2010年4月15日木曜日

碧玉と九鬼水軍 その3

ここが謎の和服姿の女性が案内してくれた三田市三輪にある三輪神社であります(参照地図)。鳥居の紋を拡大して見てください。三輪というくらいですから三つの輪が重なった意匠になっていますが、遠くから見ると九鬼家の家紋である左三つ巴に似ているので、ちょっとドキリとしました。それから、社伝を読んで驚きました。
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、平安時代に大和国(やまとのくに・奈良県)の一宮である大神(おおみわ)神社から分祀されたということなのです(参照。大己貴命といえば大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名でもあります。つまり出雲(いずも・島根県)の神様であります。出雲産の碧玉(へきぎょく)とされる加工品が出土した、弥生時代の餅田遺跡は三輪神社のすぐ近くにあるのです。ということは、この地に大和から出雲の神を祀る神社が分祀されたのは、もしかしたら弥生時代からのつながりがあったのかもしれないと言えるのではないでしょうか。
三輪神社は山のすぐ脇に拝殿があるので、明らかに古い形態の神社で、もともとは岩座(いわくら)信仰が行われていたものと思われます。また、拝殿の裏山には古墳が数基確認されているので、神社もその事と関連があるのではないでしょうか。





2010年4月11日日曜日

バッハとラウテンクラヴィーア その2

バッハはリュートの音をこよなく愛していたそうですが、リュートという撥弦楽器はルネサンス時代からの興隆が、バッハが活躍していたバロック時代後期には衰退し、チェンバロという鍵盤楽器に取って代られていました。
そのような時期にラウテンクラヴィーアというハイブリッドな楽器が登場したのは、何か暗示的なものを感じます。しかしながら、バッハの死(1750年)とともに終焉を迎えたバロック時代の幕が下りると、主役のチェンバロも含め姿を消してしまうのです。
こうした、バロック時代の最後に花を開かせたバッハ、ヘンデルと同世代のリュートの巨匠が、演奏家であり作曲家でもあったヴァイスでした。
ヴァイスはドレスデン宮廷の専属リュート奏者として活躍していて、その年俸は当時のヨーロッパの器楽奏者の中では最高額を得ていたということです。ですからバッハとヴァイスの交流は、バッハの長男のW.F.バッハが仲介をして、バッハの方からヴァイスを訪ねて行くことから始まったそうです。また、1739年(バッハ54歳のとき)にはW.F.バッハがヴァイスとJ.クロップガンズという二人のリュート奏者をライプツィヒのバッハ邸に連れていったという記録が残っているようですから、そのようなときにリュート奏者から様々な刺激を受け、バッハのリュート曲が生まれたのだと思われるのです。


2010年4月9日金曜日

バッハとラウテンクラヴィーア

7日に紹介した新作のラコート風モダン・ギターを製作するにあたっては、チェンバロ奏者の山田貢氏による、ラウテンクラヴィーアの研究が大いに参考になりました。
ラウテンクラヴィーアとはリュート風チェンバロのことで、
J.S.バッハが所有していたとされる鍵盤楽器です。
ところが、この楽器は現存しておらず、図はもちろん資料もほとんど残っていないのだそうです。バッハの遺産目録にはラウテンクラヴィーア2台とあるので、バッハが所有していたのは確実のようですが、山田貢氏の著書「バッハとラウテンクラヴィーア」によると、その楽器についての文献はごく少なく、しかも断片的だということです。それに加え、記述に欠点や矛盾が多く、楽器を再現するためには常に仮説の域から脱することができないということで、まさに暗中模索の連続だったようです。

山田氏がラウテンクラヴィーアの再現を試みることに先立ち、ドイツの楽器製作家ルドルフ・リヒター氏が1990年に再現しています。リヒター作の楽器は、1718年頃のフライシャーという人物によるラウテンクラヴィーアの形状の記述「古代ローマの円形劇場のように丸いか、または楕円形」を参考に製作されたものです。ここで興味深いのは、山田氏がリヒター作の楽器を弾かせてもらいに行った際に、この楽器を参考してもよいかと問うたところ、リヒター氏はそれを否定し、自身の反省が述べられていることです。
その時のリヒター氏から山田氏に対するアドバイス・・「コルプス(楽器本体の中に固定されるリュートの胴体のようなもの・3枚目の写真参照)の内部容積を大きくとりすぎた」 また、「典型的なリュートの音があまりよく得られなかった」 そして、「この楽器の改良製作をすすめる気がしない」と結んでいるのです。
リヒター氏は1986年と1996年にはテオルベンフリューゲル(テオルボ:大型リュート)風鍵盤楽器)も製作していますが、山田氏によると、2台目の1996年作には明らかな改善が見られ、前作より自然な鳴り方でリュートらしさを持っていたということです。その主な要因は楽器の胴容積を絞ったのが良かったのではないかと推測していられます。

そしてこれが山田氏設計による
ラウテンクラヴィーアで演奏したCDです
奏者はもちろん山田氏御自身
録音は2009年5月19日~21日

CDジャケットには楽器の
全体写真も載せられています

これは楽器内部のコルプスの様子
リュートの背面と同様のものが
収められています

ラウテンクラヴィーアのCDは
他に5枚ほどリリースされているようですが
そのうちの4枚を入手することができました
これはその1枚で
奏者はピーター・ワルドナー氏
楽器はアメリカの作者
ケイス・ヒル氏作 1999年製


そしてこちらは、同じく
ケイス・ヒル氏作の1994年製の楽器を
ロベルト・ヒル氏が演奏しているもの
同じ作者でも製作年代で
ずいぶん音の印象が違います


こちらはウィラード・マーティン氏作
1994年製の楽器を
キム・ハインデル氏 が演奏したもの
こちらの音は山田氏設計のものと
よく似ていて
リュートらしいものを感じます


そして最後にこのCDですが
この楽器は本体の形が
リュート状のもので1982 年に
ダウド商会により製作されたものです
演奏はゲルゲイ・サルコジ
このCDにはテオルボ(大型リュート)で
演奏された曲も1曲収められていて
楽器の音の比較ができます
テオルボの作者はハンガリーの
ティハメール・ロマネク氏
氏は上の写真のような
ラウテンクラヴィーアを製作することでも
知られています(参照

その後、ウェブ上の画像が
増えていたので
以外、紹介しておきます





バッハはリュートの音をこよなく愛していたそうですが、リュートという撥弦楽器はルネサンス時代からの興隆が、バッハが活躍していたバロック時代後期には衰退し、チェンバロという鍵盤楽器に取って代られていました。
そのような時期にラウテンクラヴィーアというハイブリッドな楽器が登場したのは、何か暗示的なものを感じます。しかしながら、バッハの死(1750年)とともに終焉を迎えたバロック時代の幕が下りると、主役のチェンバロも含め姿を消してしまうのです。
こうした、バロック時代の最後に花を開かせたバッハ、ヘンデルと同世代のリュートの巨匠が、演奏家であり作曲家でもあったヴァイスでした。
ヴァイスはドレスデン宮廷の専属リュート奏者として活躍していて、その年俸は当時のヨーロッパの器楽奏者の中では最高額を得ていたということです。ですからバッハとヴァイスの交流は、バッハの長男のW.F.バッハが仲介をして、バッハの方からヴァイスを訪ねて行くことから始まったそうです。また、1739年(バッハ54歳のとき)にはW.F.バッハがヴァイスとJ.クロップガンズという二人のリュート奏者をライプツィヒのバッハ邸に連れていったという記録が残っているようですから、そのようなときにリュート奏者から様々な刺激を受け、バッハのリュート曲が生まれたのだと思われるのです。


2010年4月7日水曜日

新作 ラコート風モダン・タイプ

新作のギターが1台
出来上がりました
特注で製作したもので
ラコート風モダン・タイプです


左端のものがそうです
注文により
アンティーク・ヴァイオリン風
仕上げにしました
その右側に吊ってあるものは
修理中の19世紀オリジナル
ギターです
ラコートも見えますね・・

仕上がって音を出してみてビックリ
自分で言うのもなんですが
ラコートとモダン・タイプの
良いところが
うまく出ているではないですか・・
まさにハイブリッドな楽器です
これはKiyondオリジナル
シリーズに
加えたい楽器ですね
このような注文をして下さった方に感謝です

実は、19世紀のオリジナル
ラコートにも
こうした大型のボディのものが
あるのです


内部の様子


こちらはオリジナル・ラコートの内部

碧玉と九鬼水軍 その2の蛇足 


弥生時代の遺跡から出土する巴形銅器にも右巻きと左巻きがありますね・・



それから、新たに三つ巴軒瓦が集まりました
左は大分県、右は奈良県のもの
こうしてみると、左巻きの方が多いようですね



近所を散歩していたら
「左三つ巴」の軒瓦があるのを見つけました
ここ丹波篠山では「右三つ巴」しかないのか
と思っていましたが
左巻きもあったのですね・・
どちらにしても、この軒瓦は播磨系とされているので
ここ丹波篠山と、南西に位置する播磨は
何か共通したものがあるのでしょう
それはおそらく「銅」が関係しているものと思われます
どちらの地域にも
弥生時代に金属加工に使われたとされる
手焙り形土器が出土しているのもそうですしここ丹波篠山の私の工房近くには
丹波地域最大の前方後円墳である
車塚古墳があります

車塚と名付けられた古墳は
関東から関西にかけて多く存在しますが
遺跡ウォーカーで車塚古墳で検索してみてください)
歴史言語学者の川崎真治説によると
クルマはウル・シュメール語のググ(亀)が
転化してクウヅマになり、それが
さらにクルマとなったものだとされています
つまり亀をトーテムとする民族というわけです
因みに鹿児島県の種子島の方言では
亀のことをクウヅマと言い
京都府与謝郡ではガンダメと言うそうです
古代丹波の地は銅鐸文化圏でもあり
古来から銅の産地として知られ
それをめぐっての争いが絶えなかったようです