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2009年12月22日火曜日

古代の製鉄 その10



分銅型土製品は岡山県を中心に西日本一帯で出土しているということですが、播磨地域ではこれまで56点ほど確認されています(参照)。これも用途はよく判っていないようですが、群馬県の古墳時代の埴輪に、よく似たものを頭に付けたものがあります(参照)。
古代インダス(インド)の遺跡からも、よく似たものを頭に付けた土製の人物像が出土していますが、日本で出土する分銅型土製品と同様の形状のものが、インドのガンジス川流域のガンガー文化の青銅製の呪具に存在しています。ですから、日本の埴輪とインダス文明の土製人物像のものとは同じ目的で頭に付けられていたと思われます。このことから、分銅型土製品のルーツはガンガー文化にあると佐藤矩康氏は指摘されているのです。氏によると、ドルメンも同じ伝播ルートを辿っているということです。ということは、天目一箇神と猿田彦は同じ系統の民族と云えそうです。共通項はどちらも青銅製品を作ることを専門にしているということが云えます。そういえば、18日に触れた(参照)千種地方の岩野辺(いわなべ)という所では銅鐸の破片が出土しています。
先に、分銅型土製品のルーツはガンガー文化にあると述べましたが、時代は紀元前1000年頃ということです。世界史では、この頃はソロモン王がタルシン船団を組んで中国大陸にまで至っているとされていますが、その文化は当然後に日本にも入ってきています。たとえば天照大御神や伊勢神宮がそうです。この西アジアが起源のフェニキア文化と先のインドのガンガー文化との関係にも興味が湧きます。





2009年12月21日月曜日

古代の製鉄 その9

佐藤矩康氏の説については、以前、HPの随想で少し触れたことがありますが(参照・この頁の最後の段)、古代インドのモヘンジョダロ遺跡(インダス文明)から出土している、神官像とされているものに注目されています。この人物像の、額に結び付けられている円盤状のものと同様のものを付けていたと思われる頭蓋骨が、島根県(出雲)の弥生時代初期の遺跡から6体発見されているのです(参照)。
同様の頭蓋骨は鹿児島県の種子島の遺跡(弥生時代中期)からも出土しています。
佐藤矩康氏は、この、額に青銅製の円盤状のものを付けた特殊な人物を、往時の人々は象徴的に一つ目と称したのではないかとするのです。つまりこの特殊な人物は、当時の最先端技術である金属加工をする人物だったのではないかとし、これが天目一箇神の由来ではないかと推察されているのです。これは説得力があります。
弥生時代の日本列島にインドから移住者が渡ってきたという説は、これも先ほど紹介したこちらのHPの随想で触れたことですが(参照)、その証拠となるようなものも兵庫県から出土しているのです。その一つが
手焙り形土器と云われるものです。これは弥生時代から古墳時代の遺跡から出土しているもので、用途は不明とされていますが、1980年代に加治木義博氏が、これと同形のものがインドでは金属加工をする際に現在でも使われていると指摘しているのです。



 河出書房刊「古代インド」から部分転載



保育社刊「日本人のルーツ」から部分転載
上の二枚がその写真ですが
明らかに手焙り形土器と同じ形状です


この土器は播磨から東に位置する
同じ兵庫県内にある
三田(さんだ)市三輪・宮ノ越遺跡
から出土したものです
これと同様のものが播磨地域でも
出土しているのです(参照
参照サイトには、ここ丹波篠山でも
3点出土していると記載されています


それからもう一つ、これも播磨地域で
出土している分銅形土製品
佐藤矩康氏は重要視しています

2009年12月18日金曜日

古代の製鉄 その8

古来から、千種鉄ちくさてつという優れた鉄を産することで有名な播磨国(兵庫県西部)の千種地方では、製鉄の神である金屋子神かなやごのかみと、鍛冶の神である天目一箇神あまのまひとつのかみが祀られています(参照)。
ここで興味深いのは、金屋子神は神社に祀られているのに対して、天目一箇神は主に鍛冶職人の仕事場に祀られているということです。古語拾遺では、天目一箇神(又は命)は天地開闢かいびゃく後間もなく天太玉命あまのふとたまのみことに率いられてきた筑紫(福岡県)と伊勢(三重県)の忌部いむべの祖とされています。ということは天太玉命に従って日本列島に渡ってきた人物ということになります。そして、天太玉命の命令により種々の刀や斧、それから鉄製の鐸サナキを作っています。
また、古語拾遺では後の時代(崇神天皇の世)に天目一箇神の子孫に三種の神器の一つである天叢雲剣あまのむらくものつるぎの複製を作らせたとありますが、先にリンクをさせてもらったサイトでは天地開闢後に天太玉命に従ってきたということも、天叢雲剣の複製のことも記述されていません。何故でしょうか・・。
それはさておいて、では天目一箇命が従ってきた天太玉命はどこから日本に渡ってきたのかということですが、このことについては佐藤矩康氏による説が有力と思われます。

五鈴鏡


2009年12月7日月曜日

古代の製鉄 その7

古来から製鉄あるいは鍛冶を行う人々が信仰の対象としてきた神に、前回紹介した兵主神(ひょうずのかみ)の他に天目一箇神(あまのまひとつのかみ)」と「金屋子神(かなやごのかみ)」があります。古来から優れた砂鉄が採れることで有名な、播磨西部(兵庫県)千種(ちくさ)地方では、金屋子神は「カナイゴサン」と呼んでいたそうです。これは、古来から朱の原料である朱砂が採れる地域にある丹生(にう)神社を、播磨地方では「タンジョウサン」と親しみを持って呼んでいるのと同様の呼称だと思われるのですが、それだけ地元の人たちにとっては身近なものだったことが想像されるのです。因みに、朱砂は赤色の顔料として縄文時代から使われていいる朱、そして鍍金に欠かせない水銀の原料でもあるので、古来から重要な鉱物資源でありました。
そういうことですから、丹生神社は全国各地に存在し、
150カ所以上はあると云われています。丹生の「丹」も赤いという意味があります。丹生神社の代表的なものとしては紀伊国(和歌山県)丹生都比売神社が挙げられますが、比売という字が付くくらいですから、もちろん祭神は女神である丹生都比売(にうづひめ)であります。ここのところに私は大変興味を惹かれます。話をちょっと戻しますが、古代の朱砂産地として記録されているものとしては、古いところでは続日本紀に、近江国(おうみのくに・滋賀県)に金青を献上させたこと、また伊勢国(三重県)には朱砂と雄黄(硫化砒素)を、常陸(ひたち・茨城県)・備前(岡山県)・伊予(愛媛県)・日向(ひゅうが・宮崎県)は朱砂、安芸(あき・広島県)・長門(ながと・山口県)には金青と緑青を、豊後国(ぶんご・大分県)には真朱を献上させたということが記録されています。
参照:このサイト内で「朱」で検索してください。





2009年11月12日木曜日

「古代の製鉄」続き その6

「古代の製鉄」の著者は、播磨(はりま)地方に散見される兵主(ひょうず)神社はアメノヒボコと関わりがあるとしていますが、その説に疑問を投げかけている研究者もいます。兵主神社はアメノヒボコの本拠地である但馬(たじま)に多くあるので、アメノヒボコと結び付けたくなるのは当然ですが、前回述べたようにアメノヒボコを受け入れなかった播磨国に兵主神社が存在する以上、無理があります。では、この兵主神とはいったいどんな神かということになるわけですが、その名を冠した神社が但馬に多く存在し、アメノヒボコと関わりがないすれば、それ以前からの鉄の神だったということになります。このことに関して、日本の古代祭祀の研究者である真弓常忠氏は、幕末の国学者である小山田與清説を見直す必要があるのではないかとしているのです。與清は「史記」の封禅書に記されている「兵主(神)は蚩尤(しゆう)を祀る、蚩尤は東平陸監に在り、斉の西境なり」という一節から、
兵主神は中国の武神である蚩尤であるとしているのです。「五帝本紀」では蚩尤は最も乱暴な武士で、鉄沙をもって兵器を作り、黄帝軍をさんざん悩ました、と記述されているほどですから、武神でもあり、鉄の神とされたのは当然かもしれません。
「穴師anase兵主神の源流」の
著者、皆神山すさ氏は
蚩尤はシュメール語のシムグが
源であるとし、朝鮮では朱蒙
であるとしています。

Wikipediaから引用

兵主神社がある所は、銅鐸の発見場所と重なることも見落としてはならないように思えますが、そうすると
サルタヒコとの繋がりもでてくるということになります。
また、河童・カッパのことをヒョウスベとも言いますが、これも兵主(ヒョウズ)から派生した言葉だとし、湖沼鉄と関連付ける説もあります。
真弓常忠氏は、兵主はヘシ、あるいはベシとも通じ、その言葉が東南アジアの鉄を意味する語である以上、兵主神は南方系海洋民によって運ばれ中国にも渡ったのではないかと推察されるのです。ということは、アメノヒボコ以前の古代但馬には、サルタヒコかニギハヤヒ勢力が居を構えていたということになり、但馬からは銅鐸が多く出土しているので、サルタヒコ集団の可能性が大きいということになります。


上に紹介した蚩尤は異様な容貌をしていますが、先代旧事本紀には
人皇・天皇の容貌が書かれていて、
初代天皇の神武天皇は身長が3m以上あり、頭に9cmほどの角があり長い尾も生えている。
また、二代目の綏靖suizei天皇には背中にウロコがあり、怒ると逆立つ。
七代目孝霊天皇は顔が長く龍のようで耳は逆立ち、その耳の後ろに白い鱗(うろこ)がある。また、胸にも9枚の鱗があり、
その九つの隙間から気を放っている。
十代崇神天皇は身長は1m90cm
額に10cmほどの青い角が1本ある。
下アゴの歯は長く鋭く上アゴの歯は短く丸く舌は長く鼻にまで届く。
十一代垂仁天皇は身長1m80cm。髪は右曲がりに頭を9周するように生え、頭頂部で輪のように巻いている。
また、両脇の下には金と緑の羽を持ち、肘にも同じような羽が根ざしていた。
とあります。

人皇16代・応神天皇の容貌。身長3mほど、目は弓を張ったような形、胸に72本の牛の尾のような青毛があり、長さは馬の尾の如し、とあります。

人皇17代・仁徳天皇の容貌。身長2.7m、耳は眉の上あたりから口の下に垂れ、足の指は長く手の指の如し。
これらの記述を見ると蚩尤や神武天皇などはレプタリアン系の
宇宙人のようにも思えます。
以上のことは古事記や日本書紀には書かれていませんが、不思議なことにサルタヒコの容貌は日本書紀に「鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いている」と記されています。
この記述は先代旧事本紀のサルタヒコの記述とほぼ同様なのです。
これはいったいどういうことでしょうか・・

2009年11月10日火曜日

「古代の製鉄」続き その5

播磨国風土記・揖保郡(いぼのこおり)の条では、「韓国(からくに・朝鮮半島)からやって来た天日槍が揖保川(いぼがわ)に至ったとき、葦原志拳乎(あしはらしこお:大国主命)に土地を譲ってほしいと願い出た。葦原志拳乎は取りあえず海にとどまるように言うと、天日槍は海面を勢いよくかき混ぜたので、葦原志拳乎は恐れた」と記されています。
また同じく播磨国風土記・宍禾郡(しそうのこおり)の条では、「葦原志拳乎と天日槍が一つの谷の領有権を争った」とあります。同じく播磨国風土記・神前郡(かんざきのこおり)の条でも「出雲神(いずものかみ=大国主命)と天日槍が争った」と記されています。
これらのことから、当時兵庫県の南西部は出雲国の勢力圏だったことが判ります。しかも最新の製鉄技術を持っているとされるアメノヒボコ集団と争って、それを退けているのですから、出雲国はかなり強大な国だったということも想像できます。
これまで、機会があるごとに播磨地方の地方誌に目を通してきましたが、今のところ、播磨地域の神社の祭神としてアメノヒボコが祀られているところは見当たりません。
刃物の産地として栄えてきた三木市のものも先日見せてもらいましたが、サルタヒコが祀られている神社は数社ありましたが、アメノヒボコが祭神となっている神社は見当たりませんでした。




2009年10月29日木曜日

「古代の製鉄」続き その4

古代の日本(弥生時代から古墳時代)に
製鉄技術をもたらしたとされる代表的集団に、
サルタヒコ集団とアメノヒボコ集団がありますが、
時代はサルタヒコの方が古いということは
日本書紀の記述からも推察できます。
また、もたらされた製鉄技術も違ったものとされていますが、
サルタヒコは銅鐸文化を中心としていたので、
どちらかと云えば青銅技術が主となっていたようです。
一方、後に渡来したアメノヒボコは最先端の
製鉄技術を持っていたとされています。
このアメノヒボコの技術については、従来の
褐鉄鉱を用いた製錬から砂鉄を用いる製錬をもたらしたとする説や、
焼き入れ技術を持っていたとする説などがあります。
「古代の製鉄」の著者・山本博氏は、
褐鉄鉱を用いた製鉄が原始的で、砂鉄を用いた製鉄が新しいとする説の
根拠となっている、科学的な分析に疑問を投げかけてもいます。
アメノヒボコの後(応神朝)に渡来してきたとされる、
鍛冶の名工である卓素(たくそ)は、銑鉄(ずくてつ)を鋼にする
左下法(さげほう)という技術をもたらしたとされていますが、
もしかして、この技術をもたらしたのが
アメノヒボコだったのかもしれません(参照)。



西王母と東王父


2009年10月24日土曜日

会下山遺跡

今朝の新聞に、兵庫県芦屋市の会下山(えげのやま)遺跡で弥生時代の金属器を生産したと思われる痕跡が見つかったという記事がありました。実はこの遺跡の北1kmほどの所には、ナマズ石があるのです(地図参照)。
ナマズ石については、以前HPの随想で述べたことがありますが(参照)、この石に書かれてある文字(記号)が古代のものだとしたら、そして、川崎真治氏の説明のように、その文字が風神エンリルに祈願をしたものだとしたら、会下山遺跡と強い繋がりがあるということになります。そして、
金属器生産跡は製鉄をした可能性も出てくるのではないでしょうか。時代もどちらもほぼ同じ時代という気がします。
これはおもしろいことになりました。
鉄鉱石や、それが粉砕された状態の砂鉄から鉄や鋼を取り出すためには、高い温度が必要で、その為にタタラなど送風装置を使うということはよく知られていますが、古代の製鉄では自然風を利用した製鉄を行っていたということです。ですから、会下山遺跡で製鉄が行われていたとしたら、その際に適度の風を得るために近くの山岳信仰の場である岩山で祈願を行ったということは充分に考えられるのではないでしょうか。芦屋市の北にある六甲山系は古代からの岩座信仰の場が多く存在しているのです。


2009年10月23日金曜日

「古代の製鉄」続き その3

弥生時代から古墳時代にかけて、日本(とくに西日本)には
いくつかの王国があったとされています。兵庫県北部の
丹波王国、山陰を中心とした出雲王国(島根県)、吉備王国(広島県と岡山県の一部)、そして九州大分県国東半島の付け根に位置する宇佐王国。これらの王国に共通していることは、どの国も鉄の産地であるということです。当時の製鉄基地と云ってもいいのかもしれません。そして、丹波王国の但馬(たじま)には象徴としてアメノヒボコ、出雲王国にはサルタヒコあるいはオオナモチ。出雲王国は越後(新潟県)から九州北部の宗像(福岡県)、南は四国の讃岐(香川県)まで勢力を伸ばしていた時期もありました。吉備王国はもとは出雲国の一部でしたが、後に独立し王はフトニとされています。九州は宇佐を中心にニギハヤヒですが、ニギハヤヒは徐福であるという説もあります。徐福は古代丹波ではホアカリとされていて、また旧事本記ではホアカリニギヤハヒとなっていますので、ニギヤハヒ徐福説はあり得ないこともないようです。ニギヤハヒは21日に述べたように崇神天皇であるという説や、物部氏の祖とも云われていますので、それだけ各地に影響力のあった集団だったと思われます(参照)。
サルタヒコ、ニギハヤヒ、アメノヒボコは、どの集団も日本に渡来してきた民族集団とされています。その時に製鉄技術や養蚕技術、焼き物技術、ガラス焼成技術、土木技術、(ぎょく)の加工技術なども持ってきているのです。




2009年10月21日水曜日

「古代の製鉄」続き その2

19日に述べたように、「古代の製鉄」の著者の山本博氏は竜田神社の社伝に疑問を投じ、社伝にある「風神はもと竜田山(大阪府側)の御座峰に 降臨し、のち崇神天皇の時代に現在地(奈良県側)に勧請した」というのは間違いであるとしていますが、私は社伝のとうり、崇神朝の可能性もあると思います。崇神天皇の時代に三種の神器の分身が作られているのは、その証拠となるのではないでしょうか。因みにその分身の剣は平家が滅亡した壇ノ浦の合戦の際に水没したとされています。
崇神天皇はニギハヤヒと強い繋がりがあり、崇神天皇本人ではないかという説までありますが、鹿島曻説のように、ニギハヤヒは襲名であるということも充分考えられそうです。ニギハヤヒは製鉄技術を持った集団で、日本にその技術をもたらしたことは疑いがないようですが、ニギハヤヒが卑弥呼と同様古事記・日本書紀からは抹殺されているというのも、その事と関連しているのかもしれません。ですから、「古代の製鉄」の著者が述べていることと関連して、日本書紀は天武天皇の都合のよいように捏造された歴史書とも言えるわけです。その際に、時の権力者にとって都合の悪い卑弥呼やニギヤハヒは抹殺する必要があった。 また、古事記や日本書紀に登場はしていても、邪魔者扱いにされている人物としては、サルタヒコアメノヒボコがいます。サルタヒコとアメノヒボコも製鉄技術を日本にもたらした集団であったということも、ほぼ間違いないようです。

2009年10月19日月曜日

古代の製鉄

先日、昭和50年(1975年)に出版された「古代の製鉄」という本を借りたのですが、この本の中で著者の山本博氏は、奈良県と大阪府の県境にある三室山を挟んで東と西にある龍田神社(奈良県)と大阪の竜田山(通称)を考察しているのです。
奈良県の龍田神社(大社)は、古来から農耕の神である風神「天御柱命」と「国御柱命」(参照)が祀られています。「古代の製鉄」の著者は、龍田神社の社伝の「風神は、もと西方の竜田山(大阪府側)の御座峰に 降臨し、のち崇神天皇の時代に現在地(奈良県側)に勧請した」という内容に疑問を投げかけています。
著者の山本博氏は、文献上の初見である日本書紀天武記の「天武四年四月、二人の勅使を派遣して風神を竜田の立野に祀らしむ」が本来で、竜田神社の社伝の崇神朝ではないとし、この第十代崇神朝と第三十九代天武朝との数百年の隔たりの間に重要な事実が隠されているとしているのです。このことは、私が「日本の歴史について」の中で書き続けているテーマでもあります。