2011年3月20日日曜日

内行花文鏡と貨泉

奴国の丘歴史資料館には銅鏡はどのようなものがあるのかも興味深かったのですが、おや?と思うほど少なかったのです・・。完全なものは1点だけで、他は破片ばかりでした。これには少し拍子抜けしましたが、春日市から出土している銅鏡はおそらく同地で作られ、中国漢代のものを模倣したと思われるものが多いということが分かったのは収穫でした。
また、そのほとんどが内行花文鏡(連弧文鏡)だということに興味を覚えたのです。
内行花文鏡といえば、日本最大のものが出土している伊都国を私は連想するのですが、奴国の丘資料館がある春日市は福岡県北部に位置し、奴国(なのくに)の西隣は伊都国(いとのくに)です。伊都国は現在の福岡県糸島市とされています。この地から出土している内行花文鏡は現在国宝に指定されていて(参照)、この銅鏡も漢代の銅鏡を模して日本で作られた倣製鏡だと思われます。直径46cmという大きなものは漢代のものにはさすがに存在しません。
それから、この地からは中国漢代の貸泉(かせん)が出土しているのですが、先に紹介した春日市でも貨泉が見つかっています(参照)。興味深いのは、内行花文鏡と貨泉が出土している地が他にもあるのです。

奴国の丘歴史資料館に展示されている
銅鏡のなかで唯一破損していないもの
直径14,3cm


方格規矩四神鏡  直径15,8cm


 草葉文鏡(直径は20cm以上になる)
これにも連弧風の内行花文が見られます


上の破片をもとに復元されたもの


参考までに
これは私が所蔵している
漢代の文字入り内行花文鏡
直径10,7cm (参照




2011年3月17日木曜日

工房の様子 ペグ エンドピン ブリッジピン

木工旋盤で加工中のペグ





輪郭の出来上がり
この後ツマミ部分を仕上げていきます






これはブリッジ・ピン 





そしてエンド・ピン

2011年3月15日火曜日

須玖と芦屋

前回述べたように、新撰姓氏録の説明では、村主(すぐり)は「葦屋村主同祖、意寶荷羅支王之後也」とされています。
意寶荷羅支王は古代インドのクル族の王、マハークル王のことではないかとしましたが、葦屋村主(あしやすぐり)の祖でもあるとされていることに、私はたいへん興味が湧くのです。
葦屋は現在の兵庫県芦屋市とされていますが、芦屋市には
会下山(えげのやま)遺跡という弥生時代の高地性集落跡があります。そこで2009年に金属器を生産したと見られる新たな遺跡が発見されているのです。そのときには地元の新聞でも大きく報道されましたが、私はすぐに以前紹介したことのあるナマズ石を連想したのです(参照:5段目)。このナマズ石のある場所は会下山遺跡から1,5kmほどしか離れていないのです(地図参照)。
ナマズ石に描かれている図は、天空神であるアン、そして気の神、あるいは風の神であるエンリルに祈りを捧げたものと思われるのですが、それは会下山遺跡の金属を生産したと思われる遺跡と関係があるような気がするのです。もし会下山遺跡で行われたのが金属の精錬であり、それが自然通風で行われたのならば、風はとても重要だったというのは想像に難くありません。


福岡県春日市の須玖岡本遺跡付近から
出土している鋳型


同じく銅鏃(青銅製ヤジリ)の鋳型



ナマズ石


ナマズ石に描かれている図と
同様のものは各地で確認されています


2011年3月14日月曜日

須玖と村主

先日紹介した福岡県春日市にある「奴国の丘歴史資料館」の近くには、須玖岡本遺跡という弥生時代の遺跡があります。「須玖」はどう読むのですか?と資料館の担当の方に尋ねたら、本来は「スグ」と読むのだが、地名の須玖は地元の人は濁らない「スク」と言う人が多いということでした。考古関係の資料などでもルビは両方見られますが、資料館の方の話では須玖はもともと村主(すぐり)だったものが平安時代にスグに変えさせられたということでした。
新撰姓氏録(参照)では、村主は氏族名と姓(かばね)で多く見られますが、ほとんどが渡来人とされています。新撰姓氏録の説明では、姓の村主は「葦屋村主同祖、意寶荷羅支王之後也」とされています。「意寶荷羅支」は、明治時代の栗田寛による考証では「オホカラキ」とされていますが、それについての説明はなされていません。それから、昭和時代の佐伯有淸の考証では、意寶荷羅支の他の出典に触れているだけで解説はなされていません。読みは栗田寛説を踏襲し「オホカラキ」としています。
神話考古学のパイオニアである高橋良典氏によると、新撰姓氏録に載せられている、布都久呂(フツクロ)、大新河(ダイシンガ)、大売布(ダイメプ)、麁鹿火(アラカヒ)、椀子王(ワンコ王)、殖栗王(ショックリ王)、来目王(クルメ王)、男大迹(ヲオフト)、億計(オケ)、誉田(ホムダ)、伊利須(イリス)、伊理和須(イリワス)、麻弖位(マテイ)、宇賀都久野(ウカツクヌ)、管原(クダハラ)、鵜濡淳(ウジュヌ)などは、古代インドのデカン高原一帯の地名や人名と重なるとしているのです。
それから推察すると、意寶荷羅支王(オホカラキ王)はマハークル王のことではないかと思われるのです。
マハークルとは古代インドのクル族の大王という意味で、マハーは偉大なという意味があるとされています。そして、このクル族はインドで初めて鉄器を用いた部族とされているのです(参照)。
新撰姓氏録の漢字の当て字は、漢字の意味はほとんど関係なく、ただ発音の当て字ですから、意寶荷羅支にどのような発音を当てていたのか推察が必要になります。先に紹介したように、明治時代の栗田寛と昭和時代の佐伯有淸の解釈ではオホカラキとしていますが、アナグラム的な解釈でマハークルと当てられないこともないと思うのです。

福岡県春日市須玖近辺から出土している
鉄矛、鉄戈、鉄剣と銅剣


同じく銅剣とガラス製勾玉