2010年4月18日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その5 

ブログを読んで下さった方から
上のような写真を送っていただきました
この場にてお礼申し上げます

左右の三つ巴の軒瓦が
同じ敷地内にあったのだそうです
場所は兵庫県篠山市
この二種類の軒瓦が一軒の家に
使われていたのか知りたいところです・・・
不思議なことに、ここまで書いたところで
神戸の福原京跡ではないかとされる祇園遺跡
左右二種類の三つ巴の軒瓦が
出土しているという情報を得たので
次の日、姫路に行く用事の途中
それが収蔵されている
足を運ぶことにしました


そして、今日になるわけですが
神戸市埋蔵文化財センターに行ってきました
ここには兵庫県に越してきた頃から
何度も足を運んでいますが
2年ぶりに訪れました
目的の祇園遺跡の出土物は
常設展示はしてありませんでしたが
ここでは収蔵庫の様子も見学することができ
膨大な量の収蔵品の中に、ありましたありました


ガラス越しですのでうまくカメラに
収めることができませんでしたが
なんとか様子は分かります
こちらは右巻きの三つ巴の軒瓦です


そしてこちらは左巻きのもの


これを見ると、大きさとデザインが違うので
明らかに同じ屋根に使われていたとは思えません
建物が違うか、時期が違うもののようです



三つ巴の軒瓦が他にもありましたので
ついでに紹介しておきます
これは神戸市中央区の
花隈城跡から出土したもの



上の二点は常設展示してあるものですが
神戸市西区神出町の
神出(かんで)古窯跡から出土したもの
平安時代から鎌倉時代にかけて
ここで焼かれた瓦は
京都にも運ばれていたということです
その他、日用品の食器やすり鉢などは
瀬戸内海沿岸、そして九州の大分県
福岡県北部、さらに西の長崎県まで
運ばれていたようです

福岡県では、菅原道真が左遷させられたことで
有名な大宰府でも確認されています
大宰府庁には、福原に都を遷(うつ)した
かの平清盛も足を運んでいるようですが
これは、清盛が当時の中国
宋との貿易を企てていたため
宋との関係が強い大宰府に交渉をしに行った
という穿った見方もされているようです
平清盛は、都を遷した福原(神戸市)を
貿易港にするつもりだったのでしょうか


2010年4月16日金曜日

碧玉と九鬼水軍 その4 

九鬼(くき)家の由来が記されている九鬼文書(くかみもんじょ)では、九鬼家の祖神は「天豊春日命」となっています。
その31代後は中臣鎌足(なかとみのかまたり)となっているので、天豊春日命の時代は紀元前後の弥生時代頃となるのでしょうか・・、その頃から現在の奈良県春日とは縁があったということになりますね。15日に述べたように、三田市の三輪神社は平安時代に奈良の大神(おおみわ)神社から分祀されています。時代は700年ほど下りますが、戦国時代に幕府により三田の地に九鬼家が移封(いほう)させられたのは何故なのでしょうか・・不思議です。
九鬼文書では、天豊春日命の49代前は「天児屋根命(あまのこやねのみこと)となっています。
この神は別名「春日権現」でもありますので、やはり古代から奈良とは縁があったようですね。
話が脱線しますが、天豊春日命の31代後の子孫の中臣鎌足のことですが、一般的には中臣鎌足と藤原鎌足は同じ人物ということになっていますが、鹿島曻説では別人で、しかも中臣鎌足は新羅人の金庾信(ゆしん)、藤原鎌足は唐人の郭務悰(かくむそう)ということになっています。
また関裕二説では百済王の豊璋(ほうしょう)とされています。両説では証拠も多く挙げられていて、どちらも説得力がありますが、単純に考えて、白村江の戦いの勝者側の唐の郭務悰か敗者側の百済の豊璋かということになるわけですが、敗者側というのはちょっと無理があるような気がします。どちらにしても、九鬼家の祖先は水軍として白村江の戦いに参加していたということになるわけです。




2010年4月15日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その3

ここが謎の和服姿の女性が案内してくれた三田市三輪にある三輪神社であります(参照地図)。鳥居の紋を拡大して見てください。三輪というくらいですから三つの輪が重なった意匠になっていますが、遠くから見ると九鬼家の家紋である左三つ巴に似ているので、ちょっとドキリとしました。それから、社伝を読んで驚きました。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、平安時代に大和国(やまとのくに・奈良県)の一宮である大神(おおみわ)神社から分祀されたということなのです(参照。大己貴命といえば大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名でもあります。つまり出雲(いずも・島根県)の神様であります。出雲産の碧玉(へきぎょく)とされる加工品が出土した、弥生時代の餅田遺跡は三輪神社のすぐ近くにあるのです。ということは、この地に大和から出雲の神を祀る神社が分祀されたのは、もしかしたら弥生時代からのつながりがあったのかもしれないと言えるのではないでしょうか。
三輪神社は山のすぐ脇に拝殿があるので、明らかに古い形態の神社で、もともとは岩座(いわくら)信仰が行われていたものと思われます。また、拝殿の裏山には古墳が数基確認されているので、神社もその事と関連があるのではないでしょうか。





2010年4月11日日曜日

バッハとラウテンクラヴィーア その2

バッハはリュートの音をこよなく愛していたそうですが、リュートという撥弦楽器はルネサンス時代からの興隆が、バッハが活躍していたバロック時代後期には衰退し、チェンバロという鍵盤楽器に取って代られていました。
そのような時期にラウテンクラヴィーアというハイブリッドな楽器が登場したのは、何か暗示的なものを感じます。しかしながら、バッハの死(1750年)とともに終焉を迎えたバロック時代の幕が下りると、主役のチェンバロも含め姿を消してしまうのです。
こうした、バロック時代の最後に花を開かせたバッハ、ヘンデルと同世代のリュートの巨匠が、演奏家であり作曲家でもあったヴァイスでした。
ヴァイスはドレスデン宮廷の専属リュート奏者として活躍していて、その年俸は当時のヨーロッパの器楽奏者の中では最高額を得ていたということです。ですからバッハとヴァイスの交流は、バッハの長男のW.F.バッハが仲介をして、バッハの方からヴァイスを訪ねて行くことから始まったそうです。また、1739年(バッハ54歳のとき)にはW.F.バッハがヴァイスとJ.クロップガンズという二人のリュート奏者をライプツィヒのバッハ邸に連れていったという記録が残っているようですから、そのようなときにリュート奏者から様々な刺激を受け、バッハのリュート曲が生まれたのだと思われるのです。


2010年4月9日金曜日

バッハとラウテンクラヴィーア

7日に紹介した新作のラコート風モダン・ギターを製作するにあたっては、チェンバロ奏者の山田貢氏による、ラウテンクラヴィーアの研究が大いに参考になりました。
ラウテンクラヴィーアとはリュート風チェンバロのことで、
J.S.バッハが所有していたとされる鍵盤楽器です。
ところが、この楽器は現存しておらず、図はもちろん資料もほとんど残っていないのだそうです。バッハの遺産目録にはラウテンクラヴィーア2台とあるので、バッハが所有していたのは確実のようですが、山田貢氏の著書「バッハとラウテンクラヴィーア」によると、その楽器についての文献はごく少なく、しかも断片的だということです。それに加え、記述に欠点や矛盾が多く、楽器を再現するためには常に仮説の域から脱することができないということで、まさに暗中模索の連続だったようです。

山田氏がラウテンクラヴィーアの再現を試みることに先立ち、ドイツの楽器製作家ルドルフ・リヒター氏が1990年に再現しています。リヒター作の楽器は、1718年頃のフライシャーという人物によるラウテンクラヴィーアの形状の記述「古代ローマの円形劇場のように丸いか、または楕円形」を参考に製作されたものです。ここで興味深いのは、山田氏がリヒター作の楽器を弾かせてもらいに行った際に、この楽器を参考してもよいかと問うたところ、リヒター氏はそれを否定し、自身の反省が述べられていることです。
その時のリヒター氏から山田氏に対するアドバイス・・「コルプス(楽器本体の中に固定されるリュートの胴体のようなもの・3枚目の写真参照)の内部容積を大きくとりすぎた」 また、「典型的なリュートの音があまりよく得られなかった」 そして、「この楽器の改良製作をすすめる気がしない」と結んでいるのです。
リヒター氏は1986年と1996年にはテオルベンフリューゲル(テオルボ:大型リュート)風鍵盤楽器)も製作していますが、山田氏によると、2台目の1996年作には明らかな改善が見られ、前作より自然な鳴り方でリュートらしさを持っていたということです。その主な要因は楽器の胴容積を絞ったのが良かったのではないかと推測していられます。

そしてこれが山田氏設計による
ラウテンクラヴィーアで演奏したCDです
奏者はもちろん山田氏御自身
録音は2009年5月19日~21日

CDジャケットには楽器の
全体写真も載せられています

これは楽器内部のコルプスの様子
リュートの背面と同様のものが
収められています

ラウテンクラヴィーアのCDは
他に5枚ほどリリースされているようですが
そのうちの4枚を入手することができました
これはその1枚で
奏者はピーター・ワルドナー氏
楽器はアメリカの作者
ケイス・ヒル氏作 1999年製


そしてこちらは、同じく
ケイス・ヒル氏作の1994年製の楽器を
ロベルト・ヒル氏が演奏しているもの
同じ作者でも製作年代で
ずいぶん音の印象が違います


こちらはウィラード・マーティン氏作
1994年製の楽器を
キム・ハインデル氏 が演奏したもの
こちらの音は山田氏設計のものと
よく似ていて
リュートらしいものを感じます


そして最後にこのCDですが
この楽器は本体の形が
リュート状のもので1982 年に
ダウド商会により製作されたものです
演奏はゲルゲイ・サルコジ
このCDにはテオルボ(大型リュート)で
演奏された曲も1曲収められていて
楽器の音の比較ができます
テオルボの作者はハンガリーの
ティハメール・ロマネク氏
氏は上の写真のような
ラウテンクラヴィーアを製作することでも
知られています(参照

その後、ウェブ上の画像が
増えていたので
以外、紹介しておきます





バッハはリュートの音をこよなく愛していたそうですが、リュートという撥弦楽器はルネサンス時代からの興隆が、バッハが活躍していたバロック時代後期には衰退し、チェンバロという鍵盤楽器に取って代られていました。
そのような時期にラウテンクラヴィーアというハイブリッドな楽器が登場したのは、何か暗示的なものを感じます。しかしながら、バッハの死(1750年)とともに終焉を迎えたバロック時代の幕が下りると、主役のチェンバロも含め姿を消してしまうのです。
こうした、バロック時代の最後に花を開かせたバッハ、ヘンデルと同世代のリュートの巨匠が、演奏家であり作曲家でもあったヴァイスでした。
ヴァイスはドレスデン宮廷の専属リュート奏者として活躍していて、その年俸は当時のヨーロッパの器楽奏者の中では最高額を得ていたということです。ですからバッハとヴァイスの交流は、バッハの長男のW.F.バッハが仲介をして、バッハの方からヴァイスを訪ねて行くことから始まったそうです。また、1739年(バッハ54歳のとき)にはW.F.バッハがヴァイスとJ.クロップガンズという二人のリュート奏者をライプツィヒのバッハ邸に連れていったという記録が残っているようですから、そのようなときにリュート奏者から様々な刺激を受け、バッハのリュート曲が生まれたのだと思われるのです。