2009年10月25日日曜日

砥石の不思議

先日、久しぶりに京都大平産の仕上げ砥石(戸前 黄板)を
使ってみて、その反応の
すばらしさと研磨力の強さに
驚いたのですが、この砥石
はハイス全鋼の刃には
これまで反応が悪かったのです
これまでは、ハイスや特殊鋼など、強靭な刃も
中研ぎにはシャプトンの「刃の黒幕」#1000と#1500を
使っていましたが、ハイス全鋼は「刃の黒幕」の後では
この大平産の砥前はほとんど反応しないのです
ところが、今年の夏に手に入れた中砥の但馬砥
研いだあとに、そのハイス全鋼の刃を研いでみると
下の画像のように、すばらしい反応をしてくれたのです

ハイス全鋼を但馬砥で研いだ後に研いだ研ぎ汁
この砥石は硬めですが
一般的な鉋身を研いだときと同様の
すばらしい反応です

研ぎ上がった画像ですが
中砥の傷はほとんど消えて
金属組織の細かい結晶が
表れています

これは但馬砥で研いだ痕です
傷は浅く、普通はこういった
浅い傷の後には
硬めの仕上砥はかかりが悪く
人造砥石の深い傷の方が
硬めの仕上げ砥には
反応がいいのです

なぜ但馬砥の後だと
反応がいいのでしょうか
不思議です・・ (参照


2009年10月24日土曜日

会下山遺跡

今朝の新聞に、兵庫県芦屋市の会下山(えげのやま)遺跡で弥生時代の金属器を生産したと思われる痕跡が見つかったという記事がありました。実はこの遺跡の北1kmほどの所には、ナマズ石があるのです(地図参照)。
ナマズ石については、以前HPの随想で述べたことがありますが(参照)、この石に書かれてある文字(記号)が古代のものだとしたら、そして、川崎真治氏の説明のように、その文字が風神エンリルに祈願をしたものだとしたら、会下山遺跡と強い繋がりがあるということになります。そして、
金属器生産跡は製鉄をした可能性も出てくるのではないでしょうか。時代もどちらもほぼ同じ時代という気がします。
これはおもしろいことになりました。
鉄鉱石や、それが粉砕された状態の砂鉄から鉄や鋼を取り出すためには、高い温度が必要で、その為にタタラなど送風装置を使うということはよく知られていますが、古代の製鉄では自然風を利用した製鉄を行っていたということです。ですから、会下山遺跡で製鉄が行われていたとしたら、その際に適度の風を得るために近くの山岳信仰の場である岩山で祈願を行ったということは充分に考えられるのではないでしょうか。芦屋市の北にある六甲山系は古代からの岩座信仰の場が多く存在しているのです。


2009年10月23日金曜日

「古代の製鉄」続き その3

弥生時代から古墳時代にかけて、日本(とくに西日本)には
いくつかの王国があったとされています。兵庫県北部の
丹波王国、山陰を中心とした出雲王国(島根県)、吉備王国(広島県と岡山県の一部)、そして九州大分県国東半島の付け根に位置する宇佐王国。これらの王国に共通していることは、どの国も鉄の産地であるということです。当時の製鉄基地と云ってもいいのかもしれません。そして、丹波王国の但馬(たじま)には象徴としてアメノヒボコ、出雲王国にはサルタヒコあるいはオオナモチ。出雲王国は越後(新潟県)から九州北部の宗像(福岡県)、南は四国の讃岐(香川県)まで勢力を伸ばしていた時期もありました。吉備王国はもとは出雲国の一部でしたが、後に独立し王はフトニとされています。九州は宇佐を中心にニギハヤヒですが、ニギハヤヒは徐福であるという説もあります。徐福は古代丹波ではホアカリとされていて、また旧事本記ではホアカリニギヤハヒとなっていますので、ニギヤハヒ徐福説はあり得ないこともないようです。ニギヤハヒは21日に述べたように崇神天皇であるという説や、物部氏の祖とも云われていますので、それだけ各地に影響力のあった集団だったと思われます(参照)。
サルタヒコ、ニギハヤヒ、アメノヒボコは、どの集団も日本に渡来してきた民族集団とされています。その時に製鉄技術や養蚕技術、焼き物技術、ガラス焼成技術、土木技術、(ぎょく)の加工技術なども持ってきているのです。




切れ味

これは、これまで使ってきたハイス全鋼の小刀です
主に硬い黒檀(エボニー・本黒檀)を加工するときに
使っているものです



ブリッジの成型途中の画像ですが
削り痕を見てください



こちらは、大原氏が鍛えた小刀です



上の画像と同じものを削ってみました
削り痕の艶の違いがお判りでしょうか

ハイス全鋼の切れ味は
ジャリジャリといった感じですが
大原氏のものはサクサクと削れます
その音の違いが削り肌の違いに出ています

刃の研ぎ角度はどちらも同じで
使った砥石は鋼に合わせたので
違っていますが、研ぎ上がりは同様にしていますので
明らかに鋼の違いが反映されているものと思われます
大原氏のものはハイスほど永切れはしませんが
仕事に支障を来たすほどの違いはないので
この切れ味を知ってしまうとハイスの小刀は
使う気になれません・・




このように、曲線を仕上げるときには
私は手に持って削ります
バイスなどに挟んでいては微妙な線と面を見ながら
削れないのです

一つ間違えば怪我をするやり方ですが
刃物が良く切れれば、まず大丈夫です
これで怪我をしたことはありません
これも木工技術の一つなのです

2009年10月21日水曜日

「古代の製鉄」続き その2

19日に述べたように、「古代の製鉄」の著者の山本博氏は竜田神社の社伝に疑問を投じ、社伝にある「風神はもと竜田山(大阪府側)の御座峰に 降臨し、のち崇神天皇の時代に現在地(奈良県側)に勧請した」というのは間違いであるとしていますが、私は社伝のとうり、崇神朝の可能性もあると思います。崇神天皇の時代に三種の神器の分身が作られているのは、その証拠となるのではないでしょうか。因みにその分身の剣は平家が滅亡した壇ノ浦の合戦の際に水没したとされています。
崇神天皇はニギハヤヒと強い繋がりがあり、崇神天皇本人ではないかという説までありますが、鹿島曻説のように、ニギハヤヒは襲名であるということも充分考えられそうです。ニギハヤヒは製鉄技術を持った集団で、日本にその技術をもたらしたことは疑いがないようですが、ニギハヤヒが卑弥呼と同様古事記・日本書紀からは抹殺されているというのも、その事と関連しているのかもしれません。ですから、「古代の製鉄」の著者が述べていることと関連して、日本書紀は天武天皇の都合のよいように捏造された歴史書とも言えるわけです。その際に、時の権力者にとって都合の悪い卑弥呼やニギヤハヒは抹殺する必要があった。 また、古事記や日本書紀に登場はしていても、邪魔者扱いにされている人物としては、サルタヒコアメノヒボコがいます。サルタヒコとアメノヒボコも製鉄技術を日本にもたらした集団であったということも、ほぼ間違いないようです。