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2019年1月7日月曜日

八咫鏡のこと


春日権現験記を
ちょっと調べようと思って
群書類従を入手
パラパラめくっていたら
三種神器の一つである
八咫鏡(ヤタの鏡)の図があった

八咫については諸説あるが
先が八つに分かれた模様がある鏡
と図で説明されているのは
説得力がある
寸法には習わしがある
と説明されているが
記載はされていない

この図の右下
辺津鏡(ヘツの鏡)は
八咫鏡と同様の模様に
なっているのが興味深い

日矛鏡(ヒボコの鏡)というのは
知らなかった

因みに、これは
矢野祐太郎が写し取ったとされる
皇室に保管されている八咫鏡
ヘブル文字とも、日本の古代文字とも云われている

これは福岡県飯塚市にある
立岩遺跡から出土している銅鏡
八咫模様と、その部分に
古代文字が鋳込まれている


2016年6月25日土曜日

高口定雄氏の興味深い説

以前、こちらのブログで紹介した助川砥についての投稿にコメントを頂いた
高口定雄氏(茨城県日立市在住)の砥石に関する独自の説を紹介しておきたいと思います。
たいへん興味深い内容で、古代史に関して多くの示唆が含まれています。

茨城県産大泉砥、栃木県産深沢砥と、地名の関係について情報提供させて頂きます。
2件の砥石産地は八溝山系でごく近傍ですので、同一地質と考えられます。この地にも、黒部関係地名「クロカタ」が付近にあります。カタカナ地名でして、漢字で書くと「黒方」だと推定します。
1.地名「クロカタ」 栃木県芳賀郡茂木町小貫小字クロカタ
< くろべ → くろぼ、くろぼう→ 黒方 → くろかた >の変化をしたと推定
「船木」地名と近接した事例が長崎県にあります。
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字黒方(読み くろかた)
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字船木ノ元
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字舟木ノ山
なお、岐宿町から西へ約3kmの岐宿町白石は、遣唐使船が、中国に向けて出発する前に
停泊した「川原浦」の比定地とされています。

2.砥石産地と「クロカタ」の距離
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約3km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約9km

3.茨城県桜川市岩瀬小字北着にある長辺寺山古墳(5世紀後半、前方後円墳)との距離 
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約7km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約5km

4.なお、長辺寺山古墳の前を流れる桜川は、最終的に茨城県土浦市の霞ヶ浦へ流れ込みますが、桜川河口部の茨城県土浦市烏山には、古墳時代前期の玉作工房である烏山遺跡があります。

5.深沢砥の栃木県芳賀郡茂木町深沢から南へ約3kmは、茨城県桜川市平沢ですが、小字「トットリ」があります。常識的には漢字で書くと「鳥取」となりますが、氏族伝承で鳥取と記載したのであって、元々の地名発祥時の意味は、「砥取」に従事する場所だったろうと推定します。氏族伝承や系図では良く見せたいので、脚色することがままあるようです。 
以上のことからも、古代人は意図を持って、金属鉱物資源を求めて移動していたのではないでしょうか。

私は京都地名研究会の所属し、弥生時代・古墳時代にさかのぼる地名を抽出することを趣味にしています。そういった観点から、京都府亀岡市と茨城県日立市で砥石、水晶、玉作に関わる地名の共通点があるようなので、少し述べてみたいと思います。
砥石は玉作にも使用され、亀岡市では弥生時代中期には砥石を採掘していたと推定されますが、一方、茨城県日立市は古墳時代前期からの採掘、流通と考古学者が公表しています。京都府亀岡市の砥取家さんが砥石採掘されている丸尾山から直線距離約10kmに、亀岡市畑野町千ケ畑小字クルビ谷があります。また畑野町広野では水晶を産出するとの記録もあります。クルビはクルベ、クロベと同じで漢字で書くと黒部とも書きます。
茨城県日立市の砥石山の約1km直近に、小字「黒目作」(くろめさく)がありますが、「くろべ」の「ベ」が「メ」に変化したものです。「余部」が「余目」に変化しているのと同じ理屈です。作は坂、谷、沢などの意味があります。
日立市の砥石山がある山地を多賀山地といいますが、水晶、滑石、蛇紋岩や金、銅を産出しました。実は「黒目作」と全く同じ地名が、日本でもう1ケ所あります。新潟県佐渡市畑野黒目作です。この近くに弥生時代中期の下畑玉作遺跡があり、玉作工房が発見されてますが、近くで瑪瑙(メノウ)原石も取れます。
茨城県域は、古墳時代初頭に一斉に五領式土器(埼玉県東松山市五領遺跡)に切り替わりますが、埼玉県東松山市の五領遺跡から約4kmは東松山町大黒部(おおくろべ)で、やはり「黒部」地名があります。大黒部から約1kmに古墳時代前期の反町遺跡があり、玉作工房が発見され、主に水晶工房でした。その水晶加工技法から、京都府京丹後市弥栄町の奈具岡遺跡から工人が移住してきたと考古学者は推定、報告しています。奈具岡遺跡から約1kmは京丹後市弥栄町黒部で、やはり「黒部」地名があります。

奈良県磯城郡田原本町黒部から約2km西には、古墳時代前期の十六面遺跡があり、玉作工房が発見されています。また、奈良県桜井市倉橋クロメから約5kmの上之庄遺跡は古墳時代前期の遺跡ですが、これも玉作工房が発見されています。
玉作で有名なのは出雲ですが、島根県松江市玉湯町玉造から約5kmに黒目山(東忌部町)があります。以上のように、資源を求めて古代人は移動し、地名も残していたようです。砥石も重要な資源だったと思います。京都市右京区梅ケ畑より弥生時代中期の銅鐸が出土していますが、梅ケ畑は仕上げ砥産地です。この砥石の資源により富を蓄え、銅鐸を入手したのではないかと勝手な想像をしています。歴史を語る重要なキーワードのひとつとして、「砥石」は重要ではないでしょうか。

三種の神器の素材である銅、鉄、玉(威信財原料、交易材料)の採掘・加工技術を持ち、強力な水運技術をもった人達が、古代ヤマト王権の重要な構成メンバーであったろうと推測します。
特に、縄文時代から蓄積した技術であるヒスイなどの玉が、中国・朝鮮半島との重要な交易材料だったのではないでしょうか。
因みに、「黒部」「黒目」地名が、北海道~鹿児島県まで、存在するので、海運力の優れた集団に関わる地名だったのではないかと考えます。具体的的には、中国の「呉」地域からの渡来人に関わると推測してます。実証はできませんが・・

1)北海道檜山郡江差町 小黒部(おぐろっぺ) 約8kmに笹山鉱山(銅 金)
2)鹿児島県大島郡徳之島町 魚津黒目塔(くろめとう)約2kmに下久志鉱山(銅)
また、沖縄県には「久米島」もあり、長崎県五島市には、黒部地名の変形<くろべ⇒くろぼ、くろぼう>である「黒方」地名もあり、朝鮮半島、中国本土との交易ルートを確保している様子が、地名からうかがえます。
前回記載した十六面遺跡には同じ地内に「穴虫(あなむし)」という小字地名が記録されています。同じ「穴虫」地名が、奈良県香芝市の二上山にあり、金剛砂産地です。このことから、金剛砂を玉作にも使用できたことが地名から推測されます。ただし、遺跡から金剛砂が出土しないと実証にはなりませんが・・。長野県域も古代玉作遺跡が発掘されています。そして、地名「穴虫」、「黒部」地名もあり、銅鐸も出土している先進的な地域です。弥生時代後期には「箱清水式土器」という土器が盛んに使用されましたが、土器の表面をベンガラ(酸化第2鉄)で赤く採色しており、鉄に強い集団がいたことが推測されます。地名「穴虫」がその背景を象徴していると感じます。
「穴虫」の語源は、あなぶき(穴吹)⇒穴伏⇒あなぶし⇒あなむし⇒穴虫と想定しており、朝鮮半島の「あな、あや、かや」地域からの鉄技術に強い渡来人に起因する地名ではないかと考えています。

福岡県については、糟屋郡宇美町を訪問したことがあります。宇美町は古代不彌国の候補地の一つということで興味があり、光正寺古墳、宇美八幡宮、宇美町郷土博物館なども見てきました。
真の目的は、宇美町に、黒部と同じである小字「黒坊」があることを知り、宇美町役場で、地図上の位置を確認特定する事でした。黒坊は黒部と同じです。特定はできたのですが、何故そこに黒部関連地名があるのか、なぜそこに光正寺古墳があるのかいまだによく理解できていません。光正寺古墳から直線距離で約6kmに、篠栗鉱山(銅山 糟屋郡篠栗町)があるのですが、山越えになりますし、篠栗鉱山に行くとすれば、多々良川から直接行った方が早い気がします。現在の仮説は、福岡県小郡市津古にも、黒坊地名があるので、「大宰府経由で有明海へ抜ける交通の要衝地を確保するため」と考えています。ところで、糟屋郡には、あと一カ所 銅山があります。
糟屋郡久山町久原に複数の鉱山があります。多々良川支流の久原川上流です。その多々良川が博多湾に流れでる河口部左岸に、筥崎八幡宮があり、近くの九州大学敷地から銅鐸か出土しています。九州大学北側の箱崎には、小字「コロメキ」があり、この小字地名は、「くろぶき(黒吹)」からの変化地名です。「くろ(黒)」を「ころ」と読む事例があり、「くろぶき→ころぶき→ころべき→ころめき」という変化を想定しています。「黒吹」という地名が、兵庫県朝来市生野町の生野銀山から約1kmの竹原野にあります。金、銀、銅の鉱物つながり地名ですね。黒吹、穴吹は、同時代の地名だと考えています。

兵庫県篠山市に関しては黒部関連地名調査で、訪問したことがあります。
・篠山市打坂 黒辺
・篠山市高倉 クルビ谷
しかし、金属鉱物資源との関係がよくわかりませんでした。疑問のままです。
丹波市春日町には、山中鉱山(所在地不明)という銅山があった記録があるので、あるいは篠山市側にも鉱脈が続いていた可能性があるのですが、記録が無いためデータとしては採用できません。ただ、弥生時代後期の「内場山墳丘墓」が、前記2件地名の中間部 篠山市下板井 にあるので、もう少し研究する必要を感じています。
篠山市が武庫川にもつながっていることは、福知山市と同様に、日本海と瀬戸内海を、弥生時代などの古代から往来できる地理的好条件があったと言えます。
丹波市山南町の阿草の南方に山中鉱山という銅鉱山があることがわかりました。味間と近接しています。篠山市火打岩付近には、珪石を産出する畑鉱山があったとのことなので、篠山市で水晶が取れた可能性も考えられます。近くの篠山市畑宮に、佐佐婆(ささば)神社があり、延喜式式内社で、江戸時代には「楽々庭明神」とも称していたとのことです。篠山市の「ささ」との関係を含めて、砂鉄を意味していそうで、気になります。
山陰地方の鳥取県西伯郡伯耆町宮原に、「楽々福神社」があり、「楽々(ささ)」とは砂鉄のことをいうそうです。この神社から約7KMの日野郡江府町吉原には、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。余談ですが、有名な楽々福神社としては、鳥取県日野郡日南町宮内にも楽々神社があり、この神社から北へ約7KMのところにも、やはり、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。この小黒目から西へ約6KMの大字阿毘縁(あびれ)付近は砂鉄産地です。また同じく小黒目から北東へ約6KMの日南町印賀も砂鉄産地で、「印賀鋼」として有名なブランド鋼です。この印賀鋼は、昭和天皇が皇太子になられる時の儀式で用いた剣に採用されたとのことです。
それから、佐々婆神社が、篠山市以外にないかと調べていたところ、1件発見しました。なんと、京都府亀岡市猪倉に、篠葉神社(ささば)がありました。猪倉も砥石産地ですね。篠葉神社から
1.東側へ約4kmの鹿谷に、大谷鉱山(銅山)
2.北東へ、約4kmの北ノ庄に小字「穴虫」
3.南西へ約約8kmに、亀岡市畑野町千ヶ畑「クルビ谷」
  クルビ=黒部=黒辺
篠山市と似た地名があることが共通しています。

篠山市の佐々婆神社の御祭神である「志布美宿禰」について調べていましたら、京都府京丹後市にも、「志布美宿禰」と同じと思われる「志夫美宿禰」を祭神とする神社があり、付近の地名も篠山市と共通するので、ご紹介しておきたいと思います。
篠山市と京丹後市は古代において、金属鉱物資源と人の移動で、極めて関係性が高いことの証だと思います。
志布比神社: 京都府京丹後市丹後町大山
祭神 志夫美宿禰命(しぶみすくねのみこと)ほか
関連地名、遺跡
(1)約5km 京丹後市弥栄町 黒部
(2)約4km 京丹後市網野町掛津 穴虫
(3)約6km 京丹後市弥栄町 船木
(4)約6km 京丹後市弥栄町 鳥取
(5)約5km 京丹後市弥栄町 井辺(いのべ)←「いんべ」と読むこともできる
(6)約4km 京丹後市弥栄町国久 小字スイショヤマ←水晶山と思われる
(7)約6km 京丹後市弥栄町野中小字トイシダニ←砥石谷と思われる
(8)約6km 京丹後市弥栄町溝谷に奈具岡遺跡
弥生時代中期の玉作工房
水晶加工工程がわかる。鉄製品、砥石出土
(9)約12km 京丹後市峰山町荒山小字キノベ→篠山市東木之部、西木之部
なお、キノベは、吉備に同じと考えられます。キビ→キベ→連帯助詞「の」を追加し「キノベ」と変化。以上の地名はまた、奈良県にもあります。

篠山市下板井の弥生時代後期の内場山墳丘墓群出土の土器棺墓には四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が供えられていました。
「四国」と大字「東木之部、西木之部(きのべ)」の二つのキーワードから、私は、遠く離れた四国の徳島県徳島市国府町矢野の気延山(きのべやま)をすぐに思い出します。気延山は蛇紋岩産地で、蛇紋岩は玉作にも使用されます。気延山麓の国府町矢野には、玉作工房が出土した弥生時代後期の矢野遺跡があります。
<矢野遺跡>徳島市国府町矢野
1.蛇紋岩製勾玉未製品出土した玉作工房
2.古墳時代前期の、鉄器を加工した鍛冶工房から、壺に入れた砂鉄が出土
3.約6kmにはザクロ石産地の眉山(びざん)ザクロ石の細かいものが金剛砂→金剛砂は砥材。
キノベは、吉備に同じと考えてます。キビ→キベ→連体助詞「ノ」を追加しキノベと変化したと推定。
砂鉄出土に大きな注意を払いたいところです。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」は弥生時代の遺跡ですが、四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が出土しているとのことです。鳥取県も山陰地方ですので、前記の日南町と篠山市との関係があるかもしれませんね。四国地方との関係といえば、地名で、次のことを思い出します。篠山市鷲尾に小字「穴虫(あなむし)」があります。これは、以前お話したように、「穴吹」から変化した地名です。四国にも「穴吹」地名があります。
徳島県美馬市穴吹町の「穴吹」ですが、東側に隣接するのは、吉野川市山川町で、古代忌部(いんべ)郷で銅鉱山が多いところです。なお、出雲玉作で有名な島根県玉湯町玉造の東側は、西忌部町、東忌部町です。東忌部町には、「黒目山」という山があります。
このように、兵庫県篠山市、鳥取県日野郡日南町、島根県松江市、徳島県美馬市・吉野川市で、似たような地名があることがわかります。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」から、四国や山陰の影響を強く受けた土器が出土することと、地名、鉱物が矛盾なく、相関しているように見えます。
以下は、私なりに興味を覚える同様な地名と、共通性を調べた結果の一部です。
(1)兵庫県養父市八鹿町宿南小字「ソチ口」(読み ソチクチ)
約6km兵庫県豊岡市日高町久田谷より銅鐸出土、弥生時代
約6km日高町水上は、砥石産地 「水上砥」
約8km日高町八代はヒスイ産地
約11km日高町羽尻に但馬三方鉱山 金、銀、銅、亜鉛、鉛
約4km日高町久斗に小字「クルビ」←クルビは黒部に同一
約6km日高町伊府(読み イブ)←伊福の変形地名

(2)新潟県柏崎市「曽地」(読み ソチ)
約2KM柏崎市吉井に弥生時代中期後半の玉作工房「下谷地遺跡」
菅玉製法は佐渡市の新穂遺跡とおなじ技法を採用。
佐渡市との交流が想定される
約3km柏崎市西谷に弥生時代後期の玉作工房「西谷遺跡」
約6km柏崎市西山町黒部←地名「黒部」
約6km柏崎市西山町二田に物部神社←二田物部

(3)愛知県豊田市足助町「曽地坂」(読み ソウヂサカ)
現在は小字消失
約9km豊田市手呂町より銅鐸出土 弥生時代
約8km豊田市力石町に小字「黒見(くろみ)」←黒部に同じ
約6km豊田市東広瀬町に小字「船木(ふなぎ)」←船木、舟木は
黒部と良く一緒にでる地名
*舟木と黒部の地名共出関係は、谷川健一、田中巽の有名な説があります。
私もまったく同感です。

3.長野県中野市柳沢出土の銅鐸(弥生時代中期後半)に関連して発見報道当時、
現地に行き、見学と地名調査を行いました。
出土地から約6Kmは、山岸小字黒ボウ←「黒ボウ」は黒部の変形。 
黒坊とも記されたりする
約8km長野県下高井郡木島平村往郷に根塚遺跡 西暦100年頃
韓国・加悦系の渦巻把手鉄剣出土
約8km長野県中野市栗林に栗林遺跡 弥生時代中期の標識土器出土
約9km長野県中野市日野は、かつて銅鉱産出地
約10km長野県中野市間山に間山遺跡 弥生時代後期
愛知県豊川市を標識とする東海欠山式土器出土
石川県金沢市月影町を標識とする北陸月影式土器出土
愛知県岩倉市丹陽町伝法寺を標識とする元屋敷系土器出土
間山遺跡から約5kmは長野県上高井郡高山村黒部←黒部地名
黒部一帯は弥生時代後期の土器出土
間山遺跡から約12kmは 長野県須坂市八町 須坂鉱山で銅を産出した
間山遺跡から約14kmは、長野市小島 小島境遺跡 古墳時代前期の玉作工房
緑色凝灰岩・鉄石英などの未製品と砥石ほか出土

4.以下は私の仮説です。地名「黒部」を使用するグループは、水運に長け、金属鉱物資源全般の知識、技術を持っているように見受けられます。中国の呉国あるいは楚国からの渡来した人達がいたと考えています。そして、中国、朝鮮半島を往来し、交易をすることで古代ヤマト国内で有力なメンバーにのし上がっていったのでしょう。
卑弥呼は巫女だったと思いますが、中国のなかで巫女が最も盛んだったのは、古代中国の「楚」です。楚は紀元前223年に滅びます。滅びた時に、日本に渡来した人たちが居たのではないかと。紀元前223年頃は、日本は弥生時代中期です。楚は「清楚」「四面楚歌」などの用語使用がありますが、「楚」にはバラの花の意味もあります。
楚の中心地は、現在の湖南省、湖北省付近だったようですが、この地域には、ミャオ族が多く住み、雲南省、べベトナム、ラオス、タイにも分布しています。ドンソン文化を共有しているようです。また、長らく文字を持たなかったといわれています。余談ですが、ミャオ族の人達は、自分達の先祖は、兵主神「蚩尤・しゆう」だと主張しています。

大阪府茨木市は銅鐸鋳型を出土していますが、「いばら」+「き: 場所を意味する」と考えています。茨城県も、金属鉱物資源を求めて来た人達が、同じ「いばら+き」の地名を使うグループだったのでしょう。バラの花の三角のトゲが、中国ドンソン文化の銅鼓にも採用され、日本弥生時代の銅鐸、古墳時代初期の三角縁心神獣鏡にも継続して採用されている背景は、中国の古代「楚」の人たちが渡来したからだと思われるのです。


2011年9月3日土曜日

不思議な符合 飛騨の位山と芦屋市 その3

8月12日に述べたように、兵庫県芦屋市には打出小槌町とい地名があるのですが、打出の小槌といえば七福神の一神である大黒天が持っているものでもあります。
大黒天は元はインドの神とされていますが、古代出雲の最後の王とも云える大国主命習合されています。これは平安時代以降のことのようですが、なぜ習合されたのか興味が湧くところであります。
大黒天の持ち物としてもう一つ、左手で背に担いでいる袋がありますが、これは元々は砂金を運ぶためのものだったという説や、銅鐸民族である古代出雲国が古墳文化を持った民族により奴隷化された際に、古墳造営のために土運びに使ったという説などがあります。

この銅鐸は芦屋市の打出小町から出土しているものですが
表面に流水紋のある古形銅です。
高さ45.5cm 重さ4.7kg
因みに、大宰府の観世音寺には日本最古とされる大黒天立像(木造)が宝蔵されていますが、この像では小槌は持っていません。顔も福々しい笑顔ではないので、インドの神と習合される前の大国主かもしれません。
大黒天と習合された後は右手に小槌を持っていますから、これを使って山で採集した鉱物を入れていたということも考えられます。ということは、12日に紹介した岐阜県飛騨の位山(くらいやま)の岩に刻まれた槌の形をした古代文字と大国主命は何らかの関連があるのかもしれません。
先に述べたように、古代出雲国は銅鐸民族でしたが、それと同時に亀をトーテムとする民族でもありました。出雲大社をはじめ出雲の神社に亀甲紋の社紋が多いのはその名残と云えます(参照)。
これは敷衍して、亀という字が含まれる地名にも名残があるとも云えます。
私が7歳から18歳まで住んでいた福岡県の亀山という地名もそうだと思いますが(参照)、それを裏付けるようにこの地域では古代から金属精錬や加工が行われていました。また、以前紹介した春日市も近くにあります(参照)。このように、亀をトーテムとする銅鐸民族は当然銅の精錬や加工にも通じていたのですが、その後、大国主の国譲りの神話から伺えるように、新たに日本列島に入って来た民族により征服されす。それが白鳥をトーテムとする民族なのですが、これはおそらく朝鮮半島からやって来た最先端の製鉄技術と鉄加工技術を持った民族だったものと思われます。天日槍(アメノヒボコ)はおそらくこの民族だと思われますが、この民族が日本の古墳時代を創り上げていくわけです(参照)。
こういったことを考えてみると、日本で古くから歌い継がれてきた「かごめ かごめ」のなかに、「鶴と亀がすべった」という表現がありますが、これは意味が深いことになります・・

新國民社刊 鹿島曻著「倭と王朝」から転載
北海道で発見されている殷字が刻まれている石
小樽市と余市の境界付近で
発見されたということですが
鹿島曻氏はこの地域を殷をルーツとする
辰国の北限としています

沖縄で発見されたもの
同様のものが他にも発見されています

宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する
天岩戸神社で発見されたとされる岩蓋
文政四年(1821年)に発見されたということですが
小型の箱式石棺の蓋(ふた)石だったということです
石棺内には銅鏡七面と四個の土器が副葬されていたということで小型の箱式石棺ということと副葬品の銅鏡に大鏡が含まれていることから
時代は弥生時代後期頃と思われます
文字が刻まれた蓋石と石棺が
同じ時代とは限りませんが・・・

この岩戸文字が発見された後
明治八年(1875年)、大分県で上記(うえつふみ)
発見され、そのなかの文字の解説により
この岩戸文字が解読されたということです

明治八年の読み
それみきみ みつみ お
ほえこれのうつはわ
ほのあかりのみことこれのあめのいわとに
こもりますときにあそひのそなえ
にまつるひとのおおみかかみわ
すめおおみかみのみたまとしてあめ
のいわやとにのこしもちいたししなる
をあめのいわやどのこれのきしにい
わもてよひらにたてて
かくしおくなり

昭和7年に記された
「高千穂古文字伝」より
田近長陽氏による読み
ソヂ ミキミカミツミカミケ
ミカトヲ(モ)ホエ コレノウツハワ
ホノアカリノミコトコレノ アメノイワトニ
コモリマストキノアソビノソナエニマツル
ヒトツノオ々ミカミワ
ハメヲ々ミカミノミタマシテ
アメノイアワトニノコシモチ イダシナルヲ
アメノイワヤドノコチノキシニ
イワモテヲヒラニタテ
カクシオクナリ

参考として
藤芳義男氏による解読
それ 神酒みき 甕みか 水みづ 甕みか
神食みけ 甕みか と覚おぼえ 是これの うつは
火明命ほのあかりのみこと これの天あめの岩戸いわと
に 籠こもります時ときの遊あそびの供そなえ
に奉つる 一とつの大おお御鏡みかがみ
すめ大御神おおみかみの御霊みたまとして天あめ
岩戸いわとに残のこし持もちいだししなるを 
あめの岩屋戸いわやどの 是これの岸きしに岩いわもて
ひらに立てて かくし置くなり

次に高橋良典氏による解読
祖母ゆ開かれつる神避るヶ戸を掘り
これに無戸籠うつくま
火明ほのあかりの御代みよに 天之岩戸へ籠こもります
時に阿蘇火のそば地震なゐへわたり
タカヒメの祖おや ツカヤリは
皇祖すめをやゆかりの蓋ふたつくりて
天之岩戸へ逃れき
地怒り唸うなるを 天之岩戸屋殿籠り
救へ岩守りて 生きながらえたり
由来いはれを吐けり

平中芳明氏による解読
それ みきみ みつみ お 
(相手側、満気身、密身、緒)
そちらは、気が満ちた御身、
きめ細かい綿密な御身、魂を繋ぐ緒

ほえ これの うつは わ 
(誉、恵、こちら側、打つ、葉、和)
秀でた叡智の、こちらの、
心を打つ言葉が上手く混ざる

ほの あかりの みこと これの あめのいわとに
 (誉、証、尊、こちら側、天岩戸)
秀でた証の尊 こちらの天の簡単には
動かない磐戸に

こもります ときに あそ ひの そなえ
 (籠、時、彼方側、秘、備)
籠ります時に、こちらからもそちらからも
遠いあちらの密かな備えをする。

に まつる ひとの お おみ かかみ わ
 (二、祀、尊、緒、御身、加佳味、和)
再び祀る時、尊き人の魂の緒、
御身に要素が加わり良い趣きに、
上手く混ざり和合する

すめおおみかみの みたま として あめ
皇大御神の御魂として

のいわやとに のこし もち いたし しなる 
(岩屋戸、残、保つ、至、品)
天の岩屋戸に保管して成熟するように

を あめのいわやどの これの きしに い 
(天岩屋戸、こちら側、居)
天の岩屋戸のこちらの側に居て

わ もて よひらに たてて
 (和、以て、四方、盾)
協力して四方を護って

かくし おくなり (隠、置)
人の目にふれないようにして置く

あります

2011年8月10日水曜日

不思議な符合 飛騨の位山と芦屋市

飛騨(岐阜県高山市)に位山(くらいやま)という
霊峰があり、この山は古来から
岩座(いわくら)信仰の対象であり
龍神が守っているという言い伝えもあります

日本書紀をはじめとする
六国史(りっこくし)以外の古文書とされる
竹内文書や秀真伝(ホツマツタエ)でも
位山のことが記されていて
古代の高天原(たかまがはら)は飛騨であった
ことや、天照大神の岩戸隠れの話
それから弟のスサノオのことも記されているので
最古の産鉄民族の国であったヒッタイトから
インド経由で日本に渡って来た民族が
関係していたことになります

その一つに鹿島曻説があり、それによると
旧約聖書に登場するソロモン王率いる
タルシン船団が(紀元前10世紀頃)
アジア各地にコロニー(植民地)を作っていたが
それが日本にも及んでいたとしています
製鉄基地としては、八幡神社の総本社である
宇佐八幡が鎮座する大分県国東半島が挙げられ
そこでは紀元前7世紀頃とされる
大規模な製鉄遺跡が発見されています

これらのことを伏線として、先に紹介した位山を
見ていきたいと思うのですが
このことは以前紹介した
福岡県春日市と兵庫県芦屋市の
弥生時代の遺跡とも関係してくるのです(参照


都竹昭雄(つづく あきお)著 「飛騨の霊峰 位山」から部分転載

位山には巨石群が見られますが
このことからも位山が岩座(いわくら)信仰の
対象だったことが分かります
以前紹介した兵庫県芦屋市の
「ナマズ石」(参照:五段目のように
位山の巨石にも古代文字が見られ
その一つの象形におや?と思ったのが上の写真です


2011年6月24日金曜日

出口王仁三郎の気になる発言 水鉛 モリブデン

以前紹介した、今昔物語の毘沙門天に因んだ話(参照 参照)に関することを、ちょっと調べているのですが、そうすると、3月15日に述べた福岡県春日市の弥生時代の遺跡と兵庫県芦屋市の会下山遺跡に繋がっていき、またそれは芋蔓式に、これも以前のブログで述べた古代の製鉄に繋がっていくのです。そういうことなので、もう一度六甲山系の古代と、そこから西に繋がる印南山系の古代を洗い直しているのですが、そうすると、どうしてもさらに西の備前や吉備(岡山県)にも目を向けざるを得ないのです・・
そういうことなので、新たに手に入れた資料を含め、いろいろと目を通しているのですが、おや?と思うことがあったのです・・それは岡山県赤磐市にある熊山の石組遺跡に関する資料なのですが、興味深いことに、それは昭和の初めの大本教の研修用資料として発刊されているのです。大本教はここ丹波の地、とくに綾部市と亀岡市が因縁が深いのですが、他にも昨年5月に続けてこのブログで述べた九鬼家とも少なからぬ因縁があるのです。
このことは今回は深く追及はしませんが、大本の二代目教祖である出口王仁三郎でぐちおにさぶろうはスサノオのことをかなり意識していたようで、昭和5年には有志と連れだって熊山に登り、謎の石組を検分し、結果、石組はスサノオの陵墓であると結論付けているのです。
そして、それに因んで資料には王仁三郎の「天目一神と長船おさふね」という文が載せられているのですが、それを紹介しておこうと思うのです。
以下・・

「日本刀が世界に冠絶するゆえんは、モリブデン(水鉛すいえん)を混入して鍛える秘法をはやくから知っておったからである。明治時代中頃からドイツあたりでこの秘密を発見して、精巧なる軍器を造りだしているが、日本においても秘密中の秘密として、深山に入って造ったので、天狗に教わったなどと称し、決して他人に教えなかったものである。鉄も雲(出雲いづも・島根県)、因(因幡いなば・鳥取県東部)、伯(伯耆ほうき・鳥取県西部)の三国に限られたもので、このほかから出たものでは、たとえモリブデンを混入しても、そう立派なものは出来ない。この鉄(雲・因・伯 三国の鉄)があり、水鉛(モリブデン)があるので細矛千足くわしほこちたるの国の名に背そむかぬ逸品が出来たのである。素尊斬蛇すそんざんじゃ(素尊命による八岐大蛇・やまたのおろち退治)十握とつかの剱つるぎは長船おさふね(岡山県の刀の産地)ではないかと聞くが、それは違う。前言うとおり、雲、因、伯三国のうちに産する鉄でなければならないのだから、これは長船で鍛えられたものではない。」

鉄(鋼はがね)にモリブデンを加えるということは
今で言う特殊鋼ということになります


この神社は上の文とは関係がありませんが
先日訪れた丹波市山南町谷川にある
熊野神社


そして謎の神社(地図参照
この神社は立ち入り禁止になっていて
金網が廻らされており
神社名を確認できませんでした
鳥居の字も風化して判読できず・・
赤い鳥居なので、海人(あま)産鉄系神社ではあります



2011年3月23日水曜日

内行花文鏡と貨泉、そして陶塤

前回述べたように、伊都国(福岡県糸島市)では内行花文鏡と貨泉(かせん)が出土していますが(参照)、このような例が他の地域でも見られるのです。
内行花文鏡は九州北部から中部日本にかけて多く出土していて、北は福島県でも発見されています。貨泉もほぼ同様の分布を示していますが、琵琶湖以西がほとんどで、最北は今のところ富山県。そして、この両方が出土しているところは、福岡県春日市の奴国、糸島市の伊都国、それから岡山県の吉備地方、そして京都府北部の丹後、加えて、県は違っていますが出雲地方(鳥取県で貨泉、島根県で内行花文鏡)。
こうしてみると古代の大きな豪族がいた地域ばかりなのです。北部九州王国、出雲王国、吉備王国、そして丹波(あるいは丹後)王国。これは偶然なのでしょうか・・。
なかでも興味深いのは京都北部の丹後地域なのですが、まず、内行花文鏡は元伊勢とも云われている(この)神社に古来より伝えられているのです。ここには二点所蔵されていて、それぞれに名が付けられています。前漢時代のものは邊津鏡(へつかがみ 直径9,5cm)、そして後漢時代のものは息津鏡(おきつかがみ 直径17,5cm)とされています(参照)。邊津鏡と同様のものはHPの「漢代の銅鏡文字について」でも紹介しているように(参照:七段目と最後の段)、上海博物館にも所蔵されています。
それから、息(奥)津鏡と邊津鏡は古事記では天日槍が持って来た神宝の一つとされています(参照:最後の段)が、そうするとそれが籠神社に伝えられたのでしょうか・・。疑問が残るところであります。
もう一つ、内行花文鏡と貨泉が発見されている地域の日本海側で共通して出土しているものに陶塤(とうけん)があります(参照)。これも中国を源として弥生時代後期に日本に伝わって来ているものですが(日本国内で70個ほど発見されているようです)、おそらく内行花文鏡や貨泉といっしょにもたらされたものと思われます。
貨泉については、中国側の外交手段として使われ、日本にも及んだという説も見られますが、そういうことではなく、この貨幣を持った民族が日本に移住してきたとするのが妥当のように思われます。そうでなければ、陶塤のような、民族にとって大切な楽器がいっしょに持ち込まれる必要性はないのではないでしょうか。
それにしても、弥生時代のごく限られた時期(紀元1世紀頃)に、北部九州王国(福岡県北部)、出雲王国(島根県)、吉備王国(岡山県)、丹後王国(京都府北部)が各地で同時に勢力を誇っていたというのは驚きです。そして、このことを想像すると、様々なことが連想されるのです・・




2011年3月20日日曜日

内行花文鏡と貨泉

奴国の丘歴史資料館には銅鏡はどのようなものがあるのかも興味深かったのですが、おや?と思うほど少なかったのです・・。完全なものは1点だけで、他は破片ばかりでした。これには少し拍子抜けしましたが、春日市から出土している銅鏡はおそらく同地で作られ、中国漢代のものを模倣したと思われるものが多いということが分かったのは収穫でした。
また、そのほとんどが内行花文鏡(連弧文鏡)だということに興味を覚えたのです。
内行花文鏡といえば、日本最大のものが出土している伊都国を私は連想するのですが、奴国の丘資料館がある春日市は福岡県北部に位置し、奴国(なのくに)の西隣は伊都国(いとのくに)です。伊都国は現在の福岡県糸島市とされています。この地から出土している内行花文鏡は現在国宝に指定されていて(参照)、この銅鏡も漢代の銅鏡を模して日本で作られた倣製鏡だと思われます。直径46cmという大きなものは漢代のものにはさすがに存在しません。
それから、この地からは中国漢代の貸泉(かせん)が出土しているのですが、先に紹介した春日市でも貨泉が見つかっています(参照)。興味深いのは、内行花文鏡と貨泉が出土している地が他にもあるのです。

奴国の丘歴史資料館に展示されている
銅鏡のなかで唯一破損していないもの
直径14,3cm


方格規矩四神鏡  直径15,8cm


 草葉文鏡(直径は20cm以上になる)
これにも連弧風の内行花文が見られます


上の破片をもとに復元されたもの


参考までに
これは私が所蔵している
漢代の文字入り内行花文鏡
直径10,7cm (参照




2011年3月15日火曜日

須玖と芦屋

前回述べたように、新撰姓氏録の説明では、村主(すぐり)は「葦屋村主同祖、意寶荷羅支王之後也」とされています。
意寶荷羅支王は古代インドのクル族の王、マハークル王のことではないかとしましたが、葦屋村主(あしやすぐり)の祖でもあるとされていることに、私はたいへん興味が湧くのです。
葦屋は現在の兵庫県芦屋市とされていますが、芦屋市には
会下山(えげのやま)遺跡という弥生時代の高地性集落跡があります。そこで2009年に金属器を生産したと見られる新たな遺跡が発見されているのです。そのときには地元の新聞でも大きく報道されましたが、私はすぐに以前紹介したことのあるナマズ石を連想したのです(参照:5段目)。このナマズ石のある場所は会下山遺跡から1,5kmほどしか離れていないのです(地図参照)。
ナマズ石に描かれている図は、天空神であるアン、そして気の神、あるいは風の神であるエンリルに祈りを捧げたものと思われるのですが、それは会下山遺跡の金属を生産したと思われる遺跡と関係があるような気がするのです。もし会下山遺跡で行われたのが金属の精錬であり、それが自然通風で行われたのならば、風はとても重要だったというのは想像に難くありません。


福岡県春日市の須玖岡本遺跡付近から
出土している鋳型


同じく銅鏃(青銅製ヤジリ)の鋳型



ナマズ石


ナマズ石に描かれている図と
同様のものは各地で確認されています


2011年3月14日月曜日

須玖と村主

先日紹介した福岡県春日市にある「奴国の丘歴史資料館」の近くには、須玖岡本遺跡という弥生時代の遺跡があります。「須玖」はどう読むのですか?と資料館の担当の方に尋ねたら、本来は「スグ」と読むのだが、地名の須玖は地元の人は濁らない「スク」と言う人が多いということでした。考古関係の資料などでもルビは両方見られますが、資料館の方の話では須玖はもともと村主(すぐり)だったものが平安時代にスグに変えさせられたということでした。
新撰姓氏録(参照)では、村主は氏族名と姓(かばね)で多く見られますが、ほとんどが渡来人とされています。新撰姓氏録の説明では、姓の村主は「葦屋村主同祖、意寶荷羅支王之後也」とされています。「意寶荷羅支」は、明治時代の栗田寛による考証では「オホカラキ」とされていますが、それについての説明はなされていません。それから、昭和時代の佐伯有淸の考証では、意寶荷羅支の他の出典に触れているだけで解説はなされていません。読みは栗田寛説を踏襲し「オホカラキ」としています。
神話考古学のパイオニアである高橋良典氏によると、新撰姓氏録に載せられている、布都久呂(フツクロ)、大新河(ダイシンガ)、大売布(ダイメプ)、麁鹿火(アラカヒ)、椀子王(ワンコ王)、殖栗王(ショックリ王)、来目王(クルメ王)、男大迹(ヲオフト)、億計(オケ)、誉田(ホムダ)、伊利須(イリス)、伊理和須(イリワス)、麻弖位(マテイ)、宇賀都久野(ウカツクヌ)、管原(クダハラ)、鵜濡淳(ウジュヌ)などは、古代インドのデカン高原一帯の地名や人名と重なるとしているのです。
それから推察すると、意寶荷羅支王(オホカラキ王)はマハークル王のことではないかと思われるのです。
マハークルとは古代インドのクル族の大王という意味で、マハーは偉大なという意味があるとされています。そして、このクル族はインドで初めて鉄器を用いた部族とされているのです(参照)。
新撰姓氏録の漢字の当て字は、漢字の意味はほとんど関係なく、ただ発音の当て字ですから、意寶荷羅支にどのような発音を当てていたのか推察が必要になります。先に紹介したように、明治時代の栗田寛と昭和時代の佐伯有淸の解釈ではオホカラキとしていますが、アナグラム的な解釈でマハークルと当てられないこともないと思うのです。

福岡県春日市須玖近辺から出土している
鉄矛、鉄戈、鉄剣と銅剣


同じく銅剣とガラス製勾玉

2011年3月7日月曜日

福岡県春日市の出土砥石

3月5日、6日は福岡に行ってきました

今回は、かねてから
一度は行っておきたいと思っていた
春日市にある「奴国(なこく)の丘歴史資料館」に
足を運びました 参照

福岡県春日市は、弥生時代の貴重な
考古資料が発見されている所として有名ですが
何と言っても青銅器や鉄器の工房跡の多さは
特筆ものでしょう 参照
資料館の展示物もこれらに関するものが
中心を成していましたが
砥石の出土物の多さにも驚かされました




まずこれを見て頂きたいのですが
これは仁王手A遺跡で発見されたもの
だそうですが、このように
これぞ砥石といった顔をした出土砥石には
なかなかお目にかかれません
それに、よく使い込まれていて
ほれぼれとしてしまいます
(長い方の砥石は長さ22,6cm)




上に挙げた鉄器は、上の砥石といっしょに
出土しているものですが
おそらくこのような刃物が研がれていたのでしょう
砥石の上を、刃物が滑らかに
動いているのが目に見えるようです




そしてこれは伯玄社遺跡から
出土している砥石ですが


このような磨製石器にも
使われていたようです


それからこのような、玉(ぎょく)
加工したとされる砥石も発見されていました


これは福岡の実家の納屋で
たまたま見つけたものですが
なぜか、上に紹介した出土砥石と
同じようなものに見えてしかたがないのです・・

この砥石は亡くなった父親が
使っていたものだと思うのですが
父の弟は大工の棟梁だったので
そっちの方から渡ってきたものかもしれません

この砥石については、後日紹介しようと思っています

2010年11月5日金曜日

猿田彦と滋賀県

先日、滋賀県の大津市伝統芸能会館に行った際に、
近くにある大津市歴史博物館に寄ってきました。

滋賀県は関西に越して来た時から頻繁に足を運んでいますが、
歴史博物館はこれで三度目でしょうか・・。
今回は当地の古代史資料を目当てに行ってきました。
ショップでは何種類か販売されていましたが、志賀町史の
古代について書かれてある巻が興味深かったので手に入れてきました。

古代の滋賀県といえば、私はまず琵琶湖の南に位置する
野洲市から大量に発見されている銅鐸を思い浮かべるのですが、
それと関連して、琵琶湖西岸の高島市を連想します。
この地は猿田彦とたいへん縁が深いのです。
このことは以前HPで少し述べていますので参照ください
(日本の歴史について「その八」12段目)。
これについて補足的なことも後日述べようと思っていますが、
当地の氏族である和邇氏(わにうじ)と小野氏(おのうじ)も
見過ごすことができないので、今回少し触れようと思います。

まず和邇氏ですが、志賀町史では、本来は和邇部氏で
4世紀後半に和邇部氏と和邇氏が結び付いたとなっています。
本拠地は今でも琵琶湖中央部西岸に地名として残っています(地図参照)。
この地図のJR和邇駅近くに小野神社があるので、この地は小野氏も
関わっているようですが、小野氏は大和(奈良県)の春日の和邇一族から
分岐したとされていますので、和邇氏とは同族として
共存していたものと思われます。
余談になりますが、滋賀県高島市の田中神社から発見された
ホツマツタエでは和邇氏は琵琶湖北部の伊香の地から
高島の地に移ってきたとされています(地図参照)。
以前述べたように、この地には羽衣伝説があります(参照)。
ということはルーツは東南アジアということになります。

話を戻しますが、小野氏からは聖徳太子の時代(6世紀頃)に
遣隋使として派遣された小野妹子が出ていて、和邇氏からは
大津宮廷の支配者である天智(てんじ)天皇崩御後の
壬申の乱(672年)で勝利した天武(てんむ)天皇が輩出されています。
志賀町史の和邇氏の記述で興味深いのは、
和邇部氏(和邇部臣・おみ)は7世紀の終わり頃まで宮中の鎮魂祭で
神楽を奉仕する女性(猿女・さるめ)を出していたということです。
このことは、ここ丹波篠山の佐々婆神社と同じなのです。
佐々婆神社は私の工房のすぐ近くなのですが、以前紹介したように(参照
この神社の祭神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)、つまり猿女なのです。
そしてこの地も古来から神社に奉納舞をする巫女を輩出していたとされているのです。
このように、滋賀県の琵琶湖西部とここ丹波篠山の地は
深い繋がりがあったようなのです。
また、先に紹介した天武天皇が、壬申の乱の際に協力しなかった隼人を
丹波の地に追いやったというのも、丹波の地は隼人とも
繋がりが深かったからではないでしょうか(参照)。