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2017年3月11日土曜日

篠山の旧家で使われていた天然砥石

丹波篠山自然塾の大塚さんから
自宅で古くから使われていた天然砥石を見せて頂きました
試し砥ぎをしてもよい、というご好意で
しばらく預かることになりました
感謝
右端は中砥ぎ用の京丹波・亀岡産の青砥です
おそらく岡花産と思われます
その左は立派なサイズの仕上砥
これは後で詳しく述べますが
これを目にして、ちょっと驚いてしまいました・・
その左は、おそらく丹波産と思われる仕上砥
赤ピン系の柔らかい石質です
左端の台に収められているのは仕上砥で
かなり使い込まれています
産地はどこでしょうか・・丹波ものという感じも受けます




試し研ぎの様子
YouTube動画UPしました

最初に使ったのは中砥ぎ用の青砥
程よい硬さで砥ぎやすく
強い研磨力があります

研ぎ上がりも文句なし
丹波産青砥によく見られる針気はほとんどありません
このように粒度がよく揃っている青砥には
今ではなかなかお目にかかることができません

動画で次に使ったのは産地不明の仕上砥

研いだ感じはややザラつきがあり
それほど硬い石質ではありませんが
部分的に地鉄Jiganeを引くところがあります
また、右中央部から下部にかけての筋が強く当るので
動画ではそこを避けて砥ぎましたが

それでも地鉄に荒い砥ぎ傷が付いてしまいました

研ぎ上がりは
鋼Haganeはピカリと光る程度まで研ぎ上がりますが
地鉄は仕上砥としてはやや荒い感じですかね・・
これは丹波産の仕上砥によく見られるものです

次はおそらく丹波産と思われる仕上砥

吸水の仕方や研いだ感じも
丹波産の印象を受けます

研ぎ上がりもそうですね
上の台付きの仕上砥よりは地鉄は精緻に研ぎ上がり
仕上砥ぎの中継ぎとして
威力を発揮してくれる砥石です
手持ちの丹波産の仕上砥では
大内Oochiから池ノ内あたりの山のものに
よく似ています


動画で次に使ったのは
この画像の右側の仕上砥ですが
こちらの手許にある左の仕上砥に
よく似ているので驚いてしまいました
よく観察すると、表面の質感は
左の方がやや艶と透明感があります

側はかなり違った印象を受けます
若狭砥を採掘している尚さんにも見てもらいましたが
右のものは中石成の層によく見られるということで
砥ぎ面の様子から、おそらく京都の愛宕山のものだろう
ということでした

裏面の様子
左は砥石にも書き込んでいるように
さゞれ銘砥の中岡さんが採掘された
奥殿Okudo産の本巣板です
梅ヶ畑の砥石層は本石成で層は薄めなので
この画像のように裏面は原石の皮を残すことで
丹波の中石成のものと違いを強調していたということです
そういうことで、右のものは裏面に皮がないので
中石成の厚いものを規格の厚みにカットしたものと思われます


中石成の山には大平もありますが
研ぎ感や研ぎ上がりは大平産とはちょっと違うかな・・
という感じを受けます
やや滑らかな研ぎ感で心地よく研ぐことができます

鋼はピカリと光る程度に
地鉄も研ぎ感の割には
精緻に研ぎ上がっています


こちらは奥殿の本巣板
上のものよりもやや硬めで
砥ぎ汁もやや黒っぽい感じです

研ぎ上がりもよく似ていますが
こちらの方がさらに精緻に研ぎ上がっています


研いだ鉋身は古い大阪鉋
勘兵衛・寸二(身幅51mm)


試しにハイス全鋼鉋を研いでみました
これは篠山の旧家のもの
目起こしはやっていませんが
そのままでも良く反応します

上の青砥の中砥ぎの後
2分ほど研いだ状態
これで充分仕事で使えます

こちらは奥殿本巣板
こちらの方が反応は顕著です

研ぎ上がりも文句なしですね

2013年1月14日月曜日

古い会津鉋、重時銘寸六を研ぐ


古い会津鉋、重時銘寸六を研いだ
動画をUPしました

今回二度目の研ぎになりますが
試し削りで刃先がかなり
摩耗していたので
最初は荒めの伊予砥を使いました
粒度約800

刃角度を26度ほどに修正しているので
研いだのは刃先から5mmほどです
鋼(おそらく東郷ハガネレイ
号)が強靭なので
砥石の反応が鈍いのが分かって
頂けると思います
この伊予砥では途中目起こしをし
砥泥を出して研ぎました

次に丹波亀岡・岡花産青砥
(粒度約1200)を使いました
この砥石も通常の刃物には
良く反応するのですが
今回の研ぎでは鈍い反応でした
動画でお分りのように
以下どの砥石にも同様の反応です


仕上げ研ぎは丹波亀岡産の
3種類を研ぎ比べてみました
最初に使ったのは丸尾山産巣板・黒蓮華


そして一本松産砥前


そして先日紹介した大内産仕上砥


最終仕上げはこれも先日紹介した
京都梅ヶ畑・中世中山産仕上砥


2011年1月13日木曜日

砥石の不思議 その3


今回、新たに手に入れた天然仕上砥石(本巣板)
産地は京都梅ケ畑地区大突産(地図参照)のもの
購入した「さざれ銘砥」によると
大突から菖蒲にかけて掘られていた
裏大突という間府だということです 
参照





使ってみてビックリ
ほどよい硬さで反応良く
かなり荒い研ぎ応えなのですが
仕上がりは緻密で
鏡面近くまで仕上がっているのです
ここまで荒い研ぎ応えの仕上砥には
初めて出会いました

同じ間府の内曇砥(天上巣板)も
何枚か持っていますが、硬さはほぼ同じですが
研ぎ心地は緻密で、仕上がりは曇ります
同じ産地の砥石とはとうてい思えません
砥石というものはほんとうに不思議です

2014年2月20日木曜日

磨工室瑣談から浄教寺砥について その2

磨工室瑣談四十一の八十三 浄教寺砥に就て
現代語風に読み下しておきます
その1はこちら

浄教寺じょうけんじ赤砥(参照) 

浄教寺白砥(参照


磨工室瑣談 四十一
八十三、浄教寺砥に就いて
陸軍一等薬剤官 藤永賢仁

浄教寺砥については、さきに磨工室瑣談第二に於いて松木看護長の報告があり、今また鯖江衛戊病院からの報告に接し、さらに詳細に知ることができたので、許可を得てこれを掲げておきます(北川薬剤正)。

一、沿革及び歴史
詳細な歴史記述は存在しないが古老の言い伝えによれば、今から400年前、戦国時代に朝倉義景が足羽郡一乗谷村に城を構え、隆盛を極めていた時代に浄教寺砥はすでに発見・採掘されていたということである。発見当初は地元民の雑用として使われていたに過ぎないが、50年ほどの後、ある刀剣師によりこの砥石の良さが認められ、しだいに諸藩の刀剣界に用いられるようになった。
そうして150年前、大阪の蓬莱屋という砥石屋が盛んにこの砥石の採掘を始め、全国的に販路を開拓していたが、途中、大山崩れの災害に遭遇したため多数の死傷者を出し採掘を中止せざるを得なかった。その後はほとんど廃坑の状態だったが、明治29年頃、浄教寺区民が集まり協議した結果、砥石山を区の共有財産として、昔のように盛大に採掘することとし、入札の上、年貢一円五十銭で20年間責任採掘することを約束した。その間、明治37~38年から40年に至るまで採掘作業は最も全盛を極め、年産1140トン~1520トンを突破し、全国各地の煙草専売局の大量の需要にも応じたということである。その後、大正15年にはさらに年貢350円の契約入札で採掘権を行使し現在に至っている。
現在の採掘者は、
赤砥:吉田俊雄 福井県足羽郡一乗谷浄教寺区 従業員4名
白砥:伊与仁作 福井県足羽郡一乗谷浄教寺区 従業員2名

伊与仁作氏が経営している砥石山は個人所有で、4年前に赤砥坑付近から白砥山を発見し採掘を始めたが、これはどちらも足羽郡方面の山腹にあり、これと反対側の今立郡方面の山腹は寺中村の尾崎仁作吉という者が現在採掘している。

二、砥石山の位置
浄教寺砥を産出する地区は福井県足羽郡一乗谷浄教寺区より約2km隔たった山腹にあり、足羽、今立、大野の三郡の郡境に位置し、海抜465.3mの高地にある。足羽郡側からは赤砥坑と白砥坑があり、今立郡側には薄赤砥坑があり、両側から採掘されている。
浄教寺区から砥石山に至る途中には有名な一乗ヶ瀧(梵字瀧とも呼ばれている)があり、真夏には福井方面からの避暑客が多い。福井市から浄教寺に向かうときは美濃街道または下東郷、東郷村を経て安波賀で美濃街道と合流し、さらに城戸の内、西新町、東新町を経て浄教寺に至る。その間、道路(県道)は比較的良好で、荷馬車や自動車の通行は容易である。浄教寺区からは道が狭くなるが一乗ヶ瀧近辺までは小型自動車の通行は可能である。さらに近道を求めた場合、福井市から足羽川堤防に沿って河原脇まで遡り東郷街道に合流し、安波賀から浄教寺に行くのが便利である。距離は16kmほどで道路は良好である。安波賀から途中の城戸の内付近には朝倉義景の墓所と城跡があり、桃山時代の建造物がまだ現存している。

三、産出の状況
吉田俊雄氏が採掘している砥石山は70年ほど前から採掘され次第に掘り進み、今では18mほどの坑道内で火薬や金矢を使って100kg~150kg大の塊にし、40mほどの軌道で石小屋付近まで運ばれる。砥石山は縦の方向におよそ30cm~90cmほどの厚さの砥石層が無数に並列していて、各層の間には小さな亀裂が入っている。これに沿って金矢を打ち込むと容易に離脱することができるが、横の層に比べて作業は比較的困難である。また、赤砥層の所々に円形で質が強硬な白砥の塊が間在していることがある。砥石の質は上層よりも下層のものが良好で、現在も次第に下層に掘り進んでいて、坑内に水が溜まっている状態である。
尚、現在採掘している左側には往年盛んに採掘された坑があり、下層は20年~30年前までは約20m四方の穴を形成していて水が深く溜まっていたので、これを汲み出して採掘していた。後には隧道(トンネル)式の排水溝を設けそこから排水し、さらに深く採掘を継続したが、充分な成績を収めることができなかったのでこれを埋め立て、現在の箇所を採掘するようになったという。
赤砥坑から20m~30m隔てた谷間に白砥を産出する坑がある。この白砥も赤砥と同様縦層になって並列している。質は柔軟質と強硬質の両方あるが、後者は砥石として不適当なのでほとんど採掘していない。柔軟な白砥の内部に所々胡桃(クルミ)大の硬い部分(星と言っている)が入っているのが欠点で、これを除去しながら加工している。
赤砥坑と白砥坑の中間山腹からは淡黒褐色の緻密な潤(うるみ)砥(泡砥とも言う)が産出する。
以前はかなり採掘し、越前(福井県)の片山、能登(石川県)の輪島、加賀(石川県)の山中などの漆器山地で小割砥として刃物研ぎに使われていたが、現在では需要が減少し採掘していない。
浄教寺砥は福井県の物産としては極めて少量であるが、その販路は全国的に普及し、年間380トンほど採掘されていて、東京、名古屋、大阪方面に移出している。
昨今、次第に需要量が減少し、全盛期の三分の一ほどの年産量となっている。しかしながら、砥石山は埋蔵量は豊富なので、需要を開拓していっても供給が不足になったりはしない。
ここ数年間の年産額の調査報告は表を参照されたし(参照)。

四、採掘方法
採掘作業は毎年4月~5月の雪解けを待って開始され、12月下旬まで行われる。作業は常雇いの人夫約30名、臨時雇いの人夫約20名、合計50名ほどで行われたそうだが、昨今は14名ほどで行われるに過ぎない状態である。
浄教寺砥は各層の裂目に沿って金矢という道具、あるいは火薬を使って離脱させ、鶴嘴(ツルハシ)、斧などで不要の部分を除き、軌道を使って石小屋の中に運搬して加工し(表参照)、一梱包60kgほどの荷物にして需要先に直送している。あるいは自宅に担ぎ込んで貯蔵し、冬籠もりの時期に加工して出荷している。価格は白砥は赤砥の約半額である。
採掘や加工に使用する道具類は簡単なものが用いられ、まだ動力等の利用はなされていないということである。主に使用する道具は長・短、厚・薄各種の金矢、十字鍬(クワ)、斧、鶴嘴(ツルハシ)、鉈(ナタ)、砥鋸等でその形状は図のようなものである。
砥石小屋内にはこれらの道具を焼き入れ修理するために鞴(フイゴ)の設備がある。砥脈の離脱には火薬を使用することもあるが、金矢に比べ砥石に亀裂が入ることが多いという。

五、浄教寺砥の種類と性状
この砥石は品質によりおよそ次の四種類に区分されている。
1、潤(うるみ)砥: 黒褐色で最も緻密な質で品質も良い。
2、赤砥     : 灰赤褐色で質は緻密。美しい紋理(模様)がある。
3、薄赤砥    : 淡灰赤色で質はやや粗く、黒褐色の紋理がある。 
4、白砥     : 灰白色で質は柔らかい。

白砥も2種類あるがその一種は質が硬くほとんど砥石として使えない。潤砥は品質が良いが産出量が少なく、一般に赤砥を上等品とし、灰赤褐色でやや緻密な質な中に灰褐色または黒褐色の波紋状の紋理と斑点があるものを真正の浄教寺砥と呼んでいる。
この砥石の名称に関しては、書籍によっては浄慶寺あるいは浄見寺と記載されているが、原産地の地名から考えると浄教寺砥と記載するのが適当と思われる。

六、浄教寺砥の用途
刀剣類の中研ぎ用として用いられ、一般には鎌、鉈、包丁、剃刀、鋏類の打刃物の刃付け用として打刃物工場、大工、家庭などで愛用されている。
尚、白砥は赤砥に比べ品質が劣るので、小さなものは鎌、大きなものは大工の鉋などの刃付用として北陸地方に販路がある程度である。

七、販路
北陸及び関東、関西地方の金物問屋、並びに砥石屋に直送し、全国一般に広く普及している。   


2023年1月17日火曜日

匠家必用記上巻九章と十章の 読み下しを紹介

匠家必用記上巻 九章と十章の
読み下しを紹介
間違いなどありましたらご教示願います

九 彫物の弁
俗間に堂塔の彫物をする番匠は器用也とて褒美し、彫物不鍛錬の番匠ははじ也とて賤むもの有。今按ずるに、堂塔の木鼻、渦雲、唐草等は皆番匠の職也。此外、生物、草木の類は彫刻匠の職也。彫刻匠も木匠の内の其一也といへども、今番匠、彫匠、板木匠とわかれたれば、器用たり共番匠は彫べき事にあらず。伝へ聞、上古は彫物はなきことにて、中比寺院建立の節は彫物をやとひてならしめ、番匠は番匠の職を勤といへり。必竟、彫物は番匠の表とすべき事に非ず。譬ば、屋根をふき、かべをぬるにも同じき也。


堂塔建立の節は必其人を頼て彫しむべし。番匠の極上彫より彫匠の下手が遥に勝べし。俗に餅は餅屋のが吉といふがごとく、番匠の彫物多くはいきほい(勢い)あしく、笑ひを後代にのこさん彫ざるが大に益有べし。彫物をするともほまれにならず、又ほらず共恥にもならず、是番匠の職に非るが故によく心得有べし。


十 番匠の祖神祭るの事
日本上古より伝へて番匠の祖神祭事は其職たる人のつね也。然共、祖神ましますことは知りながら其神名を取失ひ、仏者に混雑せられ、其祭においては仏経を誦、魚類を禁じ精進なることは、神事に非して仏法らしき紛物也。然ば屋造り、棟上等にも魚類を禁べきに、左はなくて反て酒肴等の統義を用ゆるは何事ぞや。是日本上古の遺風たへざるもの也。故に魚類を禁ずるは必仏者の取為としるべし。祖神の神の字を貴むからは、是非神事ならでは叶はぬ事也。早く本道へ立かへりて、日本の神事(に)改、日々に尊信し奉るべし。

番匠の祖神祭るの次第。
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狭知命(ひこさちのみこと)
如此(このごとく)板にでも紙にて此神号を書し、神棚に祭べし。神棚の上に鈴をかけて神並びの度毎に引きならすべし。
祭日五節句、又毎月朔日(ついたち)、十五日、二十八日。


借物
鏡餅 二 正月には勿論つねには見合たるべし。
神酒(みき) 弐瓶
魚類 弐尾 何にても時の見合たるべし。
御供(ごくう) 弐膳 長〇を用ゆて白木の木具を用ひてよし。ぬり物はあしし。
松榊を立べし
毎朝怠ず神拝して神恩を謝すべし。

禁忌(いみもの)
樒(しきみ) 俗に是を花枝といふ。大毒木なる故神事に不用(用いず)故に、あしきみと訓ず。「あ」を略して今しきみといふ。毒木也事は日本の書はもちろん唐土草綱目毒草の部の内にも見へたり。
線香 抹香 シキミにてセイスルゆえ右に同じ。或は常此香を匂へば自然とウツ上の病を生じ、あるいは人のキ(気)ヲヘラスといふ。よってソクセツシヤウカウバン(常香盤)の日(火)にてたばこをすわざるは此謂也。故に神社に香を焼ざるを見てスイリヤウすべし。元来香を用ゆる事はイコク(異国)よりはじまる也。天竺などは別して熱コク(国)也。ゆへに人のミチくさし、此ゆへにキ(貴)人に対メンするときはかなら(必)ずエカウロをマヘにおいてそのミのアシイをシリゾクル也。大ちとろん(大智度論)にもテンジクのクニはネツス以てミのクサキゆへを香以てミを 〇、ミニヌルといへり。
仏経 並に念仏唱ふるべからず。
数珠 並に仏具類
尼僧及汚穢、不浄の人神前に近付べからず。