2011年2月15日火曜日

七十一番職人歌合から


「平田家文書 その7」で紹介した
菱川師宣の職人図の「研ぎ」図の
古典籍総合データベースの資料(参照)では

説明文の一行目最後の二文字が
「ちち」としか読めないと指摘しましたが
(赤線で囲った字)






室町時代の「七十一番職人歌合」の
同じ図では「ちと(少しの意)」となっています
そうすると「ちと押さばや」となり
これだと意味が成り立ちますね

 
 



それから、「ちと」の前の字は
師宣の図では「今」となっていますが
この図では「と」です
今という字も崩せば「と」によく似た
ものになりますが、上の図は明らかに
「と」の字だと思われるのです
しかしながら
「おもき」で改行されているので
文頭に「と」がくると意味を成しません
そうすると、この文は
「先が重きと ちと押さばや」とするよりは
「先が重き 今ちと押さばや」
の方が意味は分かりやすいですね
版木を彫った職人のミスなのでしょうか・・





これは「七十一番職人歌合」の
「貝すり(貝磨り)」図ですが
岩波書店の解説本では、「ばくたい」を莫大とし
「べき(べし・の連体形)」を予定の意味として
「たくさんの貝が必要だろう」と解釈しています




「白かねさいく・白銀細工」図の
「なんりやう」は
源 信正氏のご指摘のとうり南鐐(なんりょう)
とされています
意味は「美しい銀、良質の銀」

2011年2月14日月曜日

灯台下暗し 「七十一番職人歌合」

12日のコメントの続き・・
判読できなかった文字二つを調べていて
ふと思い出したのですが
HPの「天然砥石について」でも
研ぎの職人図を紹介していたのでした

これがそうですが
これは室町時代後期の明応九年(1500年)頃に
成立したとされる「七十一番職人歌合」です
絵師は土佐光信
私が持っているのは岩波書店から出ている
解説本で、原文は載せられていないのですが
歌の内容は「和国諸職絵つくし」とほぼ同じなのです
この本のことは全く忘れていて、迂闊でした・・
これで原文が解読できます 大変ありがたい

ということで、読めなかった字を照合してみました
コメントでは
「左歌五文字かな はず〇ゆみねの あひしらひ
あらまほしくや
右はあらうるしの はけめあはぬを 
むら雲にたとへたる〇
左右共にさしてもきこへす 持にて侍るへし(引き分け)

としましたが、左歌の評は
「左歌 五文字かなはず聞ゆ
峰のあひしらひ あらまほしくや」

右の歌の評と判定は
「右は荒漆の刷毛目合はぬを
叢雲にたとへたる歟(か)
左右 共にさしても聞こえず 持にて侍るべし」

ということは最初の〇は
「聞」という字で、次の〇は「歟(か)」でした



参考までに
手許にある「くずし字用例辞典」(東京堂出版)の
「聞」と「歟(か)」を挙げておきます


2011年2月12日土曜日

平田家文書 その7

前回述べたように、「永代日本鍛冶惣匠」という称号をもらった伊賀守金道は刀工の受領銘の斡旋も一手に引き受けることになったわけですが、福永酔剣氏の著書「刀鍛冶の生活」によると、金道に受領を頼んだ刀工は有無を言わせず門人にさせられ、さらに、その門人の弟子までも「遠弟子」として毎年名義料を納めさせていたということです。一見、理不尽に思えますが、金道の書状などを見ると、鍛冶頭や日本鍛冶惣匠の体面を維持するための出費もかなりあったようで、決して金銭的に楽ではなく、むしろ借金の方が多かったことが伺えるのです。
伊賀守金道から受領をもらった刀工は、輝かしい勲章をもらったようなものですから、そのことは早速出来上がった刀の中心(茎・なかご)に銘として切られ、また広告の文句に由緒書として載せ、恩恵は少なくなかったようです。
このように伊賀守金道は鍛冶職人の頂点に立ち、絶大な権力を持っていたわけですが、この権力に逆らう者が登場するのも歴史の必然なのでしょうか。
興味深いことに、この反逆者が平田家文書に登場する、清水平兵衛なのです。天明五年(1785年)に伊賀守金道から門人たちに出された通達には
「近来、京都に於いて清水平兵衛と申され候者、御公儀御用の儀申し立て、運上銀の儀願い上げ、鍛冶一統出銀致し候へども、御即位御用並(ならび)に日本鍛冶宗匠御免許の旨申し立て、此の方弟子の分は残らず、出銀御免除これ有り候。尤も此の方諸役御免徐の御牌、頂戴仕り候。」
とあり、清水平兵衛が幕府御用を承ったと云って、京都の鍛冶職人から運上金を徴収し始めたことが伺えるのです。これに対し、金道は、日本鍛冶宗匠(二代目金道は惣匠という字を当てていますが、三代目以降は宗匠の字を当てています)の免許を持っていると言って、清水平兵衛に運上金を払うことを断ってもよいと京都の門人に通達しているのです。
平田家文書によると、農具鍛冶触頭として文書に登場する清水平兵衛は、業者から借財をし家を新築したりしているのです。また、金物類(とくに銅)を商った余剰の利潤を業者と分け合う契約を結んだ廉で、職を免ぜられたりしています。つまり汚職に手を染めていた。
伊賀守金道はそういった事情を知っていたのでしょうか・・

前回に引き続き、貞享二年(1685年)に出版された
菱川師宣による「和国諸職絵つくし」(参照)から
「とぎ・研ぎ」の図を紹介しておきます
見えている説明には
「さきがおもき今 ちかおさばや
ぬしにとひ申さん はばやさは
いかに手をきるぞ」
でしょうか・・?自信がありません
「先が重き今 近押さばや
主に問ひ申さん 刃早には
いかに手を切るぞ」
とでもなるのでしょうか、これも自信がありません。
意味不明ですね・・

いま(2月13日)気が付いたのですが
リンクさせてもらった
古典籍総合データベースの資料では
一行目下から二字目「ち」の次の字が「か」とは読めませんね
これでは「ちち」くらいにしか読めないのですが・・
版木に欠けでもあったのでしょうか・・
それから、四行目は「はばやさ」で
先に挙げた私が持っている復刻版のものとは
「さ」の字が違っています
私の手許のものもよく見ると「さ」のようですが
一見「に」に見えたので最初は「に」かなと
思ったのですが、これはやはり「さ」でしょうね
そうすると「はばやには」でななく
「はばやさは」 「刃早さは」となります

こちらは「白かねさいく」 「白金細工」
説明は
「なんりやうのやうなる かねかな」
「何両のやうなる金かな」
でしょうか、これも自信がありません・・

2011年2月11日金曜日

夏屋砥と沼田砥で薄ノミを研ぐ

先日入手し、鉋研ぎの動画をUPした
沼田砥夏屋砥で薄ノミを研いでみたのですが
これが頗る具合がいいのです
ということで、薄ノミ研ぎの動画をUPしました



まず荒目の中砥である夏屋砥
硬めにもかかわらず、良く反応し
適度な滑走感があり、たいへん研ぎやすい砥石です
人造中砥はよく反応するのですが
滑走感がないので、刃先を研ぐのが難しいのです
硬めの天然中砥で、ここまで鑿(ノミ)に良く反応するものは
これまでお目にかかったことがありません





次に沼田砥ですが
これは通称「ひょうたん沼田」と呼ばれているものです
これはさらに硬い石質ですが、ほど良い反応で
鑿にはちょうどよい感じです
鑿の刃幅は24mm





そして丹波産の青砥で
沼田の傷を消していきます
この青砥もかなり硬めですが
反応よく、鑿に向いている砥石です
長さ12cm強、巾4cmと小振りですが
このように優れた青砥には
なかなかお目にかかることができません
この青砥は但馬出身の方から頂いたもので
但馬(兵庫県北部)の実家で使われていたものだそうです



仕上は京都新田産の巣板
これも小振りですが
鑿を研ぐのに最適の優れものなのです









研いだ鑿をさっそく使いました

2011年2月10日木曜日

平田家文書 その6

「平田家文書 その1」で少し述べたように、一般の鍛冶職人は刀鍛冶への憧れがあったようで、農具鍛冶職人が京都の刀工である伊賀守金道(いがのかみ きんみち・かねみち)に入門した記録が平田家文書でも見ることができます。
初代伊賀守金道は江戸時代初めの刀工で、徳川家康の命令で百日で千振りの陣太刀を打ち、この陣太刀は大阪冬の陣・夏の陣(参照)で使われたということです。もっとも百日で千振りの刀を打つということは、弟子を使ったとしても金道一人でできることではなく、京都や諸国の手の利いた刀工を門人ということにして手伝わせてもよい、という許可を得て何とか成し遂げたようです。
その功績により家康は朝廷に申請して、金道に「永代日本鍛冶惣匠」という称号を与え、加えて幕府から三人扶持(ふち)を与えたということですが、その結果、伊賀守金道は全国の鍛冶の頂点に立つことになるわけです。
三人扶持は役人の報酬としては低い方ですが、刀鍛冶の地位はもともと低かったようで、三人扶持を頂くということは刀工としては名誉なことだったようです。
たとえば、「その3」で紹介した津山藩工の多田金利の日記では、藩の要人からの注文で相州伝の刀を打ったことが記されていますが、その注文は中間頭(ちゅうげんかしら)を通してのものだったということが記され、出来上がったことを「中間頭に申し達す」と記しています。つまり金利の立場は、足軽よりも下の位である中間よりも低かったということになります。
それに比べると、伊賀守金道は、将軍家康から名誉を受けているので格別ということになります。
金道はその後、刀工の箔とも云える「守・かみ」 「介・すけ」 「掾・じょう」 「目・さかん」といった、官位の受領を朝廷へ申請する手続を行う役を授かることになります。






菱川師宣の「和国諸職人絵つくし(歌合)」より
「かぢ師・鍛冶師」の図(参照
江戸時代初めの貞享二年(1685年)に出版されたもの




同じく「かいすり・貝磨り」の図
見えている説明文は
この太刀の さやは ばくたいの かいが入べき
この太刀の 鞘はバクタイの貝が入べき
バクタイとは貝の種類でしょうか・・・不明
絵の脇にはアワビ貝のようなものが見えますが・・