2011年11月22日火曜日

駒王丸と高麗王若光 その2

幼名駒王丸の木曽義仲は源氏でありますが、源氏のルーツについては諸説あり、その一つに藤原氏の護衛、あるいは荘園の用心棒的存在として仕えていたというものがあります。これが地方の有力者と結び付き、徐々に力を蓄えていき、武士という存在になったというものです。
それから、新羅の花郎であったという説があります。
907年に唐が滅亡していますが、唐との貿易で成り立っていた新羅も連鎖的に滅びています。このときに新羅に代わって建国したのが契丹と高麗ですが、高麗軍に追放され日本の関東地方に亡命した新羅人の中に、この花郎も含まれていたようです。このときの高麗は後に述べる若光の高麗(高句麗)とは別の王朝で王氏高麗のことです。

高麗王若光のことは日本書紀と続日本紀に僅かしか記されておらず、日本書紀・天智五年(666年)に「冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄鄒等進調、大使臣乙相奄鄒 副使達相遁 二位玄武若光等」とあり、続日本紀巻三の文武三年(699年)に「乙未 從五位下高麗若光賜王姓」とあるのみです。このなかの「王」という字には一般的に「こきし」という朝鮮語の訓が付けられています。
続日本紀には他に高麗人についての記述があり、霊亀二年(716年)に「以駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相摸(さがみ・神奈川県)、上総(かずさ・千葉県中部)、下総(しもうさ・主に千葉県北部、茨城県南西部)、常陸(ひたち・茨城県北東部)、下野(しもつけ・主に栃木県)七国高麗人千七百九十九人、遷于武藏國、始置高麗郡焉」とあります。
このことから、668年に滅んだ高句麗(高麗)から多くの亡命者が日本列島に入ってきたことが窺われます。先に紹介したように、若光には從五位下の位と王(こきし)姓が与えられています。これが高麗王若光という名の起こりのようです。
参考までに、王氏高麗(918年~1932)に対し、若光がいたときの高句麗(紀元前37~紀元668)は6世紀頃から高麗を正式な国号にしていたということです。尚、若光のときの最後の王は宝蔵王とされています。










2 件のコメント:

源 信正 さんのコメント...

源氏は新羅の花郎(ファラン)の亡命者とすると、平氏は百済の亡命者となりますが、心の祖国日本に戻り、それぞれが武力という特技を生かし、有力者の用心棒として、雇われ、政権交代の裏舞台で活躍したことは、なんとなく納得できます。

高句麗というと朝鮮ドラマのチュモンに出てくる三足カラスが思い出されます。

日本では やたがらす が三足烏と言われており、太陽が陽、月が陰とし、奇数が陽、偶数が陰とされています。
古くはギリシャにもエジプトにも出てくる鳥(とり)です。
その鳥の背中に太陽を乗せて舞い上がると言われています。

平家の御旗は赤に金色の丸、源氏の御旗は、
現在の日本の国旗と同じ白地に赤丸です。
聖徳太子は隋に日本のことを 日の出るところ とあえて言っていますが、日の出の太陽は、金色からオレンジだと思います。
古代の日本の遺跡に太陽を赤く描いたものはあるのでしょうか?

楽器製作家 田中清人 さんのコメント...

平氏の出自はよく分からないところがありますが、
朝鮮半島ということは言え、水軍系統の武士集団だった可能性はありそうです。
その平家が壇ノ浦の合戦で敗れたのは、
源義経の作戦で、熊野水軍の協力を得たことが大きかったようです。

古代インド諸族の家紋が日本の武士の家紋と一致しているものが多いという指摘があるように、朝鮮半島新羅の花郎や平氏の大元は、やはり西アジアにあり、それがインド経由で朝鮮半島に達しているようです。
八咫烏は、神武東征譚で、大和に入った神武の道案内をしていますが、
鹿島曻氏によると、倭人興亡史や桓檀古記から判断すると、神武は扶余王仇台のことになるとしています(百済王仇首でもある)。
初代扶余は高句麗を建国した人物ですから、古事記や日本書紀の記述は朝鮮半島の出来事だった可能性も考えられます。

桓檀古記などから、仇台(神武)は帯方(ソウル)の地に伯済(後の百済)を建て、海を渡って九州北部福岡県の糸島に伊都国建て、さらに熊本では多婆羅国を建てています。
これらのことから、正史とされている神武天皇の時代は紀元前8世紀などではなく、紀元3世紀頃ということになります。

九州の装飾古墳の壁画に丸い赤はありそうですが・・