2010年8月1日日曜日

2010年7月29日木曜日

丸尾山砥石恐るべし その3

京都亀岡の丸尾山産仕上げ砥石を
新たに手に入れました


これは「千枚」層 のものです
この層のものは持っていないので
ぜひ試したかったのです
丸尾山産としては硬口ですが
しっとりとした研ぎ心地です






硬口の良質な仕上げ砥石は
このように鉄の華が見事に散ります
研磨力も強く、「刃の黒幕#1500」の傷が
あっという間に消えていきます
研ぎ汁が邪魔になることもなく
砥石の底力を十分感じることができます
これまで多くの丸尾山砥石を使いましたが
これが一番のお気に入りになりそうです
小振りの原石ですから長さは短く不定形ですが
私はそんなことは気になりません






研ぎ上がった寸八鉋の身
鋼は安来鋼の青紙だと思いますが
地・刃共に見事に冴えわたっています
こういった一般的な刃物でしたら
1分も研げば実用上の仕上ができます
これには大変助かります

このようなすばらしい砥石が
存在するということ
そして、その砥石を掘り出す人が
いてくれるということに
思わず手を合わせてしまうのです

この砥石を使った研ぎの動画(You Tube)

2010年7月28日水曜日

不思議な符合(隼人と錫)その2

錫石は日本でも産しますが、産地はそれほど多くありません(参照)。丹波にも2カ所ほど産地があり、紹介したサイトで説明されている明延鉱山は、発見されたのが平安時代初めとされていますが、それ以前にも鉱石は何か掘られていたかもしれません。ですが一応、古墳時代以前には掘られていなかったとしておきましょう。
丹波のもう一ヶ所の産地は京都府亀岡市稗田野行者山にあります(地図参照)。この近くには大谷鉱山がありますが、そこは大正時代からタングステンを採っていたところなので、古代の錫の産地とは関係はあまりなさそうです。
問題は行者山の錫石です。行者山と名前が付いているくらいですから、古代から鉱石を求めて人が入っていたものと思われます。それから、その地に鎮座する稗田野神社です。この神社の由緒はかなり古そうで、また説明されている裏側には他の事実が隠されているような気がしてなりません。
それもそのはずで、この地、口丹波でもある亀岡市は隼人との深い関係があったのです(参照)。その隼人発祥の地とされる鹿児島県にも錫石の産地があるのは偶然とは思えないのです。



この地図は兵庫県篠山市中心部の
平安時代頃の郷域想定図です

2010年7月27日火曜日

三河名倉砥

中砥(参照)の三河名倉砥を手に入れました
愛知県北設楽(したら)郡で採掘されていた砥石で
現在では掘られていないということです(参照
刀剣の研ぎでも重要なものだそうです(参照

反応よく、心地よく研ぐことができます
この砥石は一般刃物用としては
大きめのサイズで30切サイズ
幅75mm、長さ205mm、厚さ42mm
私は刀剣用の人造中名倉砥も
使っていますが、やはり天然ものの
優れたものは研ぎ心地が違います
こういった優れた天然ものには
今ではまず出会うことができません

鉋身を研いでみました
人造砥石の1000番の傷を
わずかの時間で消すことができます
この後仕上げ研ぎを行いますが
短時間で仕上げることができます

これは京都梅ケ畑奥殿(おくど)産の
仕上砥石(巣板層のもの)です
これもたいへん優れた仕上砥石です

これで研ぎ上がりです

因みに、これは30年ほど前に手に入れた
三河中名倉砥です
惜しみながら大事に使っています

これは今年手に入れたものですが
三河名倉の中でも白名倉を専門に
掘っていた方の手許に
あったものだそうです
この方は亡くなられ
今では三河名倉砥の採掘は
完全に途絶えたということです

この写真の砥石は右側に針気が多く
ちょっと研ぎにくいですが
鋼に傷が付くことはありません
厚みが1cmほどしかないので
使わずに資料として残しておこうと
思っています

2010年7月23日金曜日

不思議な符合(隼人と錫)

青銅は銅と錫(すず)の合金ですが、ウィキペディアでは青銅の歴史の項目で「イラン高原は、銅と錫、燃料の木材が豊富であった。また、多くの銅鉱石は錫を同時に含むので自然に青銅が得られた。」と説明されていますが、これには疑問を感じます。
シュメール語(楔形文字)の研究者であるゼカリア・シッチン氏は、青銅器が発明されたとされる紀元前3000年頃の王室の記録に、「グアデ王は金属で輝く神殿を建てた。彼は金属を使って神殿を輝かした。彼はエ・ニンヌの神殿を石で造り、それだけではなく、錫を混ぜた銅で神殿を建てた。鍛冶の頭領も、この地を守る女神の司祭も、その神殿の前で共に働いた。両手に余る幅のキラキラ光る石でレンガの壁を包んだのだ。両手に余る閃緑岩の輝ける石で。」というのがあると著書で紹介しています。
そして、神殿を造る石を加工するための青銅製の道具を作る際、あるいはレンガの壁を包むための閃緑岩を加工する青銅製の道具を作る際、その道具の硬さは、ある程度決まった硬さが必要なのではないでしょうか。そうしなければ道具として役に立たない。そのためには青銅の成分を調整する必要があると思うのです。つまり錫の含有率を同じにする必要があります。
シュメールから出土している青銅の銅と錫の比率は、およそ銅85%に対し錫が15%だということですが、この比率は様々な試行錯誤の結果出されたものだと思われます。そのためには、やはり鉱石を製錬する必要があります。
ウィキペディアの説明のように、たとえ銅と錫を含む鉱石が採れたとしてもすべてが同じ比率ではないだろうし、他の金属が含まれているかもしれません。文明の産物として出来上がったものはもっと高度なものではないでしょうか。
ですから、錫を得るためには錫石から製錬した方が能率的ですし、シュメール文明でもそれが為されていたようです。錫石はシュメール近辺にもあったようですが、記録によると、ほどなく掘りつくされてしまい、遠く離れた地の二つの錫鉱山から調達していたということです。ということは、そこに輸入業が成り立つことになるわけです。こうしてシュメールの商人たちは錫石を求めて、現在のボヘミアやザクセン地方にまで手を伸ばしていたということです。
また、同時代のテル・ゼロール遺跡(古代イスラエル)からは、青銅を産業としていた地域の倉庫群、溶鉱炉址などが発掘されています。溶鉱炉の「るつぼ」や「ふいご」、それから「ふいご」の先端部の羽口も出土していて、羽口も形状が違うものがあるということですので、「るつぼ」に風を当てるやり方も幾通りかあったということになります。ということは青銅器が作られ始めた当初から、大規模で、しかも高度な製錬が行われていたということになるのではないでしょうか。それから、テル・ゼロール遺跡の周辺では鉱石は採れないということなので、原料は他の地域から調達していたことになります。



さて、唐突ですが

これは弥生時代の銅鐸です
古代丹波北部にあたる
兵庫県豊岡市気比(けい)で出土したものです
これも青銅製で、出土したものは
いわゆる青銅色をしていますが
これは錆の色で



本来はこのような色をしています

これは古代の出土した銅鐸と
同じ金属成分を再現した複製品です
これは手に入れてから20年ほど経っていて
本来はもっと明るい色あいでした

日本で出土した銅鐸の成分に
ついてはこちらを参照ください




参考までに、、これは日本の銅鐸の
ルーツではないかと言われている
古代中国、三星堆遺跡から出土している銅鐸です


これは丹波篠山の古墳から出土した
三環鈴(さんかんれい)と呼ばれる馬具
これも青銅製です