2010年11月24日水曜日

2010年11月22日月曜日

晩秋の丹波

昨日のことになりますが
近くの山へ紅葉狩りに行ってきました
観光地ではないので
日曜日でも他に誰もいません
2時間ほど山歩きをしました

雑木の中で赤くなっている紅葉が
日光に映えています
これくらいの感じがいいですね・・



小山の頂上からの眺め


この山は石英質の岩山ですが
頂上の岩に誰かが丸い転石を置いていました
底が平らに加工されていたので
何かの目的で置かれているのでしょうか・・
長さは12cmほどの石です

不思議なことに、この石は
この山でよく見かける石質なのです
人工的に加工された形跡は
底の部分しか見られませんので
やはりどこかから持ち込まれたものと
思うのですが、転石になるような
大きな川は近くにはありません
はて?・・・

2010年11月17日水曜日

小鳥砥と中世中山砥

以前、三河産縞名倉として紹介した
砥石が(参照)実は三河産ではなく
岐阜県高山産の小鳥(おどり)砥ということが判明しました
この小鳥砥という中砥は岐阜県にある山本砥石店
販売されていて、商品画像を見てもしや
と思い取り寄せてみたのです

こうして並べてみると瓜二つです


研ぎ心地や鋼への傷の付き方も同様で
強い研磨力があります。動画をUPしました


そしてこれは、動画にも登場する
京都中山産の仕上げ砥(砥前層のもの)です
これは、中世(江戸時代以前)から
掘られていたという坑道から
新たに掘られたものだということで
今回手に入れてみました
参照:さざれ銘砥


中庸の硬さのものを選びましたが
手許にある通常の中山産のものより
力強く、ザックリと研ぐことができます
反応よく、底力も充分で私好みの砥石です
筋は当たりません


研ぎ心地に似合わず鋼は緻密に仕上がっています
この砥石だけで仕上は充分です

こちらも同じ中世中山の戸前
これは上のものより
やや硬めですが、同様によく反応し
強い研磨力があります

こちらも当たる筋はありません

仕上がりはこちらの方が
鏡面ちかくまで仕上がります
鋼は玉鋼(たまはがね)

2010年11月15日月曜日

特注サイズギター製作その16 セラックニス下塗り

響板のニス塗りの様子
動画UPしました



ラプレヴォット・タイプは
横板と裏板を水性ステインで
薄く色付けをしています

特注サイズ・モダンは
横板と裏板は目止めを行う前に
縁飾りの白い線が目止め剤で汚れないように
水性サンディングシーラーを塗っています
これは目止め後サンドペーパーで研ぎ落とします
同様に表板も無色のセラック・ニスで
下塗りをしておきます

2010年11月14日日曜日

窓付鋸でスプルースの製材

次回製作する、マリアハープの響板
ヨーロッパ産スプルースを
窓付鋸で製材しました

動画UP
 楽しめると思います



全長90cm、刃渡り尺八寸(55cm)
窓付鋸としてはかなり大きい方だと思います
この鋸は伐採用なのか
刃のアサリ(左右の振り巾)が大きく
製材用としては使えませんでした
それで、製材用に自分でアサリを狭くしました


銘は名前が判読できません
会津住 中屋(なかや)までは読めます
最後は花押(かおう)でしょうか・・
参照

その後手に入れた窓鋸の動画



2010年11月7日日曜日

特注サイズギター製作その13 指板接着後の反応

指板接着後のタッピング反応
動画をUPしました


指板は厚めのものを接着していますので
この後、指板を削っていくと
また反応は変化していきます

モダン・タイプは同時にネックも削るので
その変化はより顕著になります
また、この後、響板にブリッジを接着すると
反応は大きく変化します

この最終段階を想定して
板厚や補強材の削りを行ってきたわけです
その元は私の心(イメージ)の中で
響いている楽器の音であります


滋賀県出土の手焙り形土器


滋賀県では弥生時代後期から古墳時代にかけて使われていたとされる、手焙り形土器が多く出土しています。手焙り形土器に関しては高橋一夫氏による研究論文(1998年出版)がありますが、それによると、滋賀県では1998年までの時点で発見されている個数は132点に及んでいます。この数は大阪府と並んで全国最多の出土数ですが、興味深いのは、滋賀県で発見されているもののほとんどが、琵琶湖の東側に集中しているのです。琵琶湖の西側では南部の大津市で4点、中部の高島市で1点発見されているだけです。先日紹介した志賀町史でも、当地からは出土していませんが、手焙り形土器が滋賀県から多く発見されていることに触れ解説されています。ところが、この土器についての最も重要な、内部の付着物、とくに煤については誤った記述がなされています。この志賀町史第一巻は、出版されたのが平成八年(1996年)となっているので、高橋氏の研究論文が出版される2年前となり、執筆者も当時の一般的な認識として書かれたのだとは思いますが、誤りはなんとか訂正する手立てを講じてほしいものです。

とは言っても、高橋氏の論文でも、手焙り形土器の用途は不明とされていて、加治木義博氏によるインドでの近年までの使われ方の指摘は無視されています。
無視ではなく認識不足だったのかもしれませんが、加治木氏の指摘は昭和58年(1983年)に発表されているので、加治木氏の著書が学術論文ではなかったにしても、全く知らなかったということなら学者として勉強不足、あるいは
探求不足ではないでしょうか。それとも故意に無視されているのでしょうか。不可解なことであります。







これは滋賀県大津市で見かけた
手焙り形土器のような?洞(うろ)がある木

2010年11月5日金曜日

猿田彦と滋賀県

先日、滋賀県の大津市伝統芸能会館に行った際に、
近くにある大津市歴史博物館に寄ってきました。

滋賀県は関西に越して来た時から頻繁に足を運んでいますが、
歴史博物館はこれで三度目でしょうか・・。
今回は当地の古代史資料を目当てに行ってきました。
ショップでは何種類か販売されていましたが、志賀町史の
古代について書かれてある巻が興味深かったので手に入れてきました。

古代の滋賀県といえば、私はまず琵琶湖の南に位置する
野洲市から大量に発見されている銅鐸を思い浮かべるのですが、
それと関連して、琵琶湖西岸の高島市を連想します。
この地は猿田彦とたいへん縁が深いのです。
このことは以前HPで少し述べていますので参照ください
(日本の歴史について「その八」12段目)。
これについて補足的なことも後日述べようと思っていますが、
当地の氏族である和邇氏(わにうじ)と小野氏(おのうじ)も
見過ごすことができないので、今回少し触れようと思います。

まず和邇氏ですが、志賀町史では、本来は和邇部氏で
4世紀後半に和邇部氏と和邇氏が結び付いたとなっています。
本拠地は今でも琵琶湖中央部西岸に地名として残っています(地図参照)。
この地図のJR和邇駅近くに小野神社があるので、この地は小野氏も
関わっているようですが、小野氏は大和(奈良県)の春日の和邇一族から
分岐したとされていますので、和邇氏とは同族として
共存していたものと思われます。
余談になりますが、滋賀県高島市の田中神社から発見された
ホツマツタエでは和邇氏は琵琶湖北部の伊香の地から
高島の地に移ってきたとされています(地図参照)。
以前述べたように、この地には羽衣伝説があります(参照)。
ということはルーツは東南アジアということになります。

話を戻しますが、小野氏からは聖徳太子の時代(6世紀頃)に
遣隋使として派遣された小野妹子が出ていて、和邇氏からは
大津宮廷の支配者である天智(てんじ)天皇崩御後の
壬申の乱(672年)で勝利した天武(てんむ)天皇が輩出されています。
志賀町史の和邇氏の記述で興味深いのは、
和邇部氏(和邇部臣・おみ)は7世紀の終わり頃まで宮中の鎮魂祭で
神楽を奉仕する女性(猿女・さるめ)を出していたということです。
このことは、ここ丹波篠山の佐々婆神社と同じなのです。
佐々婆神社は私の工房のすぐ近くなのですが、以前紹介したように(参照
この神社の祭神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)、つまり猿女なのです。
そしてこの地も古来から神社に奉納舞をする巫女を輩出していたとされているのです。
このように、滋賀県の琵琶湖西部とここ丹波篠山の地は
深い繋がりがあったようなのです。
また、先に紹介した天武天皇が、壬申の乱の際に協力しなかった隼人を
丹波の地に追いやったというのも、丹波の地は隼人とも
繋がりが深かったからではないでしょうか(参照)。



2010年10月31日日曜日

19世紀ギター ラプレヴォット ネックとボディの接着





特注サイズ モダン・タイプと
19世紀ギター ラプレヴォット・タイプの
裏板を接着しました 動画UP
響板接着後のタッピング反応動画
接着前の裏板タッピング反応動画



裏板接着後のタッピング反応
動画をUPしました
どちらもほぼ狙いどうりの
反応を得ることができました
ラプレヴォット・タイプはネックの接着後
もう一度UPします  オマケ おまけ



19世紀ギター ラプレヴォット・タイプの
ネックとボディを膠で接着しました
接着の様子(動画
接着後のタッピング音(動画


2010年10月25日月曜日

フィガロ ギター・フェスティバル そして蝉の抜け殻


24日、滋賀県での
フィガロ ギター・フェスティバルに
楽器の出展で参加してきました

こちらは私のコーナー
中央の新作ラプレヴォット・タイプ
ギタリストの
西垣正信氏も試奏して下さったのですが
氏は、私がこの楽器で試みようとしていることを

即座に見抜いてしまわれたのです
これには驚くとともに、氏の洞察力の深さに
感服してしまいました
19世紀オリジナルのラプレヴォットは
反応に融通が利かないところがあり

道具として使い方が限定され気味なのです
これを、少しでも巾広い使い方
できるようにならないものか
様々試しているところなのですが
昨年くらいから何となく手応えがあり

今回のこの楽器でもその点が解決されている
のではないか思っていたのです
そこのところを西垣氏はズバリと指摘されたのです
これにはドキリとしました
そして楽器という道具を作る職人として
なにか、とても嬉しかったのです



そして、もう一つの嬉しかったこと

これはセミですね・・・
しかも石鹸なのです
楽器の展示をされた矢敷ギター工房の
古井豊氏の奥様から
手土産として頂いた手作り石鹸です
蝉にしては目の位置が少し変ですが
東南アジアには

このようなセミもいるのです


それからこれは岡山県から


遠路お越しくださったK様から
これも手土産として頂いたものです
なんとこれもご自身の手作り作品なのです

体長約2cm
これは本物の蝉の抜け殻から
型を取って鋳造したものだそうです
それにしてもよく出来ている・・
素材は真鍮(しんちゅう)だということですが
それが経年で適度に錆ていて
なんともいい質感になっています



抜け殻から型を取ったとはいえ
足先の細かく鋭いところまで
再現されているのには驚きます




本物の抜け殻と比較
画像右が本物の抜け殻
おそらくニーニーゼミでしょう
大きさといい、形状といいソックリです


HPの蝉コーナーにも
UPさせてもらいました


最後にこれはギタリストの松田晃明氏が
持って来て下さったものでアケビです
昨年も頂きましたが
今年のものはほど良い甘さで風味がよく
秋の味わいを満喫させてもらいました
最後になりましたが
フィガロ ギター・フェスティバルの
スタッフの方々に
この場にて御礼申し上げます

2010年10月23日土曜日

特注ギター製作その9 ネックと横板の接続 

特注サイズ モダン・タイプの
ネックと横板を接合しました








こちらは19世紀ギター
ラプレヴォット・タイプの横板を
接着した状態  
動画UP


2010年10月21日木曜日

猿田彦とニギハヤヒ

弥生時代の始まりを紀元前1000年説を採ると、
この頃ニギハヤヒ族が日本にやってきた可能性が
あるような気がします。世界史ではこの頃バビロンの覇権が
イシンからアッシリアに移り、これに対抗してカルデア人
(アラビア海の海人)がイシンの王族を中国に亡命させ
萁子朝鮮をたてています。それに伴い近辺では様々な
軋轢があったことが想像されますが、当然その流れが
日本列島に及んだ可能性もあるものと思われます。

紀元前700年頃には九州の国東半島で製鉄遺跡が
発見されているので、これはニギハヤヒ族がやって来ている
可能性大です。そのおよそ600年後、紀元前100年頃に
銅鐸文化が始まったとされています。
北海道と沖縄を除き、全国的に分布している弥生時代の
遺跡の中で、銅鐸、銅剣、銅矛などを持った青銅器文化
というものは九州から近畿に集中しているのが特徴的です。
ですから弥生時代の始まりは製鉄技術を持ったニギハヤヒ族が
日本列島に入ってきたのを嚆矢とし、その後西日本に
青銅器文化を持った猿田彦族が入ってきたという
図式を描くことができそうです。
ついでに述べておきますと、天日槍は3世紀から4世紀にかけて
日本にやってきたものと思われます。このときには、朝鮮半島の
当時の最先端の鉄加工技術や、それまで日本にはなかった
高温で焼く須恵器を作る技術を持って来たとされています。