2010年10月21日木曜日

猿田彦とニギハヤヒ

弥生時代の始まりを紀元前1000年説を採ると、
この頃ニギハヤヒ族が日本にやってきた可能性が
あるような気がします。世界史ではこの頃バビロンの覇権が
イシンからアッシリアに移り、これに対抗してカルデア人
(アラビア海の海人)がイシンの王族を中国に亡命させ
萁子朝鮮をたてています。それに伴い近辺では様々な
軋轢があったことが想像されますが、当然その流れが
日本列島に及んだ可能性もあるものと思われます。

紀元前700年頃には九州の国東半島で製鉄遺跡が
発見されているので、これはニギハヤヒ族がやって来ている
可能性大です。そのおよそ600年後、紀元前100年頃に
銅鐸文化が始まったとされています。
北海道と沖縄を除き、全国的に分布している弥生時代の
遺跡の中で、銅鐸、銅剣、銅矛などを持った青銅器文化
というものは九州から近畿に集中しているのが特徴的です。
ですから弥生時代の始まりは製鉄技術を持ったニギハヤヒ族が
日本列島に入ってきたのを嚆矢とし、その後西日本に
青銅器文化を持った猿田彦族が入ってきたという
図式を描くことができそうです。
ついでに述べておきますと、天日槍は3世紀から4世紀にかけて
日本にやってきたものと思われます。このときには、朝鮮半島の
当時の最先端の鉄加工技術や、それまで日本にはなかった
高温で焼く須恵器を作る技術を持って来たとされています。




2010年10月19日火曜日

2010年10月17日日曜日

フィガロ・ギターフェスティバル

来週24日(日)は滋賀県のフィガロホール
フィガロ・ギターフェスティバルが開催されます

二階の展示コーナーでは
私も展示します
今回は三台展示の予定で、一台は19世紀ギター



音律はSuzuki音律
この機会にぜひ試奏してみてください


今日は特注サイズ モダン・タイプと
ラプレヴォット・タイプのネック加工を行いました
モダン・タイプのネックブロック溝切りの
動画をUPしました

2010年10月16日土曜日

猿田彦と翁

昨日、猿田彦の死因について少し述べましたが、
お気付きの方もあったかもしれませんが、この話は
インドネシア近辺の説話なのです。それが古事記では、
猿田彦が伊勢(三重県)の阿邪訶(あざか)にいる時、
(いざり)をしていて比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれて
溺れ死んだとなっています。
この阿邪訶という地名は、現在の三重県阿坂(地図参照)と
するのが一般的のようですが、阿邪訶は地名ではなく、
沖縄で言うアザカイであるという説もあります。
アザカイとはシャコ貝のことで、ですから、インドネシア系の
「猿がシャコ貝に手を挟まれて死んだ」という説話が
沖縄経由で伊勢地方に伝わったとする方が理に適って
いるのではないでしょうか。比良夫貝についてはよく分かって
いないようですが、タイラギのことではないかという説もあります。

以上のような、南方系の説話が日本の神話になっている
ということは他にもあります。たとえば、マレー半島の
ワニだましの説話が日本書紀の因幡(いなば)の白ウサギになっていたり、
他には卵生神話や蛇体神話もあります。
それから、日本各地に残る羽衣伝説の地の一つに、
滋賀県北部の余呉湖がありますが、この地は近年(昭和40年代)まで
焼畑農業が行われていたということです。ということは、
この地の羽衣伝説は南方から伝わってきた可能性があります。
このことは、滋賀県から銅鐸が多く出土していることと
何か繋がりがあるのではないでしょうか。



今日の篠山
工房からの眺め

2010年10月15日金曜日

三つ巴紋と猿田彦

猿田彦が祀られている神社に三つ巴紋はないものと思っていましたが、
三重県鈴鹿市の椿大神社が三つ巴紋であることを知りました。
猿田彦と椿(つばき)については、古賀登氏による長大な論文がありますが、
それについては後日述べるとして、なぜ猿田彦を祭神とする神社に
三つ巴紋が付けられたのでしょうか・・
こういった重層性とも云える現象は猿田彦に関する事象に
よく見られるのですが、それはそれだけ猿田彦が古くから
各地に大きな影響を残したからだと思われるのです。
サルタヒコは特定の人物名ではなく、ニギハヤヒや玉依姫などのように、
ある民族グループの代表的世襲名だったものと思われます。
そして事ある時々に、天孫降臨の道案内をした代表者がいたり、
南西諸島に居たときには塩土老翁(しおつつのおじ)とされたり、と
人々の記憶に残っていったのではないでしょうか。
また、サルタヒコの死因が溺死で、その原因が海に潜っていて
大きなシャコ貝に挟まれたという言い伝えもその一つの出来事だと云えます。
シャコ貝はサンゴ礁の海域に生息するので、日本では沖縄近辺となります。
昨日述べたように、私見ではサルタヒコ族が最初に日本に上陸したのは
鹿児島県南西部の阿多隼人の地としましたが(地図参照)、
サルタヒコ族のルーツを西アジアとした場合、
その後 インド南部経由で東南アジアに至り、南西諸島を経て
鹿児島に入ったことになります。



この神社は、ここ篠山で唯一猿田彦が
祀られている居籠神社(いがも神社)
風前のともし火で
地元の人にも忘れ去られようとしています