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2023年2月10日金曜日

匠家必用記 下巻 一章 二章 読み下し

 宝暦四年(1774年)に書かれた
匠家必用記 下巻から
一章と二章の読み下しを紹介
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匠家必用記下之巻
立石定準記
一 地鎮(ちしずめ)の事
宮社を造らんと願ば先其地をたいらにして、不浄をはらひ水縄を引、地取を極め其まん中にはしらを立る。是を斎柱(いんはしら)と云。俗家にては是を大極はしらといふ号く「俗せつにキモンハシラと名て東北のはしらはあやまり也。キモンのことは日本のことにあらず、本朝りげんといふ書にでたり。かんがえ知るべし」。則此はしらを家の大こくはしらに用ゆるべし。づ(図)のごとくくいを四本うち、しりくめ縄を引廻し、榊(さかき)を以て飾べし。又弓二張「白木綿の弓つるを用ゆべし」。矢二筋用ゆ「一筋はかぶらや、一筋はかりまた」。天神地祇を祭り、又番匠の神の神号を板に書て柱にかけ、前に鏡餅、角樽、鯣(するめ)、昆布等の祝儀物を献上すべし。此時尼僧及すべての不浄を遠(とおざ)く可(べく)也。番匠のたる人、礼服を着して神を拝すべし。是則、神代に伊弉諾尊、伊弉冉尊国中に柱を立給ふよりこと起り、神代に専(もっぱら)此こと神事ありて、


今上古の遺風たえざるはあり難こと也。伊勢太神宮にも宮建立の前、此祭り有。是を心の御はしら祭りといへり。「心御柱記」曰、心御はしらは一気(いつき)の起、天地の形陰陽の源、万物の体也云々。此はしらを御はしらとも天御柱とも忌はしらともいへり。前にもいふごとく此みはしらのことあ神道の根元至てふかき意有故に宮社並に屋宅を造るに、先(まず)忌はしら大極柱を立、不浄をはらひ地を鎮る(しずむる)は其縁(ことのもと)なり。是をしらずして何心なくはしらを立るは、番匠の本意にあらず。よく考へ知るべきこと也。或人曰、家の真中のはしらを大黒柱といふは大極の字を誤り、夫(それ)家は一天地のごとく、此故に其真中の柱を大極と名(なづけ)たり。心御はしらに比すと。云々

二 釿始(ておのはじめ)之神事
釿始は宮造り、家造りの始、万歳をたもつの基なれば、別て(べっして)めでたき神事也。番匠たる人、礼服を着し職神を祭り、神酒、鏡餅、肴等の祝儀物をささげ祭りて、釿始すべし。一書(ある書)に釿始に唱ふる文有。仏説のしん言をもちゆといへり。是等のことは天竺にては左も有べし。日本にては、大気にいむ事也。天照太神の御託宣にも、仏法の息を屏(しりぞけ)、祭神祇を崇(あがむ)とあるを、今更思合すべし。そうじて、釿始の前日、当日万事不浄を遠く(とおざく)べし。宮造りはいふにをよばず、家造りとても慎(つつしみ)を第一とし、喧嘩、口論等相互にかたく禁(いましむ)べきことなり。


2023年2月7日火曜日

匠家必用記 中巻 七、八、九、十章 読み下し

 匠家必用記 中巻 七、八、九、十章
の読み下しを紹介
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七 天照太神笠縫の里に御鎮座の事
瓊瓊杵尊日向の高千穂の峯に天降りましますとき天照太神三種の神宝を授け給ひて、此国の主としたまふ。よって皇孫尊へ勅(みことのり)して曰(のたまはく)、此宝鏡をを見まさんこと我を見るがごとくすべし。床を同(おなじふ)し殿(みあらか)を供にして斎(いはひ)の鏡となすべしとの神勅によりて、御同殿に斎ひ祭り給ふ。人皇神代神武天皇も厚く神を尊敬し給ひ、神代の教のごとく三種の神宝を御同殿に斎ひましける。然に人皇十代崇神天皇にいたりて、甚神威をおそれ給ひ、供に住て安からずとおぼし召て、更に石凝姥(いしこりどめ)神の裔(はつこ)、又

天目一箇命の裔二氏に命(みことのり)して、剱鏡を造らしめ御身の護とし給ひて、御殿に祭り給ふ。又手置帆負命、彦狭知命の裔に命して、大和国笠縫の里に宮殿を造らしめ、神代より伝ふる剣鏡を遷し鎮め奉り給ふ。天照太神宮是なり。則、皇女豊鋤入姫を斎宮(さいくう)とし給ふ。然ども此御宮地神の御こころに叶ざりしにや。是より国々所々に太宮地を竟(もとめ)給ひ、大和国三輪の御諸の宮にて御姪の大倭姫命(やまとひめのみこと)に斎宮をゆづり給へり。是より又、所々に遷幸まします。凡此御宇より垂仁天皇の御宇を国々所々に宮を建立し給ふこと其数かぞへがたし。皆手置帆負命、彦狭知命の裔に命じて造らしめ給ふとかや。此笠縫の里に御鎮座ありし年より今宝暦四年迄千八百四十五年になる也。

八 天照太神五十鈴の川上に御鎮座の事
大倭姫命、国々所々に宮地を求め給へども、とかく太神(おおんかみ)の御心に叶ざりしにや。其後伊勢国に至り給ふ。ときに天照太神、大倭姫命に晦(おしへ)て曰(のたまわく)、是神風、伊勢国常世の浪重(なみしき)浪帰(なみよす)可怜(うまし)国也。此国に居(お)らんと欲(おぼす)と。故(かるがゆへ)に太神の教に随て御宮地を定め給ふ。此故に大倭姫命諸氏に命じ給ふは五十鈴の川上の艸木(くさき)を伐はらひ、大石小石を平にし、地の高卑をならして宮地と定むべし。又手置帆負命、彦狭知命の裔に命じて、先(まづ)斎柱(いんばしら)を立て、後御宮を造らしめ、天照太神を遷し鎮め奉る。今の内宮是なり。此とき所々に枌社、末社を建立し給ふ。其数多し。是又手置帆負命、彦狭知命の裔に命して造らしむ。此御鎮座の年より宝暦四年迄千七百五十六年なり。

九 豊受太神山田原に御鎮座の事
天照太神伊勢国宇治の五十鈴の川上に鎮座し給ひて後四百八十一年を歴(へ)て、雄畧(略)天皇の御宇(ぎょう)二十一年冬十月、天照太神大倭姫(やまとひめ)命に誨覚(おしえさと)し給ふは、丹波国魚井(まない)の原に座(まします)す、豊受太神を我座国(わがますくに)に遷し奉れと有し故。此旨天皇へ奏聞ありければ、則大若子の命に勅(みことのり)ありて、丹波国へ往(ゆき)て遷幸の義を申上らる。又手置帆負命、彦狭知命二神の裔に命じ、山の材を伐とり宮を造らせ給ひ、明年七月七日大佐々命に勅有て丹波国より豊受太神を迎え奉り、伊勢山田の平尾に行宮(かりみや)を建て、爰に三ケ月宿し奉る。其後九月十六日に今の御宮地に遷し奉る。外宮豊受太神宮是なり。此外摂社、末社も建立あり。是皆手置帆負命、彦狭知命の裔の制作也。又此後は格式定まりて、両宮共に二十年に一度づつ御宮を造りかへ給ふ。此御鎮座の年より宝暦四年に至り千二百七十七年也「内外宮の事は委諸書に有之故ここに畧す」。

十 番匠の神御神徳の大意
番匠の祖神手置帆負命、彦狭知命の御事右に書するは神書の大概也。其神功の委こと諸書に便てあきらむべし。上にもいふごとく、日本開闢の始は人の家といふこともなく、岩穴を造りて居住せり。其とき二神、人の難儀を憐給ひ、心を合て番匠の基本を起し給ふ。まことに二神の神徳普く天下に繁栄し、今諸人家に居することは此二神の御恵也。番匠は此職を受継て、宮殿、屋宅、諸々の器材を造ること、皆二神の神教なれば、此職をつとめて今日妻子を養事、偏(ひとへ)に是二神の大恩ならずや。番匠たる人は別て敬奉るべし。此外桶工、桧器匠(ひものや)、鋸匠(こびき)、竹細工人等も此二神を敬ふべし。
匠家必用記中之巻終

2023年2月3日金曜日

匠家必用記中巻 五章と六章読み下し

匠家必用記 中巻から
五章と六章の
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五 皇孫尊高千穂の峯へ天下り給ふ事
大己貴命、国を皇孫尊へ授給ふこと上聞に達し、天照太神の御悦喜(よろこび)かぎりなし。ときに天照太神、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)語て曰、芦原の瑞穂国は吾孫の主たるべき国也。皇孫尊就(ゆき)て治(しらす)べし。宝祚(あまつひつぎ)の隆事(さかへんこと)はまさに天壊(あめつち)と窮なかるべしと、の給ひて、三種(みくさ)の神宝(かんだから)を授け給ふ。よって諸神付したがひ天の八重雲を威稜(いづ)の道別に道別(ちわけ)て、筑紫日向(ひうが)の高千穂の峯に天降り給ふ。それより方々と宮地を求給へども、とかく御心に合ざりしにや。ときにその国

神、事勝国勝長狭を召て問給ふは、宮を造るによき所りや。長狭の曰、よき宮地有。御心のままに御幸覧あるべしとて、導し吾田の長屋笠狭の崎にいたりたまふ「今此所を宮崎といふ、高千穂の峯を去ること二十里と或抄に見へたり」。則、長狭の教によって其地に宮殿を造営して住み給ふ。是より天業(あまのひつぎ)専さかんにして、天児屋根命、天太玉命を補佐の臣とし、誣(経)津命(ふつぬしのみこと)、武甕槌命は征伐の権を掌り(つかさどり)、其外の諸神ともに官職をつとめ、皇孫尊(すべみまのみこと)を守り侍らしむ。是より地神四代、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、同五代、鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)尊も此御宮にましましき。

六 神武天皇大和国橿原に内裏を建立し給ふ事
人皇(にんおう)の始、神武天皇は鸕鶿草葺不合尊第四の御子也。日向(ひうが)国にましまして、天下を御(しろしめ)し給ふ。然るに近国はよく治れども、遠国におゐて動(ややもすれ)ば皇命にそむく者有。此故に東国征伐をおぼし召、立給ひて、皇舟(みふね)に召れ、日向国を出帆して筑紫の宇佐に至り給ふ「今豊後国宇佐也」。その地に宇佐津彦命、宇佐津姫命という人ありて一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造りて、天皇を待受、大に饗(みあえ)奉る「あしひとつあがりの宮はきさはし、高らんある宮也。是其始ならん。貝原氏曰、其ときの宮柱の穴とて呉橋(くれはし)川の川上の水際にありと」。是より吉備国高嶋に至り給ひ「今備前国高嶋なり」、行宮(かりみや)を建て、爰(ここ)に三年ましましぬ。是より又御舟に召て、難波に至り給ひ河内国をこへ、大和国にいたり給ふ。此時に不順(まつろわぬ)賊徒を悉く誅し給ひて、橿原といふ地に内裏を経営し給ふ「橿原の地は今葛上郡柏原村に旧跡ありと藻塩草に見へたり」。よって忌部の長天富命は手置帆負命(たおきほおいの命)の孫、彦狭知命の孫を率て下津磐根

に大宮柱ふとしく立、高天原に千木高しりて宮殿を造らしむ。又宮中に蔵を建て給ふ。これを斎蔵(いんぐら)と名く(なづく)。忌部氏をして永く其職に任し(よざし)給ふ「是蔵の始ならんか。前に云ごとく手置帆負命、彦挟知命は神代に始番匠の道を起し給ふに、大切あるゆへに神代に宮建立ありしときは、此二神に命じて造らしめ給ふ。此例によって神武天皇も二神の孫に命じて内裏を造らしめ、永く其職に任ざし給ふ。此故に代々の天皇も二神の裔(はつこ)を内裏の匠頭と定給ふ也。よっておもふに、民家にも是に倣て格式の普請には古法を失わず家造りに臨では、其主の先祖のとき造りし番匠の子孫を以て家宅を造ること是上古の遺風也。是のみならず、余のことも古例に合(かなふ)事まま多し」。又斎部の諸氏を率て種々(くさぐさ)の神宝、木綿、麻織布、盾矛をつくりて、天皇へ奉らしむ「忌部諸氏は天日鷲命孫、手置帆負命、彦狭知命孫、天目一箇命孫、櫛明玉命孫也。此とき天富命を首とし

て皆忌部氏の御一門なり」。手置帆負命の孫、矛竿を制(つくり)て献上し給ふなり「此矛竿を献じ給ふこと吉例と成て毎年矛竿を献じ給ひて大同年中迄も此例虚しからず。此とき手置帆負命孫わかれて讃岐国に居住あるゆへに讃岐の忌部と云。なを子孫はびこりて忌部氏多かるべし。矛竿は矛の柄なり。今の鑓の柄のたぐひなり」。又天日鷲命の孫は阿波の国へ下り、麻殻を植て天皇へ献上し給ひ、大嘗会(だいじょうえ)のときに当りては、其国より所々の産物をささげ奉りたまふ「天日鷲命の孫、阿波の国に居住して麻殻を殖給ふゆへに其郡を麻殖と名く。今其地に忌部氏の人多し。これを阿波の忌部といふ。みな天日鷲命の子孫なり。此ゆへに忌部の人々山さき村に社を建立してうやまひ奉る也。延喜式にも麻殖郡座忌部神社天日鷲命とあれば、由来久しき御社也」。又天富命、彼阿波の忌部をわかち、総(ふさ)の国へ遣(つかわ)され、麻殻を植させ世の重宝

となさしむ「総の国は後にわかれて両国となる。今の上総、下総、此也。此忌部居住有し地を安房(あわ)の郡と号(なづ)く。今の安房の国也。此国に忌部氏の人有と神書に見へたり」。天富命、その地に太玉命の神社(やしろ)を建立し給ふ。是を安房社と号く「今此神社を州崎の神社といふ。此御社こんりうの年より、今宝暦四年四年迄二千四百十四年にになる由来久しきことなり。太玉命は忌部の祖神なるによって御孫天富命社を建立して尊崇し給ふ也」。此外諸神の孫所々の物を造りて天皇へ捧給ふ也。凡(およそ)此ときより王業盛に行れ、三種の神宝を正殿に安置し給ひて、神国の貴きことを民にしろしめ給ひ中臣、忌部の二氏は神祇(しんき)を祖祀(まつる)の儀(よそほい)を掌(つかさど)りて天津罪国、国津罪を解除(はら)ひ、大伴氏、物部氏は朝敵退治の権を掌(たなごころ)にし、其外神代より伝ふる神々の子孫をして、それぞれの職に任(よざ)し給ふ。誠に神武天皇の神威四海にみちて、一人も敵する者なく永く太平の国となし給ひ皇統万々歳、天地と窮(きまわり)なき人皇の基本を起し給ふ。神功誰しもこれを仰貴ず(あおぎたっとみ)ずといふことなし。此橿原に内裏を建立し給ふ年より今宝暦四年迄二千四百年十四年になりぬ。


2023年1月28日土曜日

匠家必用記中巻  三章と四章の 読み下しを紹介


匠家必用記中巻より
三章と四章の
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三 素戔嗚尊清地に宮を建給ふ事
素戔嗚尊は上に云ごとく、諸神の逐(やらひ)によりて遂に出雲国簸(ひ)の川上に天降り給ふ。其地に八俣の大蛇(おろち)ありて稲田姫を害せんとす。素戔嗚尊是をきき給ひ、忽(たちまち)いつくしみの御心を起し給ひて、其苦を救ひ給はんと欲し、大蛇を退治せんことをはかり給ふ。先あしなづち、てふづちをして毒酒を造らしめ、大蛇にあたへたまへば、大に酔てねふる。其とき、そさのおのみこと帯し給ふ十握(とつか)の剣(つるぎ)を抜て大蛇をずだずだに斬給ふ「此剱を天羽々斬の剱と云。又は虵(おろち)の麁正(あらまさ)共号(なづ)く。今備前国赤坂郡石上魂神社に祭る。又は大和国石上の神社い祭るともいへり」。其尾に至て剱の刃すこし缺ぬる故、割て見給ふに霊異なる剱あり。天のむら雲の御剱と号く

「是三種の神宝の一つなり。景行天皇の御宇東にぞ賊徒起りしとき、皇子日本武尊此御剱をもって発向し給ふに、賊徒畏恐(おぢおそれ)てことごとくなびきしたがへり。国平安となりしこと此剱の御徳也。神を木にたとへて一柱、二柱といふ。万民を草にたとへて、あおひとくさといへり。かるがゆへに、此つるぎをくさなぎの剱といふ。草なびきの中畧なるべし。今尾張の国熱田の神宮におさむ」。素戔嗚尊、今奇異の剱を得て私に持えきことにあらず、太神へささげ奉り、天下の重宝となさんとおぼしめして、天照太神へ上献し給ふ。此とき稲田姫をめとりたmひて、宮地求給はんと欲し、出雲国清といふ所にいたり給ふときに、素戔嗚尊、御心もやはらぎ清浄の心にたちかへりたりとおぼし召して、吾心清清之(すがすがし)と自(みずから)の給ふ也。則この清という所、清浄なる地によって宮殿を造営して住給ひ、ほどなく御子大己貴命(おほあなむちのみこと)を生(あれま)し給ふ。この御宮も手置帆負命、彦挟知命の造りたまふものなり。

四 大己貴命日隅宮を建立し給ふ事
天照太神御孫、天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を芦原の中津国の主とし給はんとおぼし召て、経津主尊(ふつぬしのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)二神に詔して豊芦原の中津国を平げしむ。二神、出雲国へ降り給ひて大己貴命に対面し、太神の詔の旨を仰られしは、国を皇孫尊(すべみまのみこと)へ譲べし。汝は天日隅宮を造りて住むべし「日隅宮は今の杵築大社(きづきやしろ)也。今より後は神事をしらすべき也。宮造りの制は、柱はふとく高く、板は広く厚きを用ゆべし「杵築の大社は余の社よりも大なるは此謂也」。其外、高橋、浮橋、天の鳥船を造りて海に遊ぶの具とすべき也。番匠神は手置帆負命、彦挟知命を定べし「日本記に紀伊斎部(いんべ)遠祖、手置帆負命を定て笠縫とし、彦挟知命を盾作(たてぬい)とすといへり。元正天皇養老年中に一品舎人親王、日本記をゑらみ給ひしとき、此二神の裔(はつこ)、紀伊国、名草郡、御木郷、麁香(あらか)郷(ごう)に居住し故、其先祖の神をさして紀伊忌部遠祖と書給ふ也」。天目一箇命、金工と定給ふ「上にもいふごとく、是鍛冶の祖神也。此とき宮入用の金物を造り給ふなるべし」。大己貴命、此

詔(みことのり)をうけ給りて、其御子事代主命ともに太神の勅命にしたがひ、事ゆへなく国を皇孫尊に授給ふ。則大己貴命の持給ふ所の広矛を二神に授給ひて曰(のたまはく)、吾(あれ)此矛をもって国を治るに功あり。今、皇孫尊、此矛をもって国を治め給はば、かならず平安なるべしと、の給ひて隠去給ふ。二神此矛を請取給ひて、天照太神へ此由を作上られける「此段大己貴命出雲の大社を建立し給ふこと、かくのごとし」。


2023年1月23日月曜日

匠家必用記中之巻から一章と二章の 読み下しを紹介

立石定準記
匠家必用記中之巻 
から一章と二章の
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一 陰陽の二神八尋の宮殿を化立(たて)給ふ事

夫天地開闢のはじめ、高天原にまします神の御名を天御中主尊(みこと)と申奉る。今の伊勢外宮豊受神是也。天地開闢の始より今にいたる迄、国にとこしなへにまします故、国常立尊と申奉る。是天神初代の御神也。次に二代、三代、と相続し給ひて七代目の御神を伊弉諾(いざなぎ)尊、伊弉冉(いざなみ)尊と申奉る。天神此二神に詔し給ふは豊芦原の瑞穂の国あり。汝往て知領し給へとて、天瓊矛(あまのぬぼこ)を賜ふ。二神天の浮橋の上に座(まし)て、一心を起し戈(ほこ)をさしおろして、国をもとめ給ひしかば、滄海(あをうなばら)を得給ひき。引あげ給ふとき、矛のさきよりしたたり落る潮コリて一つの嶋となり。是をおのころ嶋と云。おのころ嶋はおのづからコリといふ義也。二神此嶋に天降り給ひて国中の天御柱を立、八尋の宮殿を化立給ふ也。此宮殿は天の瓊矛の御徳によって化立宮殿なり。これ神代天宮のはじめ也。はつは神道に愛する数、神徳八方へ布(しく)を称する義也。尋は手をのべ、尋どって宮の大さをきはめ給ふ也。上にもいふごとく是手量(てはかり)といふ。又は手尋ともいへり。ひとの長にてはかる、是をたかはかりと云。今の鴨居の高さ五尺七八寸にするは根元たかばかりより出たることなり。則此宮殿にましまして、天道万化を施し、日月山海土金水火草木等の神を化生し(あれまし)給ふ。


二 天照大神磐窟(いわや)に幽居(こもり)給ふ事

伊弉諾尊、伊弉冉尊国土を化生し(あれまし)給て後、天照大神、月読尊を生せり。次に素戔嗚尊を産み給ふ。然に素戔嗚尊悪行日々にさかんなる故、天照大神の御いかり甚し。もはや対面すまじと、の給ひて天下の政を捨て、天の磐窟に幽居(こもり)ましましぬ時に六合(くにのうち)常闇にして昼夜のわかち


なく「常闇とは天照大神磐窟へ入給ふゆえに、守護なく村に長なきがごとくにして安心ならざるをいふ」。此故に八百万神愁給ひ、天の高市に会集して太神(おんがみ)を磐窟より出し奉らんことを談合評議し給ふ。ときに思兼命遠く慮(おもんぱかる)。天糠戸命をして日像(ひのみかた)の鏡を鋳さしむ「天糠戸命は鋳物師の祖神也」。長白羽の神は和幣(にぎて)を造らしめ、天棚機(たなばた)姫命は神衣(かんぞ)を織て和衣(にごたえ)を造らしむ「今婦人の尊崇奉る機神は是也」。櫛明玉命は御統(みすまる)の玉を造しめ、天目一箇命(あまのまひとつのみこと)は剱(つるぎ)、斧、及もろもろの刃物を造り給ふ「是鍛冶の祖神也。播磨(はりま)の国多賀郡に御鎮座有。俗説に管相丞(菅原道真のこと)を祭り、或は稲荷を祭るはあやまり也。二神ともに鍛冶を祖神にあらず」。手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命二神は斎斧(いんおの)、斎鋤(いんすき)、天御量を以て「斎斧は今いふまさかり也。斎鋤はすき鍬也。天御量は番匠道具の名也。大小長短をはかりて宜に用る故はかりと云」山へ入、材木を伐出し瑞殿(みずのみあらか)を造り給ふ「瑞はみづみづ敷清浄の儀、殿(みあらか)御在家也」。手置帆負命、彦狭知命、番匠の道を始給ふとは伊弉諾尊伊弉冉尊国中に天御柱を化立給ふ御神徳かんじ給ひて番匠の道の基本をひらき給ふ也」。天鈿女神楽(かぐら)を奏して舞給ふ。天児屋根命、天太玉命はともに祈祷まさしむ。ときに太神(おんかみ)岩戸をほそめにあけ御覧じ給ふ。故にめでたいと云言葉、此ときよりぞ始る也。天手力雄命は磐窟の側に侍りて終(つい)に岩戸を引啓(ひらき)、太神の御手をとりて引

出し奉り、右の新殿にうつし奉る。櫛磐間戸命、豊磐間戸命は殿門を警護して人の出入を禁じ給ふに、此故に今神社の門に此二神を安置するの謂也。終に太神の御心とけて万民安堵の思ひをなし。常闇の雲はれたる心地して、人の面(おもて)もしろじろと見ゆる故。おもしろといふことは此ときよりぞ始る也。よって罪を素戔嗚尊によせて根国へ遂(やらひ)給ふ。此故に天照太神天下を御(しろしめ)し給ふこともとのごとし。此とき尊貴の神々は宮殿造り居住し給ひ、万民貧ものは山に往来して岩穴に住とかや「今諸国にある岩穴は神代に人の住みし後也。俗説に上古(むかし)は火の雨ふりし故に穴居するといふは誤り也」。此頃、手置帆負命、彦狭知命専宮殿及屋宅を造り給ふ故に、後には穴をすて家に住事になりぬ。此故に諸人此二神の恩頼(みたまふゑ)を蒙らずといふことなし。

 

2023年1月18日水曜日

匠家必用記上巻 十一 問答 読み下し

匠家必用記上巻
十一章 問答の読み下しを紹介
これで上巻は終わりです
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十一 問答
或人問て曰、番匠の祖神相違せる事始て知ぬ。尤其理にあたれり。自今、已前改尊敬すべし。然共、聖徳太子逆臣守屋を殺して仏法を弘給ふ。大功正に人のしる所也。俗説ながらも太子を神明のことくに思ひ、番匠の祖神と祭り来りたれば、今さらすてがたし。神代より定る番匠の神と合せ祭るべきやいかん。又馬子、宿根(祢)も堂塔数多(あまた)建立し、仏法帰依の人なりと聞けるに、仏氏馬子がことを沙汰せざるは、いぶかしき事也。

答曰、聖徳太子を伝作あらば太子の徳行の根元を考えて、別にこれを敬ふべし。聖徳太子、仏

法を弘給ふ功ありども、番匠の祖神と合祭べき謂(いわれ)なし。少も混雑する事なかれ。又守屋、馬子がことは日本記を考へれば、守屋は忠臣にして悪にくみせず、馬子、宿根は崇峻(すしゅん)天皇を弑(しい)し奉る。悪逆不道人なり。貝原氏、倭事始にも馬子は君を弑するの乱臣也。然ば則仏経の世道に益なくして、人倫に害あること又知ぬべし。世俗妄に仏氏が

誣枉(ふおう)を信じ、遂に守屋をさして逆臣とす。守屋は是君に非すを格(ただす)の忠臣にして、正を崇の端士なる事をしらず、彼聖徳太子の馬子におけるがごとき。与共に天を戴かざるの讎(あだ)也。崇峻天皇は聖徳太子のためにはおぢ(叔父)にして且君なれば、なんぞ其仇をむくい給はざるや。然ども仏を好むの故を以て、始終馬子と志を同じ事を共にし遂に君父の仇に党し、罪なき守屋を殺して其私をなせりと

いへり。八幡本記にも彼聖徳太子そがの(蘇我)馬子等、我国の神の御教に戻り、人道を断ぬる仏法をして、此国に弘められしに、二人共に二代ならずして、其子孫尽く(ことごとく)絶ほろびにき。是を以て見る時は総て事を作すには、かならずよく其はじめを慎べきなりと云々。是等の弁論諸書にくはしければ、今くだくだしくぶるにおよばず。第一に日本記を

見て證とし次に神社考、俗談正誤、益俗説弁、和事始、等の書を考合せて聖徳太子のこと、或は守屋、馬子がことを知べし。惣て人のはなしには何事によらず、我好む所に応じ善を挙げて悪をこらし、非を談(かたり)て是をかくすこと有。已(すで)に忠信の守屋を逆臣とし、馬子が悪逆不動なる事を不言(言わざる)仏者が癖見なることをしるべし。此故に虚実分明ならざるは正史実録を明ならざるの謂なり。其外、聖徳太子のことを記せる書ありといへども、又かくのごとく、正史実録を会得せずして妄にこれを談ることなかれ。

2023年1月17日火曜日

匠家必用記上巻九章と十章の 読み下しを紹介

匠家必用記上巻 九章と十章の
読み下しを紹介
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九 彫物の弁
俗間に堂塔の彫物をする番匠は器用也とて褒美し、彫物不鍛錬の番匠ははじ也とて賤むもの有。今按ずるに、堂塔の木鼻、渦雲、唐草等は皆番匠の職也。此外、生物、草木の類は彫刻匠の職也。彫刻匠も木匠の内の其一也といへども、今番匠、彫匠、板木匠とわかれたれば、器用たり共番匠は彫べき事にあらず。伝へ聞、上古は彫物はなきことにて、中比寺院建立の節は彫物をやとひてならしめ、番匠は番匠の職を勤といへり。必竟、彫物は番匠の表とすべき事に非ず。譬ば、屋根をふき、かべをぬるにも同じき也。


堂塔建立の節は必其人を頼て彫しむべし。番匠の極上彫より彫匠の下手が遥に勝べし。俗に餅は餅屋のが吉といふがごとく、番匠の彫物多くはいきほい(勢い)あしく、笑ひを後代にのこさん彫ざるが大に益有べし。彫物をするともほまれにならず、又ほらず共恥にもならず、是番匠の職に非るが故によく心得有べし。


十 番匠の祖神祭るの事
日本上古より伝へて番匠の祖神祭事は其職たる人のつね也。然共、祖神ましますことは知りながら其神名を取失ひ、仏者に混雑せられ、其祭においては仏経を誦、魚類を禁じ精進なることは、神事に非して仏法らしき紛物也。然ば屋造り、棟上等にも魚類を禁べきに、左はなくて反て酒肴等の統義を用ゆるは何事ぞや。是日本上古の遺風たへざるもの也。故に魚類を禁ずるは必仏者の取為としるべし。祖神の神の字を貴むからは、是非神事ならでは叶はぬ事也。早く本道へ立かへりて、日本の神事(に)改、日々に尊信し奉るべし。

番匠の祖神祭るの次第。
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狭知命(ひこさちのみこと)
如此(このごとく)板にでも紙にて此神号を書し、神棚に祭べし。神棚の上に鈴をかけて神並びの度毎に引きならすべし。
祭日五節句、又毎月朔日(ついたち)、十五日、二十八日。


借物
鏡餅 二 正月には勿論つねには見合たるべし。
神酒(みき) 弐瓶
魚類 弐尾 何にても時の見合たるべし。
御供(ごくう) 弐膳 長〇を用ゆて白木の木具を用ひてよし。ぬり物はあしし。
松榊を立べし
毎朝怠ず神拝して神恩を謝すべし。

禁忌(いみもの)
樒(しきみ) 俗に是を花枝といふ。大毒木なる故神事に不用(用いず)故に、あしきみと訓ず。「あ」を略して今しきみといふ。毒木也事は日本の書はもちろん唐土草綱目毒草の部の内にも見へたり。
線香 抹香 シキミにてセイスルゆえ右に同じ。或は常此香を匂へば自然とウツ上の病を生じ、あるいは人のキ(気)ヲヘラスといふ。よってソクセツシヤウカウバン(常香盤)の日(火)にてたばこをすわざるは此謂也。故に神社に香を焼ざるを見てスイリヤウすべし。元来香を用ゆる事はイコク(異国)よりはじまる也。天竺などは別して熱コク(国)也。ゆへに人のミチくさし、此ゆへにキ(貴)人に対メンするときはかなら(必)ずエカウロをマヘにおいてそのミのアシイをシリゾクル也。大ちとろん(大智度論)にもテンジクのクニはネツス以てミのクサキゆへを香以てミを 〇、ミニヌルといへり。
仏経 並に念仏唱ふるべからず。
数珠 並に仏具類
尼僧及汚穢、不浄の人神前に近付べからず。

2023年1月14日土曜日

匠家必用記上巻七章、八章


七章と八章の
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七章 尉(じょう)の家書弁
俗間に番匠の宮社の棟札を書するに、何兵衛尉、何左馬尉と書者あり。今按ずるに、官職備考曰、佐馬尉は大従六位に相当り、置正七位上に相当る。左兵衛、右兵衛尉は従六位下に相当たらず、正七位上相当る、とあれば、無官無位の人みだりに尉の字を用いる事あらず。

八章 藤原姓氏の弁
俗説に唐土(もろこし)漢の明帝の時、天竺の番匠、漢とに来り。始て番匠の術を弘む。此時、明帝甚仏法を信じ給ふ故に、番匠互に命じて一宇を建立し給ふ。号て数改寺と云、後に白馬寺と改、山号を藤原寺と云故に、日本の番匠の皆藤原姓也と云。又一説に、日本の職人は何職によらず、藤原の姓氏を名乗といへり。今按ずるに、藤原山の号を以て藤原の姓氏とする事附会の妄説信ずるにたらず。本朝藤原の姓と申は、唐土より渡りたる姓氏にあらず。

人皇三十九代天智天皇八歳大職冠鎌足(かまたり)公に、帝より藤原姓氏を賜。鎌足公は神代天児屋根命二十二代の神孫、中臣御食事大連(なかとみ みけじ おおむらじ)の御子也。きうせ(旧性)は中臣を改て藤原の姓を賜り、内大臣に任じ給ふ、是藤原の始也。故に此御子孫末葉に限りて藤原の姓氏也。他の人は是を名乗事にあらず。然を其姓ならざる番匠、己が姓を捨て、みだりに藤原を名乗は他の姓を盗むの罪也。若(もし)

此事をしらずにして藤原を名ののば早く改むべし。諸職人も又同じ。譬ば清和天皇の御孫、六孫王経基公血脈ならば源姓也。桓武天皇の皇胤高望(たかもち)王の血脈を平の姓と云。天太玉命の神孫也ば忌部の姓也敏達天皇の御孫、井出左大臣諸兄公の血脈を橘の姓といふ。平城天皇の御孫、備中守基主の血脈を大江の姓とす。孝元天皇の皇子、太彦命の血脈は

安信(安倍)の姓也。天智天皇の後胤、夏野公の末葉を清原の姓と云。皆それぞれの血脈を以て、姓名をわかる事也。いかに末世になりたればとて、他姓を以て家姓名とする謂あらんや。愚なりとも是等は弁へ(わきまえ)しるべきこと也。又世俗、源、平、藤、橘の四姓の外には、姓氏なきやうに覚る人有。是此事をしらざるの謂也。万多親王の姓氏録に千百八十二姓出たり。又此後も姓氏有。

今又四姓の外、その一、二をいう時は菅原、春原、有原、永原、和気、小槻(おつき)、文屋、石川、加茂、平群(へぐり)、道守(ちもり)、物部、小野、高階(たかしな)などのごとし。然れば、大職冠鎌足公の末葉ならざる人、みだりに藤原を名乗べからず。他の人は其実名の上にそれぞれの姓氏を冠して唱ふべし。棟札を出するにも、右に随べき也。又中比より姓名取失ひたる人は、何れも書べからず。故に藤原山の号を以て藤原の姓氏とし、諸職人の藤原を名乗といふ俗説のあやまりを考えしるべきなり。

2023年1月12日木曜日

匠家必用記上巻六章 「番匠を大工といふ弁」

 

匠家必用記上巻六章
「番匠を大工といふ弁」
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工は百工の惣称なり。上古、木を以て宮殿屋宅諸の器材を制作、之を木匠と云。日本紀に木匠、木工等の字を用ひてこたくみと訓ぜり。近世専(ら)番匠の字を通用して、たくみといへり。むかし飛騨の国の木工多く、諸国へ出る故に飛騨のたくみといゑり。ヒダのタクミを一人とヲボエタルモノあり、甚アヤマリなり。イサハウシ(氏)イハク(曰く)、日本後記にイワク、エンリャク十五年十一月己酉(つちのと・とり)合天下捜挿、諸国逃亡飛騨工等異称。日本伝云、飛騨国多匠氏功造宮殿、寺院造今称飛騨工万葉集の歌に、「とくからに ものはおもはす ひだ人の うつはみなわの たた一すじに」。拾遺和歌集に、「宮つくる ひだのたくみの ておのおと(手斧音)」、などなど。



シカルメヲミシカナ ヒダノタクミは一人にアラスル事をシルベシ。又桶匠(おけや)、檜〇匠(ひものや)、鋸匠(こびきや)、蓋?匠(やねや)、鏈匠(ひきものし)、彫匠(ほりものし)、竹匠(たけざいく)等も上古は皆木匠の内也といへども、後に分れて今それぞれの職となりぬ。職神を祭にも、ともに彼二神を数ふべし。又俗間に番匠をすべて大工といふは非也。大工は禁裏(御所)より定置し木工寮の内は(内輪)名也。百寮訓要抄に大工、権大工は是皆番匠の名也。此職細工所奉行する間、此輩を置るる也といへり。又日本記に舒明天皇


十一歳秋七月詔曰、今歳(この年)作らしむ。大宮及大寺を造。則ち、百済川測(ほとり)を以て、宮所と為す。是以て、西民は宮を造、東民は寺を造。便(すなわち)畫直縣(カエソテフミノアタイアガタ)を以て大匠と為す云々。又伊勢の神宮を造れる番匠を大工といわずして小工といへり。是又禁裏より補任頂戴せる小工職也。位階も六位已下也。然ば是に任ぜざる番匠は大工、小工と書べからず。工匠、木匠、番匠、匠人、じやうじ(匠氏)とう(等)の字を用いて、たくみと訓ずべし。

文中に引用されている
日本後記延暦15年11月の記述

同じく百寮訓要抄から木工寮大工の記述

2023年1月8日日曜日

匠家必用記上巻 五章 「神道は家業に離れざる弁」

 

匠家必用記 上巻から
五章 「神道は家業に離れざる弁」
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日本は神国と云道は神道といふ事粗(ほぼ)上に述といへども、再爰(ここに)番匠たる人の神道を挙ぐ。上古は人の心質素正直にして、自(おのずから)神の教に合故に神道といはずして、直に神道也。中比儒仏の二教渡りてのちわ、是に対して神道の号有。今俗間に神道とは神人、神酒、御供へいはく(幣帛)をささげ、柏手

打、祓を誦、神拝するを神道者とをもへるはこころ違也。是とは神事にして、神しょくたる人の神道。たとへば神前の小笠原しつけ方のごとし。其人においては尤可也。余の人は先それぞれの家業を第一に勤べし。是則神道の極意也。然ば番匠の職をつとむるは神職の神事のごとし。僧の仏事にも合、武士の武芸、農人の耕作n商人の商のごとし。士農工商共にそれぞれの家業は神の教なるに仍て武士は武神をうやまひ、農人は耕作の神をうやまひ、商人は商神を敬ひ、匠人はそれぞれの職神をうやまひて、神おん(恩)をしゃ(謝)し奉る事、あまねく人のしりたる事なり。故に其の神の教をよく守りて、家業を勤る人は神

応に合て福有。かくのごとく家業が神道の極意也。いたって重き道也事をしるべし。このあり難道を粗略にして其外に不相応なる事を好ば道にあらず。喩(たとえば)商人として弓馬の道を学び、或は修験(やまぶし)の行を真似して鈴錫杖をからめかし。医者は仁術なる事をわすれ商人のごとし利徳を斗(はかる)。農人は鎌鍬を廃(すて)て兵術やわくかを心掛。職人は家業を怠り真似して朝暮仏経念仏にあたら隙をついやし、其職の神より伝ふる事を忘れて僧徒のごとく仏事に落入職神を取失ひて仏法に混雑す。是とは我道とすべき事を忘れて他の道を貴む故、異端外道の修行と号(なづく)べし。外道とは家道にあらず

外の道也。かくのごとく異端外道を専に行ふ人はおのづから家業の大道をおろそかにする故終には身上はめつのもとひ(基)とも成べし。番匠も其職の神道成。證拠は此職を勤て渡世のなるやうに職神の教置給ふことなれば、誠を以て神を尊敬叮嚀(丁寧)に職を勤べし。かりしかば神の御心に叶ふ故、其身はいふにをよばず。子孫の家も栄なん故に神の道ほど有難道はなしと知るべし。儒仏の道も異国の聖人定めをかれ(置かれ)たれば、あしきといふにはあらず。僧徒が仏法を行ふは則道の止る処の至極は勧善懲悪のをしえ也。去ながら立る処の名目に違有。神は子孫繁昌好せ給ふ。正直淳和のおしへ成。出家は其身一代切、子孫断絶のもとひ

たるに仍る神の御心にかなはず。故に伊勢大神宮へ尼僧の直参を許ざるは此謂也。近世仏法に凝たる愚俗家業は神の教なる事を忘れて己が宗旨を貴み、じゃち(邪智)高慢にして神をないがしろにし、仏法ほど有難ものはなしとをもゑる人は、神の罪人道知らず也。今めいめいの先祖を考へ見るべし。其祖は神にあらずや。その孫として先祖をさげしむは人にあらず。形は人なれど心は鳥獣のごとく人の外也。ことさら天照大神の御国に生れ、神国の穀を食し、身命をやしなう事をしらざるは神のおんしらずとやいわん。天下の穀つぶしなり。番匠も其職を勤て世を渡るは仏の教にあらず。忝(かたじけなく)も日本番匠の祖神の御教なれば、いやでも神道を大切にせねば今日

立ず。故に日本のおしへを元とし、心を元の本にかへり、家業怠べからず。一書に曰、道は元来一也。ちまたををほき故に南北に迷ふ。糸は元来白し。染るをもって色かわる。人の心も相同じと。此一言尤しんずるにたれり。番匠も其職が一筋の本道にて、おしへのごとく正じきに行ときは、ものにまよふ事はなきし也。異国紛道故に本道を渡違てまよひがで来り。然共、儒仏の道もよく学時は神道の助となる事なれど、すすめやうあしければ、かへつて神道のかい(害)となる事多し。家業の隙あらばよき師をしたいて、神道の委ことを尋しるべし。先あらあら番匠の道の全体を、いはば日本の神風(ならはし)質素正直を元とし、親に孝、兄を敬

弟をあわれみ、朋友に愛敬有て、職神の教を守るべし。今此をしへを守る番匠の行ひを見るに、幼少より神道に志あつく常に心を正直にもち、かりにも人をいつはらず、一心不乱家職を面白く覚て、昼夜工夫をこらし上手となりて、天下に名をあげんことを心かけ、朝早く起て神を拝して、又両親へ一礼して細工に取付、下地より念を入、人の為によき事を思い、又細工を頼む人あらば請合の日限より前方に拵るをく故、一度もさいそくを得ず。且にはきう用(急用)の間に合て、頼人の勝手と成、値段ほも下直にすれば、人々も悦んで好ずとも宜事を云伝え、次第にあつらへて人多く也おのづから名人上手といわれ、其家日々繁昌して福有もの也。是常に神道を守る

故にかくのごとし。又、貧者となる番匠は第一愛教なく、朝祢して家職に怠り常に遊ふ事を好み、上手にならんと思ふ心もなく、うかうかと日をくらし、たまたま誂ものあれば、約束の日限相違して度々さいそくを受、俄に細工に取付、早く手渡しすればよきとおもう心から、万麁相(そそう)なれば、先の人腹立て仕方のあしき事を人にも告しらする故に二度頼む人まれ也。かかりしかば、次第にこんきゅうして貧者と成、弥々(いよいよ)下手と成て終に身上をもち破り妻子を路頭に佇ませ、その身も住処を逃走り、挙句のはてはこもかぶりと成、汚名を後代に残したる人挙て算難。是神の教に背故に神のばち(罰)かくのごとし。番匠たる人つつしんで家職の大道を油断なく勤

守るべし。別て禁むべきものわ、碁、将棋、双六、浄るり、三味線、淫乱、大酒也。是らをつつしまずんば、わざわひ必おきにあらす。出合細工の節は朝(早)く行て、仲間へ一礼し、細工を勤べし。長話、長煙草、大酒(な)どは細工の妨(さまたげ)。第一頼む人のきらふ事也。又細工のにぶきわ、つねに心の用ひやうあしきゆへ也。其職を立ながら、其道にうときは商人どの商下手と薬の不中医者のごとし。是に心の付ざる人は早く追揚られ、二度頼む人もまれ也。外聞といひ、はづかしきことならずや。かくのごときの人は其身一生下手の名を取、或は悪名を取て立身はなりがたき者也。此故に日夜家職の道を心懸上手と成て、後代に名をのこさん事を思ふべし。貧者と也

福者と也、上手となり、下手となりも、みな心の用いやう善と悪とに有。心を付て万事善にすすむべし。教の旨は様々有といへども番匠としては其職が第一としるべし。いはんとなれば日本番匠の祖神より伝来の職にして、此職勤、妻子をはごくみ家内安全にくらすは、皆是職じん(神)の御めみにあらずや。故に常に神おん(恩)を忘れず、万事正直に勤べし。然、仏法のじひ(慈悲)、善根も儒道の仁義礼智信もいわずはからずして、神道の内に有としるべし。国は神国、道は神道、家は神孫たる事を思ひて、心を日本に帰する。是を道に随ふ(と)いふ者也。