2023年2月3日金曜日

匠家必用記中巻 五章と六章読み下し

匠家必用記 中巻から
五章と六章の
読み下しを紹介
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五 皇孫尊高千穂の峯へ天下り給ふ事
大己貴命、国を皇孫尊へ授給ふこと上聞に達し、天照太神の御悦喜(よろこび)かぎりなし。ときに天照太神、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)語て曰、芦原の瑞穂国は吾孫の主たるべき国也。皇孫尊就(ゆき)て治(しらす)べし。宝祚(あまつひつぎ)の隆事(さかへんこと)はまさに天壊(あめつち)と窮なかるべしと、の給ひて、三種(みくさ)の神宝(かんだから)を授け給ふ。よって諸神付したがひ天の八重雲を威稜(いづ)の道別に道別(ちわけ)て、筑紫日向(ひうが)の高千穂の峯に天降り給ふ。それより方々と宮地を求給へども、とかく御心に合ざりしにや。ときにその国

神、事勝国勝長狭を召て問給ふは、宮を造るによき所りや。長狭の曰、よき宮地有。御心のままに御幸覧あるべしとて、導し吾田の長屋笠狭の崎にいたりたまふ「今此所を宮崎といふ、高千穂の峯を去ること二十里と或抄に見へたり」。則、長狭の教によって其地に宮殿を造営して住み給ふ。是より天業(あまのひつぎ)専さかんにして、天児屋根命、天太玉命を補佐の臣とし、誣(経)津命(ふつぬしのみこと)、武甕槌命は征伐の権を掌り(つかさどり)、其外の諸神ともに官職をつとめ、皇孫尊(すべみまのみこと)を守り侍らしむ。是より地神四代、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、同五代、鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)尊も此御宮にましましき。

六 神武天皇大和国橿原に内裏を建立し給ふ事
人皇(にんおう)の始、神武天皇は鸕鶿草葺不合尊第四の御子也。日向(ひうが)国にましまして、天下を御(しろしめ)し給ふ。然るに近国はよく治れども、遠国におゐて動(ややもすれ)ば皇命にそむく者有。此故に東国征伐をおぼし召、立給ひて、皇舟(みふね)に召れ、日向国を出帆して筑紫の宇佐に至り給ふ「今豊後国宇佐也」。その地に宇佐津彦命、宇佐津姫命という人ありて一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造りて、天皇を待受、大に饗(みあえ)奉る「あしひとつあがりの宮はきさはし、高らんある宮也。是其始ならん。貝原氏曰、其ときの宮柱の穴とて呉橋(くれはし)川の川上の水際にありと」。是より吉備国高嶋に至り給ひ「今備前国高嶋なり」、行宮(かりみや)を建て、爰(ここ)に三年ましましぬ。是より又御舟に召て、難波に至り給ひ河内国をこへ、大和国にいたり給ふ。此時に不順(まつろわぬ)賊徒を悉く誅し給ひて、橿原といふ地に内裏を経営し給ふ「橿原の地は今葛上郡柏原村に旧跡ありと藻塩草に見へたり」。よって忌部の長天富命は手置帆負命(たおきほおいの命)の孫、彦狭知命の孫を率て下津磐根

に大宮柱ふとしく立、高天原に千木高しりて宮殿を造らしむ。又宮中に蔵を建て給ふ。これを斎蔵(いんぐら)と名く(なづく)。忌部氏をして永く其職に任し(よざし)給ふ「是蔵の始ならんか。前に云ごとく手置帆負命、彦挟知命は神代に始番匠の道を起し給ふに、大切あるゆへに神代に宮建立ありしときは、此二神に命じて造らしめ給ふ。此例によって神武天皇も二神の孫に命じて内裏を造らしめ、永く其職に任ざし給ふ。此故に代々の天皇も二神の裔(はつこ)を内裏の匠頭と定給ふ也。よっておもふに、民家にも是に倣て格式の普請には古法を失わず家造りに臨では、其主の先祖のとき造りし番匠の子孫を以て家宅を造ること是上古の遺風也。是のみならず、余のことも古例に合(かなふ)事まま多し」。又斎部の諸氏を率て種々(くさぐさ)の神宝、木綿、麻織布、盾矛をつくりて、天皇へ奉らしむ「忌部諸氏は天日鷲命孫、手置帆負命、彦狭知命孫、天目一箇命孫、櫛明玉命孫也。此とき天富命を首とし

て皆忌部氏の御一門なり」。手置帆負命の孫、矛竿を制(つくり)て献上し給ふなり「此矛竿を献じ給ふこと吉例と成て毎年矛竿を献じ給ひて大同年中迄も此例虚しからず。此とき手置帆負命孫わかれて讃岐国に居住あるゆへに讃岐の忌部と云。なを子孫はびこりて忌部氏多かるべし。矛竿は矛の柄なり。今の鑓の柄のたぐひなり」。又天日鷲命の孫は阿波の国へ下り、麻殻を植て天皇へ献上し給ひ、大嘗会(だいじょうえ)のときに当りては、其国より所々の産物をささげ奉りたまふ「天日鷲命の孫、阿波の国に居住して麻殻を殖給ふゆへに其郡を麻殖と名く。今其地に忌部氏の人多し。これを阿波の忌部といふ。みな天日鷲命の子孫なり。此ゆへに忌部の人々山さき村に社を建立してうやまひ奉る也。延喜式にも麻殖郡座忌部神社天日鷲命とあれば、由来久しき御社也」。又天富命、彼阿波の忌部をわかち、総(ふさ)の国へ遣(つかわ)され、麻殻を植させ世の重宝

となさしむ「総の国は後にわかれて両国となる。今の上総、下総、此也。此忌部居住有し地を安房(あわ)の郡と号(なづ)く。今の安房の国也。此国に忌部氏の人有と神書に見へたり」。天富命、その地に太玉命の神社(やしろ)を建立し給ふ。是を安房社と号く「今此神社を州崎の神社といふ。此御社こんりうの年より、今宝暦四年四年迄二千四百十四年にになる由来久しきことなり。太玉命は忌部の祖神なるによって御孫天富命社を建立して尊崇し給ふ也」。此外諸神の孫所々の物を造りて天皇へ捧給ふ也。凡(およそ)此ときより王業盛に行れ、三種の神宝を正殿に安置し給ひて、神国の貴きことを民にしろしめ給ひ中臣、忌部の二氏は神祇(しんき)を祖祀(まつる)の儀(よそほい)を掌(つかさど)りて天津罪国、国津罪を解除(はら)ひ、大伴氏、物部氏は朝敵退治の権を掌(たなごころ)にし、其外神代より伝ふる神々の子孫をして、それぞれの職に任(よざ)し給ふ。誠に神武天皇の神威四海にみちて、一人も敵する者なく永く太平の国となし給ひ皇統万々歳、天地と窮(きまわり)なき人皇の基本を起し給ふ。神功誰しもこれを仰貴ず(あおぎたっとみ)ずといふことなし。此橿原に内裏を建立し給ふ年より今宝暦四年迄二千四百年十四年になりぬ。


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