2016年12月17日土曜日

不思議な符号 青森 善知鳥神社と宗像三女神

先日も紹介した、青森県に鎮座する善知鳥神社
祭神は、多紀理毘売命:タギリビメノミコト
市寸嶋比売命:イツキシマヒメノミコト
多岐都比売命:タギツヒメノミコト
となっていて、福岡県北部の宗像市にある
宗像大社の祭神と同じ(表記は違いますが)
宗像三女神となっています



これらの女神像の画像は
宗像三女神とは関係はありません

宗像三女神の中の市杵島姫命は後にインドの
サラスヴァティーと習合して弁才天となりますが
広島に鎮座する厳島神社の祭神でもあります


イチキシマとイツクシマ
おそらく厳島神社のイツクシマは
市杵島姫命から転じているものと思われます
厳島神社は平家物語とも深い関わりがありますが
私は何よりも、平清盛が寄進した平家納経に思いが至ります
上の画像は琵琶のルーツとされる
ペルシャのバルバッド(HP参照下さい:11段目)



宗像三女神は「アマテラス・天照大神」と「スサノオ・素戔男尊」の
誓約Ukeiによって生まれたとされていますが
その真意については未だ謎のようです

11日に紹介した月読命・ツクヨミノミコトは
イザナギ・伊弉諾命が黄泉の国から戻り
禊Misogiを行った際に右目を洗ったときに生まれていますが
同じときに禊を行った瀬の深いところから
底筒男命(そこつつのおのみこと)が生まれ
瀬の流れの中で中筒男命(なかつつのおのみこと)が
瀬の水面Minamoで表筒男命(うわつつのおのみこと)が生まれ
この三柱の神は住吉三神と呼ばれています
同じ神が禊を行ったときに生まれた
宗像三女神と住吉三神(男神)
どちらも海の神であるところが興味深いのですが
他に同様の神に八幡三神というのがあります
応神天皇、比売大神、神功皇后
これらも海人Ama系ですね


この地図は、北から善知鳥神社、砂沢遺跡、胸肩神社
そして太平洋側にある白髭神社を印したものです
善知鳥神社の祭神は宗像三女神
砂沢神社では遠賀川式土器と水田跡が発見されていて
白髭神社はサルタヒコと深い関係があります



これは福岡県北部の地図ですが
宗像大社と遠賀川の位置関係は
このようになっていて
遠賀川式土器が盛んに作られていた
弥生時代前期(参照)に、この地域と
同じ民族が青森県の砂沢遺跡周辺にも
住んでいたのでしょうか・・

一般的な歴史観では、福岡県北部の
遠賀川式土器と水田耕作が
徐々に東に伝わっていったとされていますが
青森県の砂沢遺跡は関東よりも早く
遠賀川式土器と水田耕作が伝わっているというのは
どういうことでしょうか・・

これまで紹介した宗像、住吉は海人Ama系の民族で
宗像水軍、住吉水軍といった
軍事力を持った民族でもありました
水軍という呼び方は江戸時代からのもので
それまでは海賊と呼ばれていたそうですが
海人系の水軍は他には安曇Azumi水軍、
熊野水軍が知られています
(時代が下ると、村上水軍、九鬼水軍などが登場します)
これらが後の時代、たとえば4世紀頃と思われる
神功皇后の三韓征伐
7世紀の白村江の戦いなどで活躍したとされるのは
よく知られているところです

このように、海人系の民族は海の航行に長けていたので
縄文時代の末から弥生時代にかけて
日本列島にやってきた海人民族が
福岡県北部や青森県北部に
ほぼ同時に上陸し、定着していった
ということも充分に有り得るのではないでしょうか
(日本海を九州北部から東北に流れる対馬海流は
青森県にも及んでいます:参照

先に述べた神功皇后の存在は否定する説もありますが
私は史実だと思っています
また、白村江の戦いは日本書紀では
日本の被害や負け方をそれほど重大視していませんが
その後の日本の様子(天智朝以降)から推測すると
日本は唐・新羅、とくに新羅に完全に征服された
と言った方がふさわしいのでは・・と思ってしまいます



白村江の戦いでは、日本側(倭国・百済連合)の敗因は
日本水軍の戦略・戦術ミスが原因とも言われていますが
それほど水軍の役割が大きかったようです
それは戦場の中心が河口の入り江であったこともあるのでしょう
これらのことでは、後の時代の源・平による
壇ノ浦の合戦を連想してしまうのですが
源氏、平氏は白村江の戦いの際に
新羅側の水軍として活躍した
新羅水軍の末裔ということも言われています




話を宗像三女神に戻しますが
古事記・日本書紀では
宗像三女神のなかの多紀理姫命は
出雲(島根県)の大国主・オオクニヌと結婚をした
ということになっています
そうすると、アマテラスとスサノオの時代とは
合わないことになりますが
このあたりに、古事記・日本書紀を編纂させた
天武天皇の意図があるようにも思えます
出雲からは多くの銅鐸が出土しているので
明らかに銅鐸民族の地ですが
古事記・日本書紀では、この銅鐸については
一字も記載がありません

銅鐸は弥生時代の象徴でもあります
銅鐸民族である出雲の主である大国主は
「国譲りをした」ということにさせられている
ということは、大国主の時代は弥生時代の最後の時期
ということになり(3世紀~4世紀頃)、その次の時代である
古墳時代を築いた民族によって征服された
と理解した方が自然であることは明白と思われるのです


では、その大国主がなぜ宗像三女神の一人と
結婚をした、ということになっているのか・・
また、大国主は越後(新潟県)の
奴奈川姫も娶っています
奴奈川姫は翡翠・ヒスイの産地の女神でもあるので
(新潟県の糸魚川には縄文時代のヒスイ製勾玉や
ヒスイ加工跡も発見されています:参照
大国主は出雲に玉造Tamatsukuriの技術(参照)を
取り入れるため、奴奈川姫を娶ったという説もありますが
これは、そのとおりであろうと思います


日本の三種の神器は
勾玉Magatama、鏡Kagami、剣 Tsurugi
とされていますが
古事記・日本書紀でもこの順に記載されています
これは記・紀を編纂させた天武天皇の
意思でもあったのだと思いますが
何故、勾玉が筆頭に記されているのか、興味を覚えます

また、三種の神器の原形は
福岡県前原市の弥生時代の遺跡
吉武高木遺跡から出土している甕棺に副葬されていた
翡翠製勾玉、銅鏡、銅剣(弥生時代前期末~中期初頭)
と言えると思いますが
三種の神器を副葬する習慣は
古墳時代まで続いていましたが
奈良時代の大化の改新で薄葬令が出されて以降
それが途絶えてしまいます
それでも、皇室では皇位の継承の際に
三種の神器が受け継がれているのは
謎といえば謎ですね・・


九州北部は古代にはサルタ国とも呼ばれていた
という説もあり、銅剣、銅鐸などを専門に作る集団が存在し
出雲の大国主はそこから輸入していたのではないか
という説もありますが(参照
このことも充分考えられます
ですから、出雲の大国主が
サルタ国に属する宗像から姫の一人を娶った
というのは、越後から奴奈川姫を娶って
玉の加工技術を採り入れたように
銅の加工技術を採り入れるために
多紀理姫命を娶ったのかもしれません
また、タギリビメのタギリは
滾るTagiruという意味もありますが
これは銅の精錬の様子を
表現しているのかもしれませんね
想像は膨らむばかりです・・



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