2010年6月5日土曜日

碧玉と九鬼水軍 その12 

新撰姓氏録には、当時(平安時代初め)の氏族(うじぞく)の出自や始祖が記されているのですが、その氏名には明らかに外国(インドなど)のものと思われる発音が多く存在しています。それを姓氏録では漢字で書き記しているので注釈が必要なのですが、紹介したサイトでは読み方まで説明されていません。
ですから、気になる氏名を少し挙げてみようと思います。
まず、出雲臣の同族として挙げられている「鵜濡渟(ウジュヌ)」、これはあきらかにインド系のようですね。次に同じく出雲臣の同族から「宇賀都久野(ウカツクヌ)」、日置造(へきのみやつこ)の始祖「伊利須意弥(イリスイネ)」。その他、氏名だけを挙げていくと、爾利久牟(ニリクム)、片禮吉志(ヘンレキシ)、左李金(サリコム)
伊利斯沙禮斯(イリシシャレシ)、都久爾理久爾(ツクニリクニ)、布都久呂(フツクロ)
大新河(ダイシンガ)、殖栗(ショックリ)などなど・・
いかがでしょうか。これらは日本語とは思えませんが、こういった名前の人々が、当時あたり前のように日本に居たということになります。時代はやや遡りますが、聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条の書き出しで、「和を以て貴しとなす」としているのも、以前HPで述べたように(参照・6段目)、当時の日本には様々な人種がいたことが根拠になっていると思われるのです。
話を戻しますが、高橋良典説によると、鵜濡渟(ウジュヌ)はインドのデカン高原にある地名ウジャインとしています。その他、上に挙げていない姓氏録の氏名でインドのデカン高原一帯の地名と一致するものを多く指摘されているのですが、これらを見ると以前紹介したように(参照)、ここ篠山の神社に古代インドの影響が見られる理由が納得できるのです。






2010年6月2日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その11 

丹波篠山出身の考古学者、福原潜次郎氏(故人)は昭和9年に出版した「多紀郷土史話」の中で、日下(くさか)について考察しています。その説で興味深いのは、他の地域で日下と言われているのが篠山では「草ノ上(くさのうえ)」とされていて、この篠山の「草ノ上」が日下の起源地であるとしているのです。(地図参照)。地図を見ていただくとお分かりのように、たしかに現在でも草ノ上という地名がありますが、福原氏は「草ノ上」は本来は「種の上」であったとしていて、その根拠として、部族の移住の際に捧持してきた神実(かんざね)を挙げています(実は種と同義である)。
このことで福原氏はおそらく、種の上流は丹波にあって、河内など他の日下は種の下流であるという意味で、先のような説を述べたのだろうと思います。しかし、どのような漢字を当てたとしても、「クサカ」という発音を表すのが目的ですから、福原説のように「クサノウエ」が「クサカ」と同義であるというのは、ちょっと無理があります。ただし、新撰姓氏録では「日下部連(くさかべのむらじ)は彦坐命(ひこいますのみこと)の子の狭穂彦命(さほひこのみこと)の後(すえ)なり」とあり、彦坐命は丹波道主命の父とされていますので、福原説のように、日下の起源地が丹波である可能性は大きいと云えます。
それから、先に紹介した地図に示したもう一つのポイントである雲部車塚古墳の存在は見過ごされません。車塚という名の付いた古墳は数多く存在しますが(遺跡ウォーカーで車塚古墳を検索してみてください)、川崎真治説によると、車塚は本来は亀塚のこととしています。
亀は古代倭語や同時代の朝鮮半島南部の弁辰(弁韓)語でクウヅマと言い、それが音転してクルマという発音になったということなのです。鹿児島県南部の種子島では今でも亀のことをクウヅマと呼ぶそうです。因みに他の地域では、長崎県五島地方ではクンクン、大分県宇佐地方、熊本県、福岡県の壱岐(いき)地方ではクウヅ、他の九州地域では、クヅ、クツ、コォツ、コォゾー、クチガメ、山口県や島根方言ではクソガメ、広島県ではカンドー、三重県阿山郡、奈良県添上郡、京都府相楽郡ではクソンド、京都府与謝郡ではガンダメ、などと呼ばれているようです。
このことは「碧玉と九鬼水軍 その8」で述べたように、亀をトーテムとした民族が関係しているということになりますが、車塚古墳は亀をトーテムとした民族の、その地の首長の墓ということになります。





2010年5月30日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その10 

日下(くさか)という地名や語源については様々に考察されていますが、古事記でも序文で、「姓(うじ)の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如きの類は本に随て改めず」と断りを入れているほどですから、古事記が編纂された当時(8世紀)でも特別な読み方だったようです。
最初に古事記の注釈書を書いた江戸時代の本居宣長は、「かくの如きの類とは、長谷(はつせ)、春日(かすが)飛鳥(あすか)、三枝(さきくさ)などなり」と注釈をしています。三枝は現代では「さえぐさ」が一般的ですが、考えてみれば、
春日、飛鳥などなぜそう読むのか不思議といえば不思議です。
日下という読み方については、ニュージーランドのマオリ語「クタカ」の転訛であるという説(参照)や、アイヌ語で読むと意味が通じるという説もあります(参照)。
日下を素直に読むと「ひのもと」なのですが、これは日の本とも書くことができ、日本となります。倭(やまと)が日本という国名になったのは7世紀頃とされていますが、三国史記の新羅本紀では、670年の記録に「倭国が国号を日本と改めた」とあります。また、中国の文献である旧唐書(くとうしょ)や、旧唐書を宋の時代に改めた新唐書に記されている「日本」は、神武が東遷する以前の、物部氏(ニギハヤヒ)が河内に築いた日下のことであるという説もあります。そうすると、日下を「くさか」ではなく「ひのもと」と呼んでいた可能性も否定できないということになります。

たとえば、「山辺の道」は「やまべの道」と訓むこともできますが、倭名類聚抄では「夜萬乃倍」と訓が付けられています(紹介サイトをCtrl+Fキーで「夜萬乃倍」の文字検索をして下さい)。つまり当時は「やまのべの道」と訓んでいたことになります。また、この「山辺の道」というのは、古くから奈良県の三輪山周辺から北に伸びる道を指していたということです。ということは、日下も「くさか」ではなく「ひのもと」と訓んでいた可能性が高くなります。このことから、古事記序文で「日下を「くさか」と謂うのは元の読み方に従った」と書かれているということは、古事記編纂の頃には「ひのもと」と訓んでいたことも考えられます。
そうすると、古事記編纂以前に訓まれていた「くさか」は神武東遷以前、ニギハヤヒ族が河内に居住した地に付けられた地名、あるいは氏名だったということになります。
ニギハヤヒ族は最初に日本に渡ってきた地は九州の宇佐地方と思われますので、神武の東遷と同様にニギハヤヒも九州から大阪湾まで東遷してきたという説を裏付けることにもなるのです。因みに、物部氏(ニギハヤヒ族)発祥の地は佐賀県神埼郡一帯ともされています。





2010年5月26日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その9 

前回紹介した塩田八幡宮は、兵庫県三田(さんだ)市の三輪・餅田遺跡からほど近いところにあり、その近くには日下部(くさかべ)という地名があります。
日下部は新撰姓氏録に記載されているので、元々は氏(うじ)名だったことが分かりますが、河内国(かわちのくに・大阪)と摂津国(せっつのくに・大阪と兵庫県)に居住していたとされています。(かばね)としては、連(むらじ・日下部連)、そして
宿禰(すくね・日下部宿祢)として山城国(やましろのくに・京都)に、それから首(おびと・日下部首)として和泉国(いずみのくに・大阪)に見えます。それらの地が後に地名として残ったのだと思いますが、塩田八幡宮が鎮座している神戸市北区道場町は摂津国ですので、新撰姓氏録で説明されているところだと思われます。
新撰姓氏録の河内国の日下部の説明では、「神饒速日命孫(かむにぎはやひのみこと の ひこ)、比古由支命之後也(ひこゆきのみこと の すえなり)」となっています。
神饒速日命は「碧玉と九鬼水軍その8」で紹介したニギハヤヒのことです。つまり三田市の三輪神社から神戸市北区の塩田八幡宮にかけての一帯はニギハヤヒの勢力圏だったということです。奈良の三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社の祭神は大物主命ですが、これはニギハヤヒのことです。
日本書紀では、初代天皇とされる神武天皇(カムヤマトイワレビコ)が天皇になる前に九州から東遷して、行きついたところは「河内国の草香邑(くさかむら)の青雲の白肩の津」とされています。河内国の草香とは現在の東大阪市の日下のことですが、この地が新撰姓氏録に載せられている河内国の日下部氏の勢力地だったということは容易に想像できます。
ということは、この地は神武東遷以前にすでにニギハヤヒの勢力圏になっていたということでもあります。またその後、神武が熊野から大和国(奈良県)に入った際にはニギハヤヒが現れ、神武に仕えたとされていますので、このニギハヤヒはある特定の人物の名前ではなく、代々世襲されてきた名前だということが分かります。 神武天皇については、現在ではその実在は疑われていますが、HPの「日本の歴史その九」でも述べたように、おそらく素戔男尊(すさのおのみこと)や日本武尊(やまとたけるのみこと)の東遷を重ね合わせているものと思われます。




2010年5月20日木曜日

塩田石を求めて その2

この川は塩田八幡宮から500mほど南に
流れている有馬(ありま)川 です
この川の上流には熊野神社と大歳神社が
並んで建っているのに興味が湧くのですが
このことは次回述べます





こちらは上の写真の反対側、東側の風景です
月見橋の下から眺めた風景ですが
空は広く解放感があり
奥の山から満月が昇っていく様子は
すばらしいだろうと想像できます
在原業平の兄である行平など
平安時代の歌人たちがここを訪れたのも
納得できるというものです
とは言うものの、昔の流れは
塩田八幡宮の近くだったということで
前回紹介したように、そこに今では
厳島神社の小さな社が建てられています






さて、塩田石なるものの手掛かりでも
見つからないものかと
有馬川の岸に地層を探しましたが
現在ではほとんど護岸工事が為されていて
地層が見えるところはありませんでした

それならば、河原の石を見てみようと
河原に降りましたが
転石はほとんどが花崗岩で
その他の石も石英質の硬いものばかりでした






ところが、場所によっては
上の写真のように風化が進んで
柔らかそうな石も散見されたので
塩田石の期待はできそうです






上の石を花崗岩で叩いてみると
ボロリと剥がれました
面を擦ってみると密度も適度にあり
砥石として使えそうな雰囲気です
砂岩か凝灰岩が見分けづらいところですが
どうも凝灰岩のような感じがします
出土した塩田石はもっと粒子が緻密なので
塩田石とは言えないかもしれませんが
砥石にはなりそうです





持って帰って面を出し
早速刃物を当ててみました
サリサリと反応しますね・・
石の質感や刃物への当たり具合は
但馬砥によく似ています(参照
これは凝灰岩のようですね





傷は大きめで、砥石としては荒砥の部類に入ります
比較的傷が均一なので
使えないこともありません
古代の人だったら砥石として使っていたでしょうね





参考までに、これは出土した塩田石です
緻密なので、現在使われている砥石としては
愛知県に産していた三河名倉砥が似ています
これも凝灰岩ですが今では掘られていません

今回は川での探索となりましたが
次回は山を探してみたいと思っています