2010年7月23日金曜日

不思議な符合(隼人と錫)

青銅は銅と錫(すず)の合金ですが、ウィキペディアでは青銅の歴史の項目で「イラン高原は、銅と錫、燃料の木材が豊富であった。また、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので自然に青銅が得られた。」と説明されていますが、これには疑問を感じます。
シュメール語(楔形文字)の研究者であるゼカリア・シッチン氏は、青銅器が発明されたとされる紀元前3000年頃の王室の記録に、「グアデ王は金属で輝く神殿を建てた。彼は金属を使って神殿を輝かした。彼はエ・ニンヌの神殿を石で造り、それだけではなく、錫を混ぜた銅で神殿を建てた。鍛冶の頭領も、この地を守る女神の司祭も、その神殿の前で共に働いた。両手に余る幅のキラキラ光る石でレンガの壁を包んだのだ。両手に余る閃緑岩の輝ける石で。」というのがあると著書で紹介しています。
そして、神殿を造る石を加工するための青銅製の道具を作る際、あるいはレンガの壁を包むための閃緑岩を加工する青銅製の道具を作る際、その道具の硬さは、ある程度決まった硬さが必要なのではないでしょうか。そうしなければ道具として役に立たない。そのためには青銅の成分を調整する必要があると思うのです。つまり錫の含有率を同じにする必要があります。
シュメールから出土している青銅の銅と錫の比率は、およそ銅85%に対し錫が15%だということですが、この比率は様々な試行錯誤の結果出されたものだと思われます。そのためには、やはり鉱石を製錬する必要があります。
ウィキペディアの説明のように、たとえ銅と錫を含む鉱石が採れたとしてもすべてが同じ比率ではないだろうし、他の金属が含まれているかもしれません。文明の産物として出来上がったものはもっと高度なものではないでしょうか。
ですから、錫を得るためには錫石から製錬した方が能率的ですし、シュメール文明でもそれが為されていたようです。錫石はシュメール近辺にもあったようですが、記録によると、ほどなく掘りつくされてしまい、遠く離れた地の二つの錫鉱山から調達していたということです。ということは、そこに輸入業が成り立つことになるわけです。こうしてシュメールの商人たちは錫石を求めて、現在のボヘミアやザクセン地方にまで手を伸ばしていたということです。
また、同時代のテル・ゼロール遺跡(古代イスラエル)からは、青銅を産業としていた地域の倉庫群、溶鉱炉址などが発掘されています。溶鉱炉の「るつぼ」や「ふいご」、それから「ふいご」の先端部の羽口も出土していて、羽口も形状が違うものがあるということですので、「るつぼ」に風を当てるやり方も幾通りかあったということになります。ということは青銅器が作られ始めた当初から、大規模で、しかも高度な製錬が行われていたということになるのではないでしょうか。それから、テル・ゼロール遺跡の周辺では鉱石は採れないということなので、原料は他の地域から調達していたことになります。



さて、唐突ですが

これは弥生時代の銅鐸です
古代丹波北部にあたる
兵庫県豊岡市気比(けい)で出土したものです
これも青銅製で、出土したものは
いわゆる青銅色をしていますが
これは錆の色で



本来はこのような色をしています

これは古代の出土した銅鐸と
同じ金属成分を再現した複製品です
これは手に入れてから20年ほど経っていて
本来はもっと明るい色あいでした

日本で出土した銅鐸の成分に
ついてはこちらを参照ください




参考までに、、これは日本の銅鐸の
ルーツではないかと言われている
古代中国、三星堆遺跡から出土している銅鐸です


これは丹波篠山の古墳から出土した
三環鈴(さんかんれい)と呼ばれる馬具
これも青銅製です


2010年7月21日水曜日

刀匠 高見國一氏

兵庫県佐用町の刀剣作家である高見國一氏が
今年の「新作名刀展」で最高賞である
「日本美術刀剣保存協会長賞」を受賞されました
近畿の刀匠が最高賞を受賞するのは
31年ぶりだということです


高見國一氏の作品
氏のブログから転載

すばらしい備前伝の刃文です
ぜひ実物を手に取って拝見したいものです

2010年7月15日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その21 

古事記の有名な段、天照大御神が天の岩屋戸に籠った際に呼ばれた神に、鍛人(かぬち)の天津麻羅(あまつまら)鏡を作った伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、勾玉を作った玉祖命(たまのやのみこと)、鹿の肩甲骨で占いを行った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)、岩屋戸の前で踊った天宇受売神(あめのうずめのかみ)などがいます。
この内、占いを行った天児屋根命は九鬼家の祖とされていて、天宇受売神は前々回紹介した猿田彦(参照)とペアにされている女神です。
古事記・日本書紀では、朝廷に仕えた丹波出身の女性のことが多く記されていますが、その任務の主なものは大嘗祭などの神事で呪術を行うことだったとされています。伊勢神宮外宮の祭神である豊宇気毘売(とようけひめ)の本拠地(元伊勢)が丹波北部の丹後半島にあるのも、その一例です。
その神社とされる籠(この)神社(真名井神社)の主祭神は現在では豊受大神という男神とされていますが、もともとは女神の豊宇気毘売だったものと思われます。真名井神社の由来は真名井の水という湧き水がある所を神社にしたとされているのも、祭神は女神だった証拠となるものです。
また、この地には羽衣伝説があります。





2010年7月12日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その20 


前回述べた猿田彦命と
天宇受売神を
インドの古代インダス遺跡
から出土した
神官像と踊り子像に
比定する説があります

パキスタンにある
モヘンジョダロ遺跡から
出土している神官像




そして踊り子
とされる像



このことは以前HPでも
述べたことなのですが
参照 最後の段)
上の二枚の写真と
同様の人骨が
日本の弥生時代の遺跡から
出土しているのです
参照 参照
佐藤矩康氏は神官像の
額の丸いものを
天目一箇神
(あまのまひとつのかみ)
の由来ではないか
としていますが
この説は説得力があります
上の神官像の額を見て
現在でも日本で
同様のものが見られるのを
ふと思い出したのです
それは修験道の行者の頭に
見られる(参照
頭巾(ときん)です
これが、本来何のために
額に付けたのか
分かっていないようですが
これはインダスの神官像が
付けいるものの
名残ではないでしょうか
同様のものが弥生時代の
人骨に見られのです
もしそうだとすると
九鬼家と
繋がっていくのです・・

2010年7月5日月曜日

碧玉と九鬼水軍 その19 

これまでに紹介してきた、丹波篠山のニギハヤヒと関連のある地名、「草ノ上」と「味間」の間には丹波最大級の前方後円墳である雲部車塚古墳が、その西には元々は岩座(いわくら)信仰が行われていたと思われる、大変古く由緒ある佐々婆(ささば)神社が、そしてその西には丹波最大の円墳である新宮古墳があります。これらを地図上の記してみると、篠山川に沿って均等な距離にあるのが分かります(地図参照)。また雲部車塚古墳の北東にある櫛石窓神社もほぼ同距離隔たっています。これは何か意味があるのでしょうか・・興味が湧きます。
「多紀郡郷土史話」では多紀の郡(こおり)は古代は水郷であったとし、先に紹介した地図上の古墳は当時の湖の浜に臨んで造られているようである、としています。ですから、湖の大きさを車塚古墳から味間までとすると、大きさは東西12kmほどあったということが推測されます。
上にリンクした味間のところで、味間という所は古代は湿地だったと述べ、その名残りとしての大沢、牛ヶ瀬という地名を挙げておきましたが、それと同様の和田という地名が佐々婆神社の近くにあるのです。「多紀郡郷土史話」の著者は湖岸を和田と呼ぶことは我が国各地にその例が多いと説明しています。他には「多紀郡郷土史話」が書かれた(昭和9年頃)当時、地名として残っている北島、善左衛門島、松ノ木島、沢田島などは湖中に点々とした浮き島状の地であったものと思われる、としています。
また別誌の「多紀郷土史考」では湖水の東岸に当る所に磯宮八幡宮がある、としていますが、これらをまとめてみると、篠山盆地の古代の湖は平安時代頃まで存在していたということが想像されます。そしてその湖は北東の端が車塚古墳があるところで、南東の端には磯宮八幡宮があり、西の端には味間の島姫神社があったということが言えそうです。(地図参照下さい)。
篠山の地は明らかに銅鐸民族圏です。この地では銅鐸はまだ発見されていませんが、状況証拠は多く存在します。その一つが神社の祭神です。先に紹介した新宮古墳のすぐ近くに居籠神社(いがも)というのがあるのですが、この神社の祭神は猿田彦命です。近くを流れる藤岡川は昔は猿田川と呼ばれていたということで、この川からは昔、猿田彦と対になっている天宇受売神(あめのうずめのかみ)の塑像が見つかっているということです。
天宇受売神は先に紹介した佐々婆神社の祭神でもあります。この女神は天照大神が岩戸隠れをした際に、アマテラスの注意を惹くために、閉じられた岩戸の前で胸をはだけて踊りを披露したとされる神でもあります。ですから、猿田彦命と天宇受売神は大変に古い時代の神ということになります。そして、銅鐸を日本にもたらしたのは猿田彦命とされているのです。

江戸時代に描かれた岩戸開きの図
左側で胸をはだけて槍のようなものを
持っているのが天宇受売神

雲部車塚古墳近くにある神社
神社の名はどこにも記されていませんが
赤い鳥居と神殿の様式から
八幡神社と思われます

社殿の装飾に象が施されています
これはこのあたりの神社で
よく見られる特徴であります(参照

これは古代丹波北部、後の但馬(たじま)に属する
朝来(あさご)市和田山町にある
長尾古墳から出土した大刀拵え
古墳時代後期 全長105m