)
秀でた証の尊 こちらの天の簡単には動かない磐戸に

こもります ときに あそ ひの そなえ (籠、時、彼方側、秘、備)
籠ります時に、こちらからもそちらからも遠いあちらの密かな備えをする

に まつる ひとの お おみ かかみ わ (二、祀、尊、緒、御身、加佳味、和)
再び祀る時、尊き人の魂の緒、御身に要素が加わり良い趣きに上手く混ざり和合する

すめおおみかみの 
みたま として あめ
皇大御神の御魂として

いわやとに のこし もち いたし しなる (岩屋戸、残、保つ、至、品)
天の岩屋戸に保管して成熟するように

あめのいわやどの これの きしに い (天岩屋戸、こちら側、居)
天の岩屋戸のこちらの側に居て

わ もて よひらに たてて (和、以て、四方、盾)
協力して四方を護って
かくし おくなり (隠、置)
人の目にふれないようにして置く

他にも
あります。

2020年1月9日木曜日

明月神社と彫物師


正月の山歩きに行った際
途中で寄った
もう一つの神社 
こんもりとした小山は
古墳のようにも見えます 

近くに、このような
美しい形の山を
望むことができます




明月は「あかつき」
と読むようです
祭神は月夜見命
月夜見(つくよみ)は
月読とも書かれますが
神社の祭神としては
珍しく、かなり古い
ものと思われます
元宮は九州壱岐にある
月読神社とされています






社殿の裏と向かって右側は
大きな岩になっています
元々は磐座iwakura信仰
だったものと思われます

正月の供え物が
興味深い





装飾彫物も立派です



脇障子の彫物


こちらの脇障子の
裏面には彫られた年記と
彫物師などの名が
刻まれていました


年号は安政二年
(1855年)の卯年三月
次の行は
「摂州◯之庄◯里村」
次は「彫物師
新井弥三郎正次」
◯は判読できません

施主の名前も
刻まれています
右は巌本藤右エ門
左は西芳右エ門


日貿出版社から
出されている
寺社の装飾・近畿編で
紹介されている
大歳金比羅神社
本殿の装飾彫刻の作者は
「摂津国有馬郡
藍曲り邑mura
新井弥三郎正次」
となっているので
明月神社の住所の刻みは
「摂州藍之庄曲里村」
と思われます
ちょっと調べてみたら
この住所は現在の
兵庫県三田sanda市
藍本と思われます
三田市藍本は明月神社が
ある所とは20kmほどの
距離です

この表は安政二年の
摂津国での大工組の
様子ですが
(吉田高子氏による
論文から引用)
藍本にほど近い三田にも
大工組があったようなので
その繋がりから
藍本の彫物師である
新井弥三郎正次に
装飾彫物の依頼があった
ということも考えられます

参考までに
寛永年間(1624年~1645年)
の近畿六カ国の
大工組の様子が
「中井家大工支配の研究」
という谷直樹氏の論文で
述べられているので
その部分の表を
紹介しておきます
これを見ると
摂津国の大工組頭六人の内
彫物組頭が一人含まれて
その大工組は五人によって
構成されていることが
分かります

2019年1月29日火曜日

優れた西物仕上げ砥石

地元の方の協力を得て
昔採掘されていた砥石山を見学



採取させて頂きました

京丹波産(西物仕上げ砥石)


試し研ぎ動画 

ハイス鉋を研いでみてビックリ
こちらは上の画像右のもの

そして左のもの
こちらの方が研ぎ感は滑らかで
研ぎ上がりも緻密です
砥ぎ疵はやや粗めですが
ハイス鉋がこのように
全体が美しく砥ぎ上がる仕上砥は
手許には他にありません

側の様子

砥ぎに使った砥石
画像左から人造砥石・研承1000→
伊予砥(中砥)→今回採取した仕上砥

京丹波産の他の産地の仕上砥と
比較してみました
左の二枚が今回のもの
その右は亀岡・大内産
右端は園部・池ノ内産
上は園部・八木ノ島産

大内産でハイス鉋を研いだ状態
画像では分かりにくいですが
今回採取したものよりは
砥ぎ疵がやや粗めで
地・刃ともに研ぎ上がりに
ムラがあります

これは池ノ内産
こちらも研ぎ上がりに
ムラが見られます

そして八木ノ島産
こちらも同様で
今回採取したものとは
研ぎ上がりが、ずいぶん違った
印象を受けます

次に東物と比較してみました
右は仕上砥氏の名門
梅ヶ畑産の戸前です

研磨力が強い影響か
鋼(刃)が黒く研ぎ上がっています
研ぎ上がりのムラも
かなりあります

撮影の角度を変えてみました
砥ぎ上がりのムラが顕著です

こちらは今回採取したもの
地・刃ともに均一に
しっとりと研ぎ上がっています
砥ぎ疵はやや粗いものの
日本刀の古刀のように
美しく研ぎ上がっています

砥ぎ上げたハイス鉋を
仕事で使ってみました
黒檀削り