2012年2月9日木曜日

極小世界 加茂人形と豆雛飾りの金具

 これは丹波篠山の若手工芸家
崎山智水氏により作られた加茂人形


彼はまだ20代の若者ですが
消えゆく江戸時代の工芸品を
現代に蘇らせているのです(参照

ここに紹介した三つの作品は、7年ほど前に
犬と猫、そしてカタツムリを題材に
作ってほしいと注文して作ってもらったものです




これは崎山氏 初期の作品
とってもちっこい







さてこちらは、二日前に知人の木工家が
工房に寄ってくれた際に見せてもらったもの
いま江戸時代のミニチュア雛道具の
修復もやっているということで
紛失している金具も自作しているのだそうです
これは小さな雛道具の兆番(ちょうつがい)ですが
江戸時代の職人は小さな物の加工には
時間を惜しまず徹底的にやるのですが
これはそれを上回っています
おそるべし・・
袋の中に入っているのは小さな釘
これもミクロのレベルです



2012年2月8日水曜日

セーリスの手紙


1月29日に紹介した
長崎の出島から江戸城に
拝謁に来たオランダ商人のことも記されています
そのことについてもう
少し知りたいと思い
新異国叢書を取り寄せ
今それにザッと目を
通しているのですが
第六巻の「セーリス日本渡航記」にイギリスの東インド会社から
派遣された貿易船隊の
司令官であるジョン・セーリスが
1613年に徳川家康に出した
請願書の写真が
掲載されているのです

これがそうですが
本書の説明では
通詞(つうじ・通訳)によって
書かれたものを
柔らかい鷲ペンで影写したものであろうとされています

以下、現代字に翻訳されたもの

   覚
一 
日本へ今度初而渡海仕候、万商売方之儀御じゆんろに被仰付可被下候事

両御所様へ御用之御物の儀は、御目録を以被召上可被下候事

於日本いきりすふねの荷物、おしかいらうせき不致様に被成可被下候事

いきりすふね大風にあい、日本の内何れのみなとへ着申候共無相違様に被仰付可被下候、何方ニ而も望のみなとニ家をたて売買可仕候間、御屋敷可被下候事

日本ニ而かい申度物御座候は、其商人相対次第かい取り申候様に被仰付可被下候事

一 
日本人といきりすの者けんくわ仕出候は、理非を御せんさく被成理非次第、有体に被仰付可被下候事 

一 
いきりすへ帰国仕度候は、何時ニ而も帰国仕候様に被成可被下候事但帰国仕候時は、立申候家をはうり候て帰申候様に、被成可被下候事

       かぴたん
       しゆわん
       さいりす
       せに良んゆ



一応、読み下しておきます。
確信がもてない箇所は?としておきます。
間違いなどありましたらご指摘願います。

一 
日本へこの度初めて渡海仕(つかまつ)り候(そうろう)、(よろず)商売方の儀(こと)御順路(?)に仰せ付けられ下さるべく候こと。

一 
両御所様へ御用の御物の儀は、御目録をもって召し上げられ下さるべく候こと。

一 
日本に於いてイギリス船の荷物、押し買い狼藉(?)致さずようなされ下さるべく候こと。

一 
イギリス船 大風に遭い、日本の内 何れ(いずれ)の港へ着き申し候とも、相違なきように仰せ付けられ下さるべく候、何方(いずかた)にても望みの港に家を建て、売り買い仕りべく候間、御屋敷下さるべく候こと。 

一 
日本にて買い申したき物御座候は、その商人相対し次第、買い取り申し候ように仰せ付け下さるべく候こと。

日本人とイギリスの者、喧嘩仕り候は(そうらわば)、理非を御詮索なられ、理非次第、有体(ありてい)に仰せ付けられ下さるべく候こと。

一 
イギリスへ帰国仕りたく候は、何時にても帰国仕り候ようになられ下さるべく候こと、但し帰国仕り候ときは、立(建て)申し候家を放り候て帰り申し候ようになられ下さるべく候こと。

2012年2月4日土曜日

端材のオブジェ 勢揃い




アマレロ材とチェリー材で作った
合掌のオブジェ



製作中の平家琵琶の端材
紅花梨で作ったもの













以下、これまでに作ったもの




















2012年2月3日金曜日

2012年2月2日木曜日

仏足クッション





オバちゃんたちは何を考えているのやら・・
仏足クッションやと・・・
ブログ内検索で「仏足」を検索してみて下され


お、出来上がったようで・・


見張りも疲れた・・

2012年1月30日月曜日

偶然の産物 螺旋の鉋屑


製作中の二台の箱型ハープ

偶然、整然とした美しい鉋屑が出ました
螺旋模様なんかは、意外とこういったもの
から思い付いたのかもしれませんね

2012年1月29日日曜日

楽只堂年録から




徳川五代将軍・綱吉の
側(そば)用人として奉公し
大老まで出世した
柳沢吉保(参照)の公用日記「楽只堂(らくしどう)年録」から刀剣に関する記述を
少し紹介します。楽只堂年録は柳沢文庫所蔵のものを底本とし、
平成二十三年七月廿八日八木書店より翻刻出版されものです。
ここに紹介する日記はその第一巻から引用したもので貞享四年九月(1687年)から
元禄八年十二月(1695年)のものです。
文中の旧字は新字に書き換え、意味が掴みにくい箇所は適宜書き換え、場合によっては
ルビや解説を付けました。従って文責は編集した田中清人にあります。


貞享四年(1687年)九月九日 吉保三十歳
出生の男子(息子の安暉やすあき?安暉は吉里の幼名、七夜の祝なり 中略 
祝とて安忠(祖父)より兵部(安忠が安暉に付けた名)熨斗
(のし・熨斗鮑のこと)をもとらせ、重代の仁王の刀と、安忠
大坂御陣の供奉せし時、指たりし(刀を腰に差すの意)正広の脇指
与ふ。件(くだん)の刀は長さ二尺一寸、無銘にて矢折の傷あり。
元は信俊が鷹野脇指にて、吉保が誕生せし時も守刀にせり。
後、吉保が代に至て、本阿弥の何某に見せぬれば、
代金一枚五両といへる札を付けつ。正広の脇指
長さ一尺四寸一分あり。

元禄元年(1688年)十一月十二日 吉保三十一歳
御前(将軍綱吉の御前)に召され、松平伊賀守忠徳(側用人)
喜多見若狭守重政(側用人)が列にて務むべきの仰を蒙り、
食禄一万石を加え賜り、青江次吉の刀を御手自ら下されて
拝領す。其刀、長さ二尺四寸一分、磨上にて銘なし、
代金十五枚の折紙あり。けふ(今日)南部遠江(とおとうみ)政直も
御側衆より此役に仰付らるれども、席、吉保が下なるべき由
仰事也。同月十五日に、太刀目録にて御礼を申上る。

元禄四年(1691年)二月廿八日 吉保三十四歳
安暉(やすあき?吉保の息子)が袴着なり。刀を与へて祝ふ。

廿九日
黒田豊前守直重が使、新井三郎右衛門、山名信濃守泰豊が使、
有路外記、結納の品々を捧げ来る。
新井三郎右衛門・有路外記に刀一腰宛を与ふ。
結納の使帰りて後、豊前守直重・信濃守泰豊来り見(まみ)ゆ。
直重に引たる刀は、備前の重実、代金十五枚の折紙有。
脇指は三原、三枚五両の札あり。媒妁は中根平十郎正冬
山田十大夫重政なり。泰豊に引たる刀は、和泉守兼定
作にて、代金三枚の札有。脇指は志津の作にて、
代金十五枚の折帋(紙)有。媒妁は詳ならず。

三月廿二日
今日天気よく、吉保が宅に初めて(将軍綱吉が)御成なり。
去比より宅の内に、新たに御殿の経営成就して、
頗る丁寧を尽せり。奥御殿の床に御筆の桜に子連馬の
掛物と立花二瓶、違棚に料紙箱を置く。紅葉の蒔絵なり。
狩野探雪が画る祝の壺といへる巻物、宇治にて茶を拵ゆる
体なり。是も棚に置て直に献上す。御刀掛は黒塗り蒔絵なり。
御講釈の間には、床に寿老人、左に松、右に竹、
何れも靏(ツル)を描ける、狩野洞雲が筆の三幅対を掛けたり。
下に砂の物、棚に見台あり。御装束の間の床には、是も洞雲が
描ける槇(まきの木)の山水の二幅対を掛く。中御殿は西王母、
左右共に龍なり。卓に香炉を乗せたり。
御刀掛は、梨地蒔絵なり。

(この後、柳沢吉保は御礼のため家族を伴って登城、その折の日記)
前略
母・妻・娘などの捧げ物、何れも進物番衆持ち出る。
終りて家臣(吉保の家臣)三人、一人一人太刀目録にて拝謁す。
披露はみな伊予守植昌なり。それより西の御成座鋪(ざしき)
入らせらるる内に、献上物をば進物番衆引く。再び上段に
御出にて御雑煮・御吸物出る。
吉保御相伴にて御盃を下さる。御肴いただき、替への時、
御手自ら御指の御腰の物頂戴す。帯して御礼を申し
御盃を御次に持出る。時に上意ありて、成貞(吉保の家臣の一人)
取りて台に乗せ、御前に捧ぐ。召上げ給ふ時、吉保、来国光の
を献ず。成貞持ち出で披露す。献上の茶壷は
真壺(まつぼ・呂宋(るそん)壺の中で文字・紋様のないもの)御小性衆両人にて
持ち出る。是も披露は成貞なり。
次に御盃を安暉(吉保の息子)に下さる。御肴を頂き、替への時、
御脇指を御手自ら安暉に下され、御盃を返し奉る。再び吉保に
下されて納めぬ。成貞ご挨拶をす。それより北の御成座敷の上
段に御着座なりて、吉保が産母并(ならび)に妻・二人の娘初て
御目見す。安暉が母は月の穢ゆえ御前に出ず。
俊親(安暉の母の弟)を召し、是も御自ら脇指を下さる。


江戸時代の貨幣価値についてはこちらを参照下さい。



2012年1月28日土曜日

木工旋盤加工 ブリッジ・ピンとエンド・ピン

製作中の19世紀ギター
ラプレヴォット・タイプの
ブリッジ・ピンとエンド・ピンを作りました