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2016年6月25日土曜日

高口定雄氏の興味深い説

以前、こちらのブログで紹介した助川砥についての投稿にコメントを頂いた
高口定雄氏(茨城県日立市在住)の砥石に関する独自の説を紹介しておきたいと思います。
たいへん興味深い内容で、古代史に関して多くの示唆が含まれています。

茨城県産大泉砥、栃木県産深沢砥と、地名の関係について情報提供させて頂きます。
2件の砥石産地は八溝山系でごく近傍ですので、同一地質と考えられます。この地にも、黒部関係地名「クロカタ」が付近にあります。カタカナ地名でして、漢字で書くと「黒方」だと推定します。
1.地名「クロカタ」 栃木県芳賀郡茂木町小貫小字クロカタ
< くろべ → くろぼ、くろぼう→ 黒方 → くろかた >の変化をしたと推定
「船木」地名と近接した事例が長崎県にあります。
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字黒方(読み くろかた)
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字船木ノ元
・長崎県五島市岐宿町岐宿小字舟木ノ山
なお、岐宿町から西へ約3kmの岐宿町白石は、遣唐使船が、中国に向けて出発する前に
停泊した「川原浦」の比定地とされています。

2.砥石産地と「クロカタ」の距離
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約3km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約9km

3.茨城県桜川市岩瀬小字北着にある長辺寺山古墳(5世紀後半、前方後円墳)との距離 
(1)深沢砥: 栃木県芳賀郡茂木町深沢上深沢 約7km
(2)大泉砥: 茨城県桜川市大泉          約5km

4.なお、長辺寺山古墳の前を流れる桜川は、最終的に茨城県土浦市の霞ヶ浦へ流れ込みますが、桜川河口部の茨城県土浦市烏山には、古墳時代前期の玉作工房である烏山遺跡があります。

5.深沢砥の栃木県芳賀郡茂木町深沢から南へ約3kmは、茨城県桜川市平沢ですが、小字「トットリ」があります。常識的には漢字で書くと「鳥取」となりますが、氏族伝承で鳥取と記載したのであって、元々の地名発祥時の意味は、「砥取」に従事する場所だったろうと推定します。氏族伝承や系図では良く見せたいので、脚色することがままあるようです。 
以上のことからも、古代人は意図を持って、金属鉱物資源を求めて移動していたのではないでしょうか。

私は京都地名研究会の所属し、弥生時代・古墳時代にさかのぼる地名を抽出することを趣味にしています。そういった観点から、京都府亀岡市と茨城県日立市で砥石、水晶、玉作に関わる地名の共通点があるようなので、少し述べてみたいと思います。
砥石は玉作にも使用され、亀岡市では弥生時代中期には砥石を採掘していたと推定されますが、一方、茨城県日立市は古墳時代前期からの採掘、流通と考古学者が公表しています。京都府亀岡市の砥取家さんが砥石採掘されている丸尾山から直線距離約10kmに、亀岡市畑野町千ケ畑小字クルビ谷があります。また畑野町広野では水晶を産出するとの記録もあります。クルビはクルベ、クロベと同じで漢字で書くと黒部とも書きます。
茨城県日立市の砥石山の約1km直近に、小字「黒目作」(くろめさく)がありますが、「くろべ」の「ベ」が「メ」に変化したものです。「余部」が「余目」に変化しているのと同じ理屈です。作は坂、谷、沢などの意味があります。
日立市の砥石山がある山地を多賀山地といいますが、水晶、滑石、蛇紋岩や金、銅を産出しました。実は「黒目作」と全く同じ地名が、日本でもう1ケ所あります。新潟県佐渡市畑野黒目作です。この近くに弥生時代中期の下畑玉作遺跡があり、玉作工房が発見されてますが、近くで瑪瑙(メノウ)原石も取れます。
茨城県域は、古墳時代初頭に一斉に五領式土器(埼玉県東松山市五領遺跡)に切り替わりますが、埼玉県東松山市の五領遺跡から約4kmは東松山町大黒部(おおくろべ)で、やはり「黒部」地名があります。大黒部から約1kmに古墳時代前期の反町遺跡があり、玉作工房が発見され、主に水晶工房でした。その水晶加工技法から、京都府京丹後市弥栄町の奈具岡遺跡から工人が移住してきたと考古学者は推定、報告しています。奈具岡遺跡から約1kmは京丹後市弥栄町黒部で、やはり「黒部」地名があります。

奈良県磯城郡田原本町黒部から約2km西には、古墳時代前期の十六面遺跡があり、玉作工房が発見されています。また、奈良県桜井市倉橋クロメから約5kmの上之庄遺跡は古墳時代前期の遺跡ですが、これも玉作工房が発見されています。
玉作で有名なのは出雲ですが、島根県松江市玉湯町玉造から約5kmに黒目山(東忌部町)があります。以上のように、資源を求めて古代人は移動し、地名も残していたようです。砥石も重要な資源だったと思います。京都市右京区梅ケ畑より弥生時代中期の銅鐸が出土していますが、梅ケ畑は仕上げ砥産地です。この砥石の資源により富を蓄え、銅鐸を入手したのではないかと勝手な想像をしています。歴史を語る重要なキーワードのひとつとして、「砥石」は重要ではないでしょうか。

三種の神器の素材である銅、鉄、玉(威信財原料、交易材料)の採掘・加工技術を持ち、強力な水運技術をもった人達が、古代ヤマト王権の重要な構成メンバーであったろうと推測します。
特に、縄文時代から蓄積した技術であるヒスイなどの玉が、中国・朝鮮半島との重要な交易材料だったのではないでしょうか。
因みに、「黒部」「黒目」地名が、北海道~鹿児島県まで、存在するので、海運力の優れた集団に関わる地名だったのではないかと考えます。具体的的には、中国の「呉」地域からの渡来人に関わると推測してます。実証はできませんが・・

1)北海道檜山郡江差町 小黒部(おぐろっぺ) 約8kmに笹山鉱山(銅 金)
2)鹿児島県大島郡徳之島町 魚津黒目塔(くろめとう)約2kmに下久志鉱山(銅)
また、沖縄県には「久米島」もあり、長崎県五島市には、黒部地名の変形<くろべ⇒くろぼ、くろぼう>である「黒方」地名もあり、朝鮮半島、中国本土との交易ルートを確保している様子が、地名からうかがえます。
前回記載した十六面遺跡には同じ地内に「穴虫(あなむし)」という小字地名が記録されています。同じ「穴虫」地名が、奈良県香芝市の二上山にあり、金剛砂産地です。このことから、金剛砂を玉作にも使用できたことが地名から推測されます。ただし、遺跡から金剛砂が出土しないと実証にはなりませんが・・。長野県域も古代玉作遺跡が発掘されています。そして、地名「穴虫」、「黒部」地名もあり、銅鐸も出土している先進的な地域です。弥生時代後期には「箱清水式土器」という土器が盛んに使用されましたが、土器の表面をベンガラ(酸化第2鉄)で赤く採色しており、鉄に強い集団がいたことが推測されます。地名「穴虫」がその背景を象徴していると感じます。
「穴虫」の語源は、あなぶき(穴吹)⇒穴伏⇒あなぶし⇒あなむし⇒穴虫と想定しており、朝鮮半島の「あな、あや、かや」地域からの鉄技術に強い渡来人に起因する地名ではないかと考えています。

福岡県については、糟屋郡宇美町を訪問したことがあります。宇美町は古代不彌国の候補地の一つということで興味があり、光正寺古墳、宇美八幡宮、宇美町郷土博物館なども見てきました。
真の目的は、宇美町に、黒部と同じである小字「黒坊」があることを知り、宇美町役場で、地図上の位置を確認特定する事でした。黒坊は黒部と同じです。特定はできたのですが、何故そこに黒部関連地名があるのか、なぜそこに光正寺古墳があるのかいまだによく理解できていません。光正寺古墳から直線距離で約6kmに、篠栗鉱山(銅山 糟屋郡篠栗町)があるのですが、山越えになりますし、篠栗鉱山に行くとすれば、多々良川から直接行った方が早い気がします。現在の仮説は、福岡県小郡市津古にも、黒坊地名があるので、「大宰府経由で有明海へ抜ける交通の要衝地を確保するため」と考えています。ところで、糟屋郡には、あと一カ所 銅山があります。
糟屋郡久山町久原に複数の鉱山があります。多々良川支流の久原川上流です。その多々良川が博多湾に流れでる河口部左岸に、筥崎八幡宮があり、近くの九州大学敷地から銅鐸か出土しています。九州大学北側の箱崎には、小字「コロメキ」があり、この小字地名は、「くろぶき(黒吹)」からの変化地名です。「くろ(黒)」を「ころ」と読む事例があり、「くろぶき→ころぶき→ころべき→ころめき」という変化を想定しています。「黒吹」という地名が、兵庫県朝来市生野町の生野銀山から約1kmの竹原野にあります。金、銀、銅の鉱物つながり地名ですね。黒吹、穴吹は、同時代の地名だと考えています。

兵庫県篠山市に関しては黒部関連地名調査で、訪問したことがあります。
・篠山市打坂 黒辺
・篠山市高倉 クルビ谷
しかし、金属鉱物資源との関係がよくわかりませんでした。疑問のままです。
丹波市春日町には、山中鉱山(所在地不明)という銅山があった記録があるので、あるいは篠山市側にも鉱脈が続いていた可能性があるのですが、記録が無いためデータとしては採用できません。ただ、弥生時代後期の「内場山墳丘墓」が、前記2件地名の中間部 篠山市下板井 にあるので、もう少し研究する必要を感じています。
篠山市が武庫川にもつながっていることは、福知山市と同様に、日本海と瀬戸内海を、弥生時代などの古代から往来できる地理的好条件があったと言えます。
丹波市山南町の阿草の南方に山中鉱山という銅鉱山があることがわかりました。味間と近接しています。篠山市火打岩付近には、珪石を産出する畑鉱山があったとのことなので、篠山市で水晶が取れた可能性も考えられます。近くの篠山市畑宮に、佐佐婆(ささば)神社があり、延喜式式内社で、江戸時代には「楽々庭明神」とも称していたとのことです。篠山市の「ささ」との関係を含めて、砂鉄を意味していそうで、気になります。
山陰地方の鳥取県西伯郡伯耆町宮原に、「楽々福神社」があり、「楽々(ささ)」とは砂鉄のことをいうそうです。この神社から約7KMの日野郡江府町吉原には、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。余談ですが、有名な楽々福神社としては、鳥取県日野郡日南町宮内にも楽々神社があり、この神社から北へ約7KMのところにも、やはり、小字「小黒目(こぐろめ)」があります。この小黒目から西へ約6KMの大字阿毘縁(あびれ)付近は砂鉄産地です。また同じく小黒目から北東へ約6KMの日南町印賀も砂鉄産地で、「印賀鋼」として有名なブランド鋼です。この印賀鋼は、昭和天皇が皇太子になられる時の儀式で用いた剣に採用されたとのことです。
それから、佐々婆神社が、篠山市以外にないかと調べていたところ、1件発見しました。なんと、京都府亀岡市猪倉に、篠葉神社(ささば)がありました。猪倉も砥石産地ですね。篠葉神社から
1.東側へ約4kmの鹿谷に、大谷鉱山(銅山)
2.北東へ、約4kmの北ノ庄に小字「穴虫」
3.南西へ約約8kmに、亀岡市畑野町千ヶ畑「クルビ谷」
  クルビ=黒部=黒辺
篠山市と似た地名があることが共通しています。

篠山市の佐々婆神社の御祭神である「志布美宿禰」について調べていましたら、京都府京丹後市にも、「志布美宿禰」と同じと思われる「志夫美宿禰」を祭神とする神社があり、付近の地名も篠山市と共通するので、ご紹介しておきたいと思います。
篠山市と京丹後市は古代において、金属鉱物資源と人の移動で、極めて関係性が高いことの証だと思います。
志布比神社: 京都府京丹後市丹後町大山
祭神 志夫美宿禰命(しぶみすくねのみこと)ほか
関連地名、遺跡
(1)約5km 京丹後市弥栄町 黒部
(2)約4km 京丹後市網野町掛津 穴虫
(3)約6km 京丹後市弥栄町 船木
(4)約6km 京丹後市弥栄町 鳥取
(5)約5km 京丹後市弥栄町 井辺(いのべ)←「いんべ」と読むこともできる
(6)約4km 京丹後市弥栄町国久 小字スイショヤマ←水晶山と思われる
(7)約6km 京丹後市弥栄町野中小字トイシダニ←砥石谷と思われる
(8)約6km 京丹後市弥栄町溝谷に奈具岡遺跡
弥生時代中期の玉作工房
水晶加工工程がわかる。鉄製品、砥石出土
(9)約12km 京丹後市峰山町荒山小字キノベ→篠山市東木之部、西木之部
なお、キノベは、吉備に同じと考えられます。キビ→キベ→連帯助詞「の」を追加し「キノベ」と変化。以上の地名はまた、奈良県にもあります。

篠山市下板井の弥生時代後期の内場山墳丘墓群出土の土器棺墓には四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が供えられていました。
「四国」と大字「東木之部、西木之部(きのべ)」の二つのキーワードから、私は、遠く離れた四国の徳島県徳島市国府町矢野の気延山(きのべやま)をすぐに思い出します。気延山は蛇紋岩産地で、蛇紋岩は玉作にも使用されます。気延山麓の国府町矢野には、玉作工房が出土した弥生時代後期の矢野遺跡があります。
<矢野遺跡>徳島市国府町矢野
1.蛇紋岩製勾玉未製品出土した玉作工房
2.古墳時代前期の、鉄器を加工した鍛冶工房から、壺に入れた砂鉄が出土
3.約6kmにはザクロ石産地の眉山(びざん)ザクロ石の細かいものが金剛砂→金剛砂は砥材。
キノベは、吉備に同じと考えてます。キビ→キベ→連体助詞「ノ」を追加しキノベと変化したと推定。
砂鉄出土に大きな注意を払いたいところです。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」は弥生時代の遺跡ですが、四国や山陰地方の影響を強く受けた土器が出土しているとのことです。鳥取県も山陰地方ですので、前記の日南町と篠山市との関係があるかもしれませんね。四国地方との関係といえば、地名で、次のことを思い出します。篠山市鷲尾に小字「穴虫(あなむし)」があります。これは、以前お話したように、「穴吹」から変化した地名です。四国にも「穴吹」地名があります。
徳島県美馬市穴吹町の「穴吹」ですが、東側に隣接するのは、吉野川市山川町で、古代忌部(いんべ)郷で銅鉱山が多いところです。なお、出雲玉作で有名な島根県玉湯町玉造の東側は、西忌部町、東忌部町です。東忌部町には、「黒目山」という山があります。
このように、兵庫県篠山市、鳥取県日野郡日南町、島根県松江市、徳島県美馬市・吉野川市で、似たような地名があることがわかります。
篠山市下板井の「内場山弥生墳丘墓」から、四国や山陰の影響を強く受けた土器が出土することと、地名、鉱物が矛盾なく、相関しているように見えます。
以下は、私なりに興味を覚える同様な地名と、共通性を調べた結果の一部です。
(1)兵庫県養父市八鹿町宿南小字「ソチ口」(読み ソチクチ)
約6km兵庫県豊岡市日高町久田谷より銅鐸出土、弥生時代
約6km日高町水上は、砥石産地 「水上砥」
約8km日高町八代はヒスイ産地
約11km日高町羽尻に但馬三方鉱山 金、銀、銅、亜鉛、鉛
約4km日高町久斗に小字「クルビ」←クルビは黒部に同一
約6km日高町伊府(読み イブ)←伊福の変形地名

(2)新潟県柏崎市「曽地」(読み ソチ)
約2KM柏崎市吉井に弥生時代中期後半の玉作工房「下谷地遺跡」
菅玉製法は佐渡市の新穂遺跡とおなじ技法を採用。
佐渡市との交流が想定される
約3km柏崎市西谷に弥生時代後期の玉作工房「西谷遺跡」
約6km柏崎市西山町黒部←地名「黒部」
約6km柏崎市西山町二田に物部神社←二田物部

(3)愛知県豊田市足助町「曽地坂」(読み ソウヂサカ)
現在は小字消失
約9km豊田市手呂町より銅鐸出土 弥生時代
約8km豊田市力石町に小字「黒見(くろみ)」←黒部に同じ
約6km豊田市東広瀬町に小字「船木(ふなぎ)」←船木、舟木は
黒部と良く一緒にでる地名
*舟木と黒部の地名共出関係は、谷川健一、田中巽の有名な説があります。
私もまったく同感です。

3.長野県中野市柳沢出土の銅鐸(弥生時代中期後半)に関連して発見報道当時、
現地に行き、見学と地名調査を行いました。
出土地から約6Kmは、山岸小字黒ボウ←「黒ボウ」は黒部の変形。 
黒坊とも記されたりする
約8km長野県下高井郡木島平村往郷に根塚遺跡 西暦100年頃
韓国・加悦系の渦巻把手鉄剣出土
約8km長野県中野市栗林に栗林遺跡 弥生時代中期の標識土器出土
約9km長野県中野市日野は、かつて銅鉱産出地
約10km長野県中野市間山に間山遺跡 弥生時代後期
愛知県豊川市を標識とする東海欠山式土器出土
石川県金沢市月影町を標識とする北陸月影式土器出土
愛知県岩倉市丹陽町伝法寺を標識とする元屋敷系土器出土
間山遺跡から約5kmは長野県上高井郡高山村黒部←黒部地名
黒部一帯は弥生時代後期の土器出土
間山遺跡から約12kmは 長野県須坂市八町 須坂鉱山で銅を産出した
間山遺跡から約14kmは、長野市小島 小島境遺跡 古墳時代前期の玉作工房
緑色凝灰岩・鉄石英などの未製品と砥石ほか出土

4.以下は私の仮説です。地名「黒部」を使用するグループは、水運に長け、金属鉱物資源全般の知識、技術を持っているように見受けられます。中国の呉国あるいは楚国からの渡来した人達がいたと考えています。そして、中国、朝鮮半島を往来し、交易をすることで古代ヤマト国内で有力なメンバーにのし上がっていったのでしょう。
卑弥呼は巫女だったと思いますが、中国のなかで巫女が最も盛んだったのは、古代中国の「楚」です。楚は紀元前223年に滅びます。滅びた時に、日本に渡来した人たちが居たのではないかと。紀元前223年頃は、日本は弥生時代中期です。楚は「清楚」「四面楚歌」などの用語使用がありますが、「楚」にはバラの花の意味もあります。
楚の中心地は、現在の湖南省、湖北省付近だったようですが、この地域には、ミャオ族が多く住み、雲南省、べベトナム、ラオス、タイにも分布しています。ドンソン文化を共有しているようです。また、長らく文字を持たなかったといわれています。余談ですが、ミャオ族の人達は、自分達の先祖は、兵主神「蚩尤・しゆう」だと主張しています。

大阪府茨木市は銅鐸鋳型を出土していますが、「いばら」+「き: 場所を意味する」と考えています。茨城県も、金属鉱物資源を求めて来た人達が、同じ「いばら+き」の地名を使うグループだったのでしょう。バラの花の三角のトゲが、中国ドンソン文化の銅鼓にも採用され、日本弥生時代の銅鐸、古墳時代初期の三角縁心神獣鏡にも継続して採用されている背景は、中国の古代「楚」の人たちが渡来したからだと思われるのです。


2015年1月19日月曜日

中世たたら実験操業の様子 新見の銑押し製鉄

岡山県新見市で毎年行われている
中世たたら実験操業で、昨年2014年
操業以来8年目にして銑鉄の生成に成功したということです
関係者の仲田芳人様から画像の提供を頂きましたので
その様子をお伝えしたいと思います

以下は仲田芳人様による報告文から引用したものです

新見市は中世の時代、京都・東寺の荘園として栄え
新見荘の年貢は鉄、和紙、漆などでした
25年前から中世の歴史を生かしたまちづくりを進めていて
その一環として「中世たたら製鉄」の再現操業が
2006年から市内正田の操業施設で行われています


今年2014年の操業は10月25、26日に行われました
縦横1m×1.7m、高さ1.25mの中世の炉を築き
夕方6時から翌日の午後3時半まで昼夜操業しました




今回の操業で使った砂鉄は765.8kg、木炭1153kg
出来た銑鉄(ずく)は約400kgと推定されています


4台の手押しふいごは、市内外の300人が交代で
「押して、引いて」の掛け声に合わせて押し、炉に風を送り続けました
新見の「たたら」製鉄は、「ずく押し」と呼ばれる銑鉄(鋳物鉄)造りです
「ずく押し」は明治時代半ば以降途絶えていた技術ですが
ついに今回、「ずく押し」を日本で初めて成功させ、快挙を達成しました




中世の炉を再現しての操業は全国でも例がありません
全国各地の企業、大学、研究者、一般の方々等
たくさんの人が操業を支え、活気があふれています










26日午前10時ごろ、炉底部のノロを取り除くと


ドロドロと「流れ銑(ずく)」が流れ出した
まるでおろちのようにも見え、感動的な瞬間でした












16年前から新見の「たた」らを指導されてきた
国選定保存技術保持者の木原明さん(奥出雲町)は
「炉の構造と砂鉄の配合を変え、8年間の試行錯誤の成果
炉はまだ元気で100%大成功」 と話されました

昔の会津刃物産地(福島県)では所によっては
自家用の小精錬所で銑(ずく)を吹いていたということが
堤章氏の著書 「会津の刃物鍛冶」では説明されていますが
今回備中新見(岡山県)で出来た銑で
どのような刃物が作られるのか興味が湧くところであります


2014年10月17日金曜日

水鉛 そして正倉院の木工品


兵庫県多可町にある
私設の石の博物館
「松内ミネラルコレクション」
青いシャツの御方が
館長の松内茂氏


個人のコレクションとは
思えない充実した内容に
驚きました
以下、ごく一部では
ありますが、個人的に
興味を惹かれたものを
紹介します


これは燐灰石

そして球顆流紋岩

この模様の美しさにしばし
見とれてしまいました

私が特に注目したのは
輝水鉛鉱
(モリブデナイトMoS2)で
このMoS2から硫黄分(S2)を
取り除いたものが
モリブデン(Mo)です
モリブデンは微量を
鋼に添加することにより
強靭な鋼を得ることが
できます(参照
このことは以前ブログでも
少し述べましたが(参照
この輝水鉛鉱が

兵庫県の出石いずし町や

丹波市山南さんなん

そして宍粟しそう市でも
採掘されていたのです

木工の世界では日本で
台鉋が使われ始めたのは
室町時代中頃から
ということになって
いるようですが(参照
これは歴史資料として
台鉋が確認されている
ということが
前提となっています
ところが、正倉院に
所蔵されている
木工品や楽器を見ると
参照
台鉋を使わなければ
作ることが不可能と
思われるものが
多く確認されるのです
参照

これはBryan Sentence
という研究家の叙述を
日本語に訳され
出版されたものですが
この中で、鉋は
古代ギリシャで発明され
ローマ時代に現代のものと
よく似た形に改良されたと
考えられている
としています

また、それは
かなり早い段階に
日本にもたらされたことは
充分にあり得ることだと
思われるのです

以下、正倉院の木工品を
少し紹介しておきます








これらの画像は紫紅社から
出版されている
から部分転載したものです
これらは状況証拠とも言え
木材としては加工が困難な
紫檀や黒檀など
これらを加工する刃物(鋼)
にはかなりの強靭さが必要で
特に台鉋のように刃先で
材料の表面を擦るものは
炭素鋼の刃ではかなり
困難を伴います
そういうことなので
現在ではハイス鋼などの
特殊鋼の刃を持った
鉋を使いますが
このハイス鋼には
先に紹介したモリブデンが
炭素鋼に添加されている
のですですから
正倉院に所蔵されている
木工品が作られた時代
(8世紀頃)の刃物にも
現在の特殊鋼のような
合金鋼があった可能性は
全くなかったとは
言えないのでは
ないでしょうか

鉄の歴史は5000年ほどはある
とされていますが(参照
その長い歴史の中で合金鋼が
作られるようになったのが
ここ100年ほどというのは考え難いと思うのです。
たとえば、日本刀に
関して言えば
日本刀は鎌倉時代に
最高レベルに達し
その後、現在に至るまで
その域に達することは
出来ていないとされています
このように
時代が古い方が技術が
優れていることもあるので
鋼に関してもその
可能性は充分にあるような
気がするのです

2011年6月24日金曜日

出口王仁三郎の気になる発言 水鉛 モリブデン

以前紹介した、今昔物語の毘沙門天に因んだ話(参照 参照)に関することを、ちょっと調べているのですが、そうすると、3月15日に述べた福岡県春日市の弥生時代の遺跡と兵庫県芦屋市の会下山遺跡に繋がっていき、またそれは芋蔓式に、これも以前のブログで述べた古代の製鉄に繋がっていくのです。そういうことなので、もう一度六甲山系の古代と、そこから西に繋がる印南山系の古代を洗い直しているのですが、そうすると、どうしてもさらに西の備前や吉備(岡山県)にも目を向けざるを得ないのです・・
そういうことなので、新たに手に入れた資料を含め、いろいろと目を通しているのですが、おや?と思うことがあったのです・・それは岡山県赤磐市にある熊山の石組遺跡に関する資料なのですが、興味深いことに、それは昭和の初めの大本教の研修用資料として発刊されているのです。大本教はここ丹波の地、とくに綾部市と亀岡市が因縁が深いのですが、他にも昨年5月に続けてこのブログで述べた九鬼家とも少なからぬ因縁があるのです。
このことは今回は深く追及はしませんが、大本の二代目教祖である出口王仁三郎でぐちおにさぶろうはスサノオのことをかなり意識していたようで、昭和5年には有志と連れだって熊山に登り、謎の石組を検分し、結果、石組はスサノオの陵墓であると結論付けているのです。
そして、それに因んで資料には王仁三郎の「天目一神と長船おさふね」という文が載せられているのですが、それを紹介しておこうと思うのです。
以下・・

「日本刀が世界に冠絶するゆえんは、モリブデン(水鉛すいえん)を混入して鍛える秘法をはやくから知っておったからである。明治時代中頃からドイツあたりでこの秘密を発見して、精巧なる軍器を造りだしているが、日本においても秘密中の秘密として、深山に入って造ったので、天狗に教わったなどと称し、決して他人に教えなかったものである。鉄も雲(出雲いづも・島根県)、因(因幡いなば・鳥取県東部)、伯(伯耆ほうき・鳥取県西部)の三国に限られたもので、このほかから出たものでは、たとえモリブデンを混入しても、そう立派なものは出来ない。この鉄(雲・因・伯 三国の鉄)があり、水鉛(モリブデン)があるので細矛千足くわしほこちたるの国の名に背そむかぬ逸品が出来たのである。素尊斬蛇すそんざんじゃ(素尊命による八岐大蛇・やまたのおろち退治)十握とつかの剱つるぎは長船おさふね(岡山県の刀の産地)ではないかと聞くが、それは違う。前言うとおり、雲、因、伯三国のうちに産する鉄でなければならないのだから、これは長船で鍛えられたものではない。」

鉄(鋼はがね)にモリブデンを加えるということは
今で言う特殊鋼ということになります


この神社は上の文とは関係がありませんが
先日訪れた丹波市山南町谷川にある
熊野神社


そして謎の神社(地図参照
この神社は立ち入り禁止になっていて
金網が廻らされており
神社名を確認できませんでした
鳥居の字も風化して判読できず・・
赤い鳥居なので、海人(あま)産鉄系神社ではあります



2010年3月16日火曜日

古代の製鉄 その17

チグリス・ユーフラテス川流域の古代メソポタミア地域とその周辺には、最古の鉄が発見されているヒッタイトをはじめ、青銅の発祥地とされるシュメール、また金属工芸に長けていたスキタイといった、人類史上重要な地が連なっています。
それらの文化・文明が世界各地に広まっていくのですが、それは、そのような技術をもった民族が移動していった証拠でもあるわけです。その際、その民族に伝わる民話も一緒に伝承されていったということになります。その流れは、メソポタミアから東に進む場合と南に進む場合があり、東に進めば陸のシルクロードとして西アジアから中国大陸を通り、日本の北海道、あるいは九州に及びます。南に進めば海のシルクロードとしてインド大陸から海路で東南アジアを経由し、一方は中国大陸、朝鮮半島を通過して九州北部に、一方は南西諸島から沖縄を通って九州南部に入るルートがあったようです。どちらにしても文化の吹き溜りとされる日本列島に流れ着くわけです。
一例をあげれば、旧約聖書に登場するソロモン王(古代イスラエル王・在位紀元前965年~926年)がタルシン船団を組んで東南アジアから中国大陸にまで勢力を伸ばしていたということは史実だったようで、その影響は日本にまで及んでいたのは確実のようです。途中、マレー半島にも植民地をつくりますが、その地に伝承されていた「ワニだまし」の民話が、出雲神話の「因幡の白兎」に変化して伝わっているということは、昭和の初めから歴史学者により指摘されていることです。その他、東南アジアから伝わったとされる説話には、浦島伝説、海幸・山幸伝説など多く存在します。
そして、当然のことながら羽衣伝説や七夕伝説もそうなのです。
そうした伝播には当然製鉄技術も含まれているわけで、鉄の原料となる鉄鉱石や砂鉄あるいは湖沼鉄を採集する方法も各地に適したものが考え出されていったことも想像できるわけです。
湖沼鉄についてはこれまで日本ではほとんど研究なされていませんでしたが、ここ数年、鉄に関する本などで紹介されるようになってきています(参照)。
また、実際に為された実験も公開されています(参照)。





2010年3月15日月曜日

古代の製鉄 その16

川崎真治氏は、ワカタケルのワカは古代日本語で白鳥、あるいは鶴の意味があるとしています。つまりワカタケルは、白鳥をトーテムとした民族の神に選ばれた王ということになります。川崎説によると、その鶴をトーテムとした民族の源流はメソポタミアにあるというのです。氏の著書の一つに「日本語の発祥地はメソポタミア」というのがありますが、その内容は、歴史言語学のルールに則って古代メソポタミアの言葉と日本語は繋がっているというものです。
以前、随想で大野晋(すすむ)氏の説を紹介したことがあります(参照)。そこで紹介した、弥生時代にインド南東部から日本列島に移住してきた民族がもたらした、タミル語の源流はメソポタミアにあるとも云えるわけです。
「古代の製鉄その12その13」で述べた羽衣伝説も日本各地にありますが、これも発祥地はメソポタミアとされています。もう一つ例を挙げれば、七夕伝説もそうなのです。これら民間伝承に関する研究としては、水野祐氏や君島久子氏の優れたものがありますが、それらに目を通してみても、世界各地に伝わる羽衣伝説は、メソポタミアを中心に波紋のように広がっているということを確認できるのです。






2010年2月22日月曜日

古代の製鉄 その15

下に紹介した画像は、埼玉県にある崎玉(さきたま)稲荷山古墳から出土した鉄剣の一部です。
刀身の裏・表には金象嵌の文字が施されています。この文字列は日本の古墳時代を知る上で
貴重な資料となっていますが、文字とその解釈については様々な説があります。
一般的な解釈こちらのサイトが参考になると思いますので紹介しておきます。
まず、年代の手掛かりとなる「辛亥(しんがい・かのと い)年」ですが、これには西暦471年説と、
その一回り(60年)後の531年説があります。定説となっているのは471年ですが、この説は
鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵大王(わかたける だいおう)」が雄略天皇と同一人物であるという説が元となっているものです。この説には異論ももちろん出されていますが、以前、
銅鏡文字解読の際に大きな示唆を受けた歴史言語学者の川崎真治氏の説に目を通してみると、獲加多支鹵=雄略天皇に納得せざるを得ない感があります。
ワカタケルという名は、古事記・日本書紀にも登場します。まず孝霊天皇記に「若建(わかたける)吉備津日子命」、孝霊天皇紀の方には「稚武(わかたける)彦命」。景行天皇記に
「若建吉備津日子」、同じく景行記に「若建王」、景行紀には「稚武王」 と「稚武彦王」。
次に雄略天皇記に「大長谷若建命」、雄略紀には大泊瀬幼武(わかたける)天皇とあります。
タケルという名は前回述べた日本武尊(やまとたけるのみこと)にも含まれていますし、日本武尊(古事記では倭健命)が出雲で討ったとされる出雲武もタケルです。ということはタケルという名には何か特別な意味がありそうです。川崎真治説では古代セム族の習俗で、神に選ばれた王のことだとされていて、この王は頭飾りを冠していたということです。
ということは古代中東の習俗が日本にまで及んでいたということになりますが、川崎説によると、
ワカタケルのワカもそうだということになるのです。



2010年2月21日日曜日

古代の製鉄 その14

前回述べたように、古代播磨国志相郡岩鍋(現在の宍粟市千種町岩野邊(しそうし ちくさちょう いわなべ))に製鉄技術を伝えた金屋子神は、白鷺に乗って出雲国(いずものくに・島根県)に飛び去っていったとされています。ここでおもしろい符合があるのですが、九州から東征していく途中、出雲健(たける)討伐のため出雲へ立ち寄ったことのある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、その後、死に際して白鳥になり天に昇ったと日本書紀には記されています。
古事記では八尋白智鳥
(やひろしろちどり)となっていますが、これは白鳥よりもさらに大きなコウノトリではないかという説もあります。ところが、日本武尊が祭られている神社に白鷺神社というのがあるのです。この神社は栃木県にありますが、神社の由緒によると、神託により建てられたもののようですから、出雲とは直接的には関係はなさそうです。しかし、何故白鳥ではなく白鷺という神社名になったのでしょうか。
一方、出雲国(島根県)には弥栄神社(やえさか)という神社があり、ここでは鷺舞という神事が行われています(参照)。





2010年1月26日火曜日

古代の製鉄 その13

前回、羽衣伝説と白鳥について述べましたが、この白鳥は「はくちょう」ではなく「しらとり」で、鳥の種類を云うのではなく、白い鳥全般を指しているものです。ですから、それはサギやツルでもあり、文字どうりハクチョウでもある得ることになります。真白ではありませんがコウノトリも含まれるかもしれません。
それを裏付けるように、例えば、製鉄技術に関した文献に「鉄山必要記事」というものがあるのですが、この中で金屋子神(かなやごのかみ)の由来が述べられています。そこでは、播磨国志相郡岩鍋(現在の宍粟市千種町岩野邊)にある桂(かつら)の木に、高天原(たかまがはら)より神が降り、人々が驚いて「如何なる神ぞ」と問うと、神託で、「我は是れ、作金者金屋子の神なり」と答え、その地に製鉄技術を伝えます。その後、「我は西の方を守る神なれば、むべ住むところあらん」と云って、白鷺に乗り西の国、 出雲国野義郡黒田の奥非田という所に移ったということが述べられています。ところが、地元千種の言い伝えでは、白鷺ではなく鶴に乗って去っていったとなっているのです。




2010年1月4日月曜日

古代の製鉄 その12

兵庫県西脇市にある天目一神社近くを流れている加古川の10kmほど下流には、先日紹介した手焙り形土器が出土している加東市があります。また天目一神社の近辺には、鍛冶という名の付いた地名や、鉄を象徴する地名である黒田庄という所があります。それから、古代の製鉄遺跡がある場所の近くによく見られる牧野という地名もあるのです。その北隣の山南町には牧山という山と神社があり、近くには牧山川が流れています。因みに、他にマキノという地名は、滋賀県の琵琶湖西岸にもあり、その地には古代製鉄遺跡もあります(地図参照)。興味深いことは、参照地図に印している余呉湖がある伊香郡(いかぐん)には羽衣(はごろも)伝説があるのですが、江戸時代中頃の伴信友は著書・神名帳考証の「伊香具(いかこの)神社」の項で、当地に伝わる不思議な話を取り上げています。
そこでは、古老の云い伝えとして、余呉湖の南側の入江に白鳥に乗った女性が天から八人舞い降り、この様子を見ていた男が、白鳥の形が奇異だったので神人ではないかと思い、近くに行ってみると天女(てんにょ)であった。その男はひそかに白い犬をけしかけて一人の天女の衣を盗ませた・・云々。ということを記しているのです。
白鳥というのは日本の古代史にはよく登場し、兵庫県の播磨地方、優秀な鉄の産地として知られている千種(ちくさ)には、この地の製鉄技術は出雲(いずも)から白鳥に乗ってやってきた金屋子神によってもたらされたという言い伝えがあります。
古事記・日本書紀に記されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は草薙剣(クサナギノツルギ)を持っていましたが、この日本武尊が死後白鳥となって天に飛び去ったという記述は見逃せません。
こうしてみると、白鳥というのは産鉄民族の象徴であったかのようです・・


インドのインダス文明の遺跡から
発見された神官とされる像

2009年12月29日火曜日

古代の製鉄 その11

兵庫県西脇市にある
天目一(あめのまひとつ)神社に
足を運びました

天目一はこれまで述べてきた
天目一箇と同義ですから
以下このように書き表します

社伝によると、この神社は
元々ここにあったのではなく
大正時代に、有識者による判断で
この地に建てられた
ということですですが
この地域に天目一箇神社が
あったのは
延喜式内社として
記録されているので
間違いはなさそうです 参照

石碑に併記されている平野神社は
この地の鎮守だったので
合祀したということです

たいへん立派な社殿が
建てられています

建物の装飾に
このように象を神像化
したものが付けられています
このような例は
ここ丹波地方の神社でも
よく見られます

たとえば、これは
篠山川沿い(篠山市)の
とある八幡(はちまん)神社ですが

この社殿にも同じ装飾が
施されています

社殿の脇にはこのような
レリーフも見られます
これは明らかにインドの
影響だと思われます

因みにこれは
古代インド(紀元前3世紀頃)
の建造物の柱の装飾ですが
よく似たモチーフが
用いられています

この神社の社殿には
このような鳥も
付けられています
一見ウズラのようにも
見えますが
八幡神社なので
鳩(はと)だと思われます

以前、地元の人に
なぜこのように象の装飾や
ハトが付けられているのか
尋ねたことがありますが
何故だか知らないということでした
このような例は以前、随想で紹介したことがありますが
参照(七段目)

地元の人たちは
昔からの言い伝えで
やっているだけ、という風習に
以外に古くから伝わっていることがあるのです
他には、例えば篠山の
ある地域では
葬式の出棺の際に
亡くなった人が使っていた
茶碗を割るという風習がありますが
このようなことは丹波地域では
弥生時代から行われていたことが
分かっています