2010年6月8日火曜日

碧玉と九鬼水軍 その13 

         興福寺で出土したとされる三つ巴紋の軒瓦を手に入れました。

時代は室町時代と思われます。これには「東院北回廊柵周辺出土 1976年2月17日」というデータが書き込まれています。同様のもので左巻きのものが興福寺のHPにも紹介されています(参照)。
奈良・興福寺といえば、藤原氏の氏寺としても知られていますが、平安時代には三輪山の麓に出雲庄という荘園を所有していたということです。藤原氏は中臣氏と同義ですが、それに三輪山が関連しているとなると、どうしても兵庫県三田(さんだ)市の三輪神社と九鬼家に繋がらざるを得ません。
これで振り出しに戻るわけですが、奈良県三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社に配祀されている神に大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命(おおくにぬしのみこと)があることの理由が、出雲庄という荘園があったということに関係しているようです。これらのことは後に詳しく述べるとして、振り出しである九鬼家の家紋の三つ巴紋が、その後多く見られ、その都度紹介してきました。
それは、九鬼家発祥の地とされる和歌山県熊野三社の社紋に、そして丹波篠山の地に、それから兵庫県三木市の浄土寺の軒瓦も室町時代のものがありました。
それから、三田・三輪神社のほど近く、日下部の地にある塩田八幡宮の社紋も三つ巴でした。それ以外にも九州大分県、大阪松原市から出土した
三つ巴軒瓦も確認しました。それから、全国の三つ巴紋の神社が紹介されているサイトもあります(参照)。その祭神をみるとほとんどが海人(あま)系なのです。つまり九鬼家が優れた水軍だったように、もともと海を拠点としていた、あるいは航海を得意としていた民族が関係しているということになります。
兵庫県西脇市の天目一(あめのまひとつ)神社を訪れた際に(参照)、兵庫県のほぼ中央に位置する内陸部に、海人系の代表的な神社である住吉神社が多く見られたのに驚いたのですが、西脇市の北隣に位置する丹波市山南町には蘇民将来に因んだ神事を行う神社まであるのです狭宮神社の茅の輪くぐり。また同町にある大歳神社では蛇ないという神事が行われています。これらは明らかに牛頭天王(スサノオ)に関係しています(参照)。つまりインド、あるいはその大元の西アジアの影響を受けているのです。ここで、またもや九鬼家のルーツがインドであるということを思い起こすのですが、ここ丹波篠山の地も大きな影響を受けているのは明らかなのです。

2010年6月5日土曜日

碧玉と九鬼水軍 その12 

新撰姓氏録には、当時(平安時代初め)の氏族(うじぞく)の出自や始祖が記されているのですが、その氏名には明らかに外国(インドなど)のものと思われる発音が多く存在しています。それを姓氏録では漢字で書き記しているので注釈が必要なのですが、紹介したサイトでは読み方まで説明されていません。
ですから、気になる氏名を少し挙げてみようと思います。
まず、出雲臣の同族として挙げられている「鵜濡渟(ウジュヌ)」、これはあきらかにインド系のようですね。次に同じく出雲臣の同族から「宇賀都久野(ウカツクヌ)」、日置造(へきのみやつこ)の始祖「伊利須意弥(イリスイネ)」。その他、氏名だけを挙げていくと、爾利久牟(ニリクム)、片禮吉志(ヘンレキシ)、左李金(サリコム)
伊利斯沙禮斯(イリシシャレシ)、都久爾理久爾(ツクニリクニ)、布都久呂(フツクロ)
大新河(ダイシンガ)、殖栗(ショックリ)などなど・・
いかがでしょうか。これらは日本語とは思えませんが、こういった名前の人々が、当時あたり前のように日本に居たということになります。時代はやや遡りますが、聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条の書き出しで、「和を以て貴しとなす」としているのも、以前HPで述べたように(参照・6段目)、当時の日本には様々な人種がいたことが根拠になっていると思われるのです。
話を戻しますが、高橋良典説によると、鵜濡渟(ウジュヌ)はインドのデカン高原にある地名ウジャインとしています。その他、上に挙げていない姓氏録の氏名でインドのデカン高原一帯の地名と一致するものを多く指摘されているのですが、これらを見ると以前紹介したように(参照)、ここ篠山の神社に古代インドの影響が見られる理由が納得できるのです。






2010年6月2日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その11 

丹波篠山出身の考古学者、福原潜次郎氏(故人)は昭和9年に出版した「多紀郷土史話」の中で、日下(くさか)について考察しています。その説で興味深いのは、他の地域で日下と言われているのが篠山では「草ノ上(くさのうえ)」とされていて、この篠山の「草ノ上」が日下の起源地であるとしているのです。(地図参照)。地図を見ていただくとお分かりのように、たしかに現在でも草ノ上という地名がありますが、福原氏は「草ノ上」は本来は「種の上」であったとしていて、その根拠として、部族の移住の際に捧持してきた神実(かんざね)を挙げています(実は種と同義である)。
このことで福原氏はおそらく、種の上流は丹波にあって、河内など他の日下は種の下流であるという意味で、先のような説を述べたのだろうと思います。しかし、どのような漢字を当てたとしても、「クサカ」という発音を表すのが目的ですから、福原説のように「クサノウエ」が「クサカ」と同義であるというのは、ちょっと無理があります。ただし、新撰姓氏録では「日下部連(くさかべのむらじ)は彦坐命(ひこいますのみこと)の子の狭穂彦命(さほひこのみこと)の後(すえ)なり」とあり、彦坐命は丹波道主命の父とされていますので、福原説のように、日下の起源地が丹波である可能性は大きいと云えます。
それから、先に紹介した地図に示したもう一つのポイントである雲部車塚古墳の存在は見過ごされません。車塚という名の付いた古墳は数多く存在しますが(遺跡ウォーカーで車塚古墳を検索してみてください)、川崎真治説によると、車塚は本来は亀塚のこととしています。
亀は古代倭語や同時代の朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)語でクウヅマと言い、それが音転してクルマという発音になったということなのです。鹿児島県南部の種子島では今でも亀のことをクウヅマと呼ぶそうです。因みに他の地域では、長崎県五島地方ではクンクン、大分県宇佐地方、熊本県、福岡県の壱岐(いき)地方ではクウヅ、他の九州地域では、クヅ、クツ、コォツ、コォゾー、クチガメ、山口県や島根方言ではクソガメ、広島県ではカンドー、三重県阿山郡、奈良県添上郡、京都府相楽郡ではクソンド、京都府与謝郡ではガンダメ、などと呼ばれているようです。
このことは「碧玉と九鬼水軍 その8」で述べたように、亀をトーテムとした民族が関係しているということになりますが、車塚古墳は亀をトーテムとした民族の、その地の首長の墓ということになります。





2010年5月30日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その10 

日下(くさか)という地名や語源については様々に考察されていますが、古事記でも序文で、「姓(うじ)の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如きの類は本に随て改めず」と断りを入れているほどですから、古事記が編纂された当時(8世紀)でも特別な読み方だったようです。
最初に古事記の注釈書を書いた江戸時代の本居宣長は、「かくの如きの類とは、長谷(はつせ)、春日(かすが)飛鳥(あすか)、三枝(さきくさ)などなり」と注釈をしています。三枝は現代では「さえぐさ」が一般的ですが、考えてみれば、
春日、飛鳥などなぜそう読むのか不思議といえば不思議です。
日下という読み方については、ニュージーランドのマオリ語「クタカ」の転訛であるという説(参照)や、アイヌ語で読むと意味が通じるという説もあります(参照)。
日下を素直に読むと「ひのもと」なのですが、これは日の本とも書くことができ、日本となります。倭(やまと)が日本という国名になったのは7世紀頃とされていますが、三国史記の新羅本紀では、670年の記録に「倭国が国号を日本と改めた」とあります。また、中国の文献である旧唐書(くとうしょ)や、旧唐書を宋の時代に改めた新唐書に記されている「日本」は、神武が東遷する以前の、物部氏(ニギハヤヒ)が河内に築いた日下のことであるという説もあります。そうすると、日下を「くさか」ではなく「ひのもと」と呼んでいた可能性も否定できないということになります。

たとえば、「山辺の道」は「やまべの道」と訓むこともできますが、倭名類聚抄では「夜萬乃倍」と訓が付けられています(紹介サイトをCtrl+Fキーで「夜萬乃倍」の文字検索をして下さい)。つまり当時は「やまのべの道」と訓んでいたことになります。また、この「山辺の道」というのは、古くから奈良県の三輪山周辺から北に伸びる道を指していたということです。ということは、日下も「くさか」ではなく「ひのもと」と訓んでいた可能性が高くなります。このことから、古事記序文で「日下を「くさか」と謂うのは元の読み方に従った」と書かれているということは、古事記編纂の頃には「ひのもと」と訓んでいたことも考えられます。
そうすると、古事記編纂以前に訓まれていた「くさか」は神武東遷以前、ニギハヤヒ族が河内に居住した地に付けられた地名、あるいは氏名だったということになります。
ニギハヤヒ族は最初に日本に渡ってきた地は九州の宇佐地方と思われますので、神武の東遷と同様にニギハヤヒも九州から大阪湾まで東遷してきたという説を裏付けることにもなるのです。因みに、物部氏(ニギハヤヒ族)発祥の地は佐賀県神埼郡一帯ともされています。





2010年5月26日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その9 

前回紹介した塩田八幡宮は、兵庫県三田(さんだ)市の三輪・餅田遺跡からほど近いところにあり、その近くには日下部(くさかべ)という地名があります。
日下部は新撰姓氏録に記載されているので、元々は氏(うじ)名だったことが分かりますが、河内国(かわちのくに・大阪)と摂津国(せっつのくに・大阪と兵庫県)に居住していたとされています。(かばね)としては、連(むらじ・日下部連)、そして
宿禰(すくね・日下部宿祢)として山城国(やましろのくに・京都)に、それから首(おびと・日下部首)として和泉国(いずみのくに・大阪)に見えます。それらの地が後に地名として残ったのだと思いますが、塩田八幡宮が鎮座している神戸市北区道場町は摂津国ですので、新撰姓氏録で説明されているところだと思われます。
新撰姓氏録の河内国の日下部の説明では、「神饒速日命孫(かむにぎはやひのみこと の ひこ)、比古由支命之後也(ひこゆきのみこと の すえなり)」となっています。
神饒速日命は「碧玉と九鬼水軍その8」で紹介したニギハヤヒのことです。つまり三田市の三輪神社から神戸市北区の塩田八幡宮にかけての一帯はニギハヤヒの勢力圏だったということです。奈良の三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社の祭神は大物主命ですが、これはニギハヤヒのことです。
日本書紀では、初代天皇とされる神武天皇(カムヤマトイワレビコ)が天皇になる前に九州から東遷して、行きついたところは「河内国の草香邑(くさかむら)の青雲の白肩の津」とされています。河内国の草香とは現在の東大阪市の日下のことですが、この地が新撰姓氏録に載せられている河内国の日下部氏の勢力地だったということは容易に想像できます。
ということは、この地は神武東遷以前にすでにニギハヤヒの勢力圏になっていたということでもあります。またその後、神武が熊野から大和国(奈良県)に入った際にはニギハヤヒが現れ、神武に仕えたとされていますので、このニギハヤヒはある特定の人物の名前ではなく、代々世襲されてきた名前だということが分かります。 神武天皇については、現在ではその実在は疑われていますが、HPの「日本の歴史その九」でも述べたように、おそらく素戔男尊(すさのおのみこと)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の東遷を重ね合わせているものと思われます。