2009年11月4日水曜日

鉋、鉋、鉋

今日は鉋使いの名手
木工作家の徳永順男氏の工房で
研ぎと鉋使いの交流を行いました


鉋刃を研ぐ徳永さん
この両膝を着いた研ぎ姿勢と
手を濡らさず、少量の水で研ぐための研ぎ場セットは
大原氏の考案によるものです
右側にある水桶の水をブラシで砥石に付け
研ぎ汁もこのブラシで洗い流します

大原氏が写真を撮ると
このように玉響(たまゆら・オーブ)が
多量に出現しました・・
5枚ほど撮影されていたのですが
すべてにこのように多量に現れていたのです


2009年10月29日木曜日

「古代の製鉄」続き その4

古代の日本(弥生時代から古墳時代)に
製鉄技術をもたらしたとされる代表的集団に、
サルタヒコ集団とアメノヒボコ集団がありますが、
時代はサルタヒコの方が古いということは
日本書紀の記述からも推察できます。
また、もたらされた製鉄技術も違ったものとされていますが、
サルタヒコは銅鐸文化を中心としていたので、
どちらかと云えば青銅技術が主となっていたようです。
一方、後に渡来したアメノヒボコは最先端の
製鉄技術を持っていたとされています。
このアメノヒボコの技術については、従来の
褐鉄鉱を用いた製錬から砂鉄を用いる製錬をもたらしたとする説や、
焼き入れ技術を持っていたとする説などがあります。
「古代の製鉄」の著者・山本博氏は、
褐鉄鉱を用いた製鉄が原始的で、砂鉄を用いた製鉄が新しいとする説の
根拠となっている、科学的な分析に疑問を投げかけてもいます。
アメノヒボコの後(応神朝)に渡来してきたとされる、
鍛冶の名工である卓素(たくそ)は、銑鉄(ずくてつ)を鋼にする
左下法(さげほう)という技術をもたらしたとされていますが、
もしかして、この技術をもたらしたのが
アメノヒボコだったのかもしれません(参照)。



西王母と東王父


2009年10月25日日曜日

砥石の不思議

先日、久しぶりに京都大平産の仕上げ砥石(戸前 黄板)を
使ってみて、その反応の
すばらしさと研磨力の強さに
驚いたのですが、この砥石
はハイス全鋼の刃には
これまで反応が悪かったのです
これまでは、ハイスや特殊鋼など、強靭な刃も
中研ぎにはシャプトンの「刃の黒幕」#1000と#1500を
使っていましたが、ハイス全鋼は「刃の黒幕」の後では
この大平産の砥前はほとんど反応しないのです
ところが、今年の夏に手に入れた中砥の但馬砥
研いだあとに、そのハイス全鋼の刃を研いでみると
下の画像のように、すばらしい反応をしてくれたのです

ハイス全鋼を但馬砥で研いだ後に研いだ研ぎ汁
この砥石は硬めですが
一般的な鉋身を研いだときと同様の
すばらしい反応です

研ぎ上がった画像ですが
中砥の傷はほとんど消えて
金属組織の細かい結晶が
表れています

これは但馬砥で研いだ痕です
傷は浅く、普通はこういった
浅い傷の後には
硬めの仕上砥はかかりが悪く
人造砥石の深い傷の方が
硬めの仕上げ砥には
反応がいいのです

なぜ但馬砥の後だと
反応がいいのでしょうか
不思議です・・ (参照


2009年10月24日土曜日

会下山遺跡

今朝の新聞に、兵庫県芦屋市の会下山(えげのやま)遺跡で弥生時代の金属器を生産したと思われる痕跡が見つかったという記事がありました。実はこの遺跡の北1kmほどの所には、ナマズ石があるのです(地図参照)。
ナマズ石については、以前HPの随想で述べたことがありますが(参照)、この石に書かれてある文字(記号)が古代のものだとしたら、そして、川崎真治氏の説明のように、その文字が風神エンリルに祈願をしたものだとしたら、会下山遺跡と強い繋がりがあるということになります。そして、
金属器生産跡は製鉄をした可能性も出てくるのではないでしょうか。時代もどちらもほぼ同じ時代という気がします。
これはおもしろいことになりました。
鉄鉱石や、それが粉砕された状態の砂鉄から鉄や鋼を取り出すためには、高い温度が必要で、その為にタタラなど送風装置を使うということはよく知られていますが、古代の製鉄では自然風を利用した製鉄を行っていたということです。ですから、会下山遺跡で製鉄が行われていたとしたら、その際に適度の風を得るために近くの山岳信仰の場である岩山で祈願を行ったということは充分に考えられるのではないでしょうか。芦屋市の北にある六甲山系は古代からの岩座信仰の場が多く存在しているのです。


2009年10月23日金曜日

「古代の製鉄」続き その3

弥生時代から古墳時代にかけて、日本(とくに西日本)には
いくつかの王国があったとされています。兵庫県北部の
丹波王国、山陰を中心とした出雲王国(島根県)、吉備王国(広島県と岡山県の一部)、そして九州大分県国東半島の付け根に位置する宇佐王国。これらの王国に共通していることは、どの国も鉄の産地であるということです。当時の製鉄基地と云ってもいいのかもしれません。そして、丹波王国の但馬(たじま)には象徴としてアメノヒボコ、出雲王国にはサルタヒコあるいはオオナモチ。出雲王国は越後(新潟県)から九州北部の宗像(福岡県)、南は四国の讃岐(香川県)まで勢力を伸ばしていた時期もありました。吉備王国はもとは出雲国の一部でしたが、後に独立し王はフトニとされています。九州は宇佐を中心にニギハヤヒですが、ニギハヤヒは徐福であるという説もあります。徐福は古代丹波ではホアカリとされていて、また旧事本記ではホアカリニギヤハヒとなっていますので、ニギヤハヒ徐福説はあり得ないこともないようです。ニギヤハヒは21日に述べたように崇神天皇であるという説や、物部氏の祖とも云われていますので、それだけ各地に影響力のあった集団だったと思われます(参照)。
サルタヒコ、ニギハヤヒ、アメノヒボコは、どの集団も日本に渡来してきた民族集団とされています。その時に製鉄技術や養蚕技術、焼き物技術、ガラス焼成技術、土木技術、(ぎょく)の加工技術なども持ってきているのです。