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2021年1月30日土曜日

本居宣長と平曲

 小林秀雄の著書「本居宣長」を読み直していて、今回は本居宣長の日記に目を通しながら読んでいる

本居宣長の肖像画

江戸時代中頃の本居宣長は
13歳(1743年)から
日記を書き始め
72歳で亡くなる15日前まで
書いていて、それが
ほとんど残っているらしく
驚いてしまった

その日記の宝暦六年
宣長26歳のとき
医術を修めるため
京都遊学中の
正月九日の日記は
たいへん興味深い
この日夜山田孟明宅を訪れ
しめやかに物語など聞いた後
平家を語ったり
酒を呑んだりしながら
夜更けまで過ごしたという
平家を語る、とは
平家琵琶を弾きながら
平家物語を語ることで
平曲は江戸時代を通して
武士や町人の嗜みの
一つであったようですが
堅苦しいものではなく
このように酒を呑みながら
楽しむ場合もあったようです

因みに、これは拙作の平家琵琶

このページは同じ年の
正月27日、安村検校の箏
そして藤村検校の三味線を
聞いたことが書かれてあります

そしてこれは宣長65歳
寛政七年三月24日の日記
伊勢(三重県)松坂での
出来事と思われます
旧暦ですから現在の4月頃
夕立のように
雨が降り始め
雷鳴を伴った大雨になり
大きな雹(ひょう)が
降ったと書かれています
宣長さん、よほど驚いたのか
雹の大きさを実物大で
描いています
ここ丹波篠山に降った雹

2020年5月30日土曜日

琵琶の撥と撥面の絵について


鎌倉時代初めに書かれた
順徳天皇が新たに琵琶を
作ることになり
その撥面に何を描くか
という御前会議の様子
いろいろと興味深い

この部分は
琵琶の名器玄上
genjo(玄象)の
撥面の絵についての説明

これは玄上ではありませんが
正倉院に所蔵されている琵琶

撥面の絵は
左に傾けて演奏するときに
絵の天地が正しくなるように
描かれている



これは拙作の平家琵琶

こちらも鎌倉時代の初めに
書かれたとされる古事談から
村上天皇が琵琶の名器
玄上を弾いた記録
水牛の角の撥が使われた
というのは興味深い

こちらは正倉院に
所蔵されている
紫檀製の琵琶の撥


これは象牙を染めて
模様が彫られてた
撥鏤bachiru 製の撥

先端が弦で磨られて
白い象牙の地が見えている

拙作の平家琵琶の撥
通常、琵琶の撥は
ツゲ材で作られる

また古今著聞集には
琵琶の名器
玄象についての逸話も
取り上げられています
玄象が紛失し公家が驚いて
陰陽師に秘法を命じ
27日間修すると
朱雀門(南門)から
琵琶の首に縄を付けた
状態で降りてきた・・
こういったことは
だいたい鬼の仕業と
いうことになるのですね


こんな感じでしょうか・・


2020年3月1日日曜日

前川多仁展と平家琵琶


丹波篠山出身のロウケツ染作家
前川多仁Kazuhito氏の作品展が
東京青山の「白白庵」で開催されます
3月7日~18日

3月7日(土) 13:00-18:00 は
呈茶会が行われ
乙亥会・代表の鈴木 宗景さんによる
お茶の振る舞いと
宗偏流による平家琵琶が
奏されるそうです

その際、拙作の平家琵琶
銘・相応」と

茶杓が使われるということです
たいへん光栄なことです


2016年12月17日土曜日

不思議な符号 青森 善知鳥神社と宗像三女神

先日紹介した、青森県に鎮座する善知鳥神社(うとう神社)
祭神は、多紀理毘売命:タギリビメノミコト
市寸嶋比売命:イツキシマヒメノミコト
多岐都比売命:タギツヒメノミコト
となっていて、福岡県北部の宗像市にある
宗像大社の祭神と同じ(表記は違いますが)
宗像三女神となっています

宗像三女神の中の市杵島姫命は後にインドの
サラスヴァティーと習合して弁才天となりますが
広島に鎮座する厳島神社の祭神でもあります

イチキシマとイツクシマ
おそらく厳島神社の
イツクシマは
市杵島姫命から転じているものと思われます
厳島神社は平家物語とも深い関わりがありますが
私は何よりも、平清盛が寄進した平家納経に思いが至ります
上の画像は琵琶のルーツとされる
ペルシャのバルバッド(HP参照下さい:11段目)


宗像三女神は「アマテラス・天照大神」と「スサノオ・素戔男尊」の
誓約ukeiによって生まれたとされていますが
その真意については未だ謎のようです

11日に紹介した月読命・ツクヨミノミコトは
イザナギ・伊弉諾命が黄泉の国から戻り
禊misogiを行った際に右目を洗ったときに生まれていますが
同じときに禊を行った瀬の深いところから
底筒男命(そこつつのおのみこと)が生まれ
瀬の流れの中で中筒男命(なかつつのおのみこと)が
瀬の水面minamoで表筒男命(うわつつのおのみこと)が生まれ
この三柱の神は住吉三神と呼ばれています
同じ神が禊を行ったときに生まれた
宗像三女神と住吉三神(男神)
どちらも海の神であるところが興味深いのですが
他に同様の神に八幡三神というのがあります
応神天皇、比売大神、神功皇后
これらも海人ama系ですね


この地図は、北から善知鳥神社、砂沢遺跡、胸肩神社
そして太平洋側にある白髭神社を印したものです
善知鳥神社の祭神は宗像三女神
砂沢遺跡では遠賀川式土器と水田跡が発見されていて
白髭神社はサルタヒコと深い関係があります



これは福岡県北部の地図ですが
宗像大社と遠賀川の位置関係は
このようになっていて
遠賀川式土器が盛んに作られていた
弥生時代前期に、この地域と
同じ民族が青森県の砂沢遺跡周辺にも
住んでいたのでしょうか・・

一般的な歴史観では、福岡県北部の
遠賀川式土器と水田耕作が
徐々に東に伝わっていったとされていますが
青森県の砂沢遺跡は関東よりも早く
遠賀川式土器と水田耕作が伝わっているというのは
どういうことでしょうか・・

これまで紹介した宗像、住吉は海人ama系の民族で
宗像水軍、住吉水軍といった
軍事力を持った民族でもありました
水軍という呼び方は江戸時代からのもので
それまでは海賊と呼ばれていたそうですが
海人系の水軍は他には安曇azumi水軍、
熊野水軍が知られています
(時代が下ると、村上水軍、九鬼水軍などが登場します)
これらが後の時代、たとえば4世紀頃と思われる
神功皇后の三韓征伐
7世紀の白村江の戦いなどで活躍したとされるのは
よく知られているところです

このように、海人系の民族は海の航行に長けていたので
縄文時代の末から弥生時代にかけて
日本列島にやってきた海人民族が
福岡県北部や青森県北部に
ほぼ同時に上陸し、定着していった
ということも充分に有り得るのではないでしょうか
(日本海を九州北部から東北に流れる対馬海流は
青森県にも及んでいます:参照

先に述べた神功皇后の存在は否定する説もありますが
私は史実だと思っています
また、白村江の戦いは日本書紀では
日本の被害や負け方をそれほど重大視していませんが
その後の日本の様子(天智朝以降)から推測すると
日本は完全に唐に征服された
と言った方がふさわしいのでは・・と思ってしまいます


白村江の戦いでは、日本側(倭国・百済連合)の敗因は
日本水軍の戦略・戦術ミスが原因とも言われていますが
それほど水軍の役割が大きかったようです
それは戦場の中心が河口の入り江であったこともあるのでしょう
これらのことでは、後の時代の源・平による
壇ノ浦の合戦を連想してしまうのですが
源氏、平氏は白村江の戦いの際に
新羅側の水軍として活躍した
新羅水軍の末裔ということも言われています



話を宗像三女神に戻しますが
古事記・日本書紀では
宗像三女神のなかの
多紀理姫命は
出雲(島根県)の大国主・オオクニヌと結婚をした
ということになっています
そうすると、アマテラスとスサノオの時代とは
合わないことになりますが
このあたりに、古事記・日本書紀を編纂させた
天武天皇の意図があるようにも思えます
出雲からは多くの銅鐸が出土しているので
明らかに銅鐸民族の地ですが
古事記・日本書紀では、この銅鐸については
一字も記載がありません

銅鐸は弥生時代の象徴でもあります
銅鐸民族である出雲の主である大国主は
「国譲りをした」ということにさせられている
ということは、大国主の時代は弥生時代の最後の時期
ということになり(3世紀~4世紀頃)、その次の時代である
古墳時代を築いた民族によって征服された
と理解した方が自然であることは明白と思われるのです

では、その大国主がなぜ
宗像三女神の一人と
結婚をした、ということになっているのか・・
また、大国主は越後(新潟県)の
奴奈川姫も娶っています
奴奈川姫は翡翠・ヒスイの産地の女神でもあるので
(新潟県の糸魚川には縄文時代のヒスイ製勾玉や
ヒスイ加工跡も発見されています:参照
大国主は出雲に玉造tamatsukuriの技術(参照)を
取り入れるため、奴奈川姫を娶ったという説もありますが
これは、そのとおりであろうと思います

日本の三種の神器は
勾玉magatama、鏡kagami、剣 tsurugi
とされていますが
古事記・日本書紀でもこの順に記載されています
これは記・紀を編纂させた天武天皇の
意思でもあったのだと思いますが
何故、勾玉が筆頭に記されているのか、興味を覚えます

また、三種の神器の原形は
福岡県前原市の弥生時代の遺跡
吉武高木遺跡から出土している甕棺に副葬されていた
翡翠製勾玉、銅鏡、銅剣(弥生時代前期末~中期初頭)
と言えると思いますが
三種の神器を副葬する習慣は
古墳時代まで続いていましたが
奈良時代の大化の改新で薄葬令が出されて以降
それが途絶えてしまいます
それでも、皇室では皇位の継承の際に
三種の神器が受け継がれているのは
謎といえば謎ですね・・

九州北部は古代にはサルタ国とも呼ばれていた
という説もあり、銅剣、銅鐸などを専門に作る集団が存在し
出雲の大国主はそこから輸入していたのではないか
という説もありますが(参照
このことも充分考えられます
ですから、出雲の大国主が
サルタ国に属する宗像から姫の一人を娶った
というのは、越後から奴奈川姫を娶って
玉の加工技術を採り入れたように
銅の加工技術を採り入れるために
多紀理姫命を娶ったのかもしれません
また、タギリビメのタギリは
滾るtagiruという意味もありますが
これは銅の精錬の様子を
表現しているのかもしれませんね
想像は膨らむばかりです・・



2016年12月12日月曜日

不思議な符号 青森 善知鳥神社と猿田彦

昨日の続き(参照
猿田彦命といえば、銅鐸と深い関係があります
銅鐸は青森県ではまだ出土していませんが
その青森県と猿田彦はどういう関係だったのでしょうか・・

話がちょっと脱線しますが
この画像の左側の銅鐸に施された流水紋は
隼人紋にも似ています
隼人紋については以前HPで
述べたことがありますので
参照(九段目)下さい

これは兵庫県神戸市から
出土しているものですが
同様の流水紋が見られます

そしてこの流水紋は
この古代ギリシャの壺

これはアフリカ大陸から出土した土器


上の2点は古代ヨーロッパの出土品

これは紀元前1400年頃とされる
ギリシャ・クレタ島の遺跡
ここにも隼人紋と同様の
文様が描かれています
こういったことから、猿田彦命とされる
サルタヒコは隼人族の長だったことも
考えられるのですが
先にリンクしたHPでも紹介しているように
サルタヒコはカルデア人であるという説が
浮上してくるのも
無理からぬことのようにも思えるのです

これはHPでも紹介している
北海道から出土している
縄文時代の土偶ですが
これにも隼人紋と同じものが見られます
ということは、海を隔ててはいますが
そのすぐ南の青森県にも
同様の文化があったとしても
不思議ではないのでは
と、無理に青森県とサルタヒコを
繋ごうとしているのですが
(青森県にある有名な縄文時代の巨大遺跡
三内丸山遺跡から出土している
土偶や土器などには
現在のところ確認されていないようです)
これはまったく無理なことではなく
根拠は充分にあるのです

時代は弥生時代(前期)になりますが
青森県には砂沢遺跡という
水田耕作跡が発見されている
遺跡があるのです
リンクしたページでも説明されているように
不思議なことにこの水田跡は
「弥生時代の水田としては
東日本ではもっと古く
世界史的に見ても
最も北に位置する水田跡」なのです
しかもこの遺跡から出土している土器は
遠賀川式土器なのですね
これには驚かされます
遠賀川式土器と水田耕作は
セットになっているので
青森県の砂沢遺跡はその
典型的な例と言えます
時代は弥生時代前期
(新・時代区分では紀元前8世紀頃)
また弥生時代に出現した銅鐸は
水田耕作とは深い関係があるので
当然、サルタヒコとも繋がっているのです

サルタヒコの第二の本拠地とも言える
滋賀県高島市に鎮座する
水尾(みお)神社で発見された
「水尾(みずのお)大明神本土記」には
「時に天レイ暦五十七穂歳サナエ
苗月サナエの日なり」
と記されていて
それを紹介している松重楊江氏は
「サナエの日」とは銅鐸を鳴らす日の
ことであろうと推察しています

川崎真治氏の説によると
サルタヒコのサルは「米」のことで
タは文字どおり「田」のこととしています
つまり、サルタは
稲田ということになるのです
米のことをシャリと言ったりしますが、
これは元々は、米のことを
ウル語やシュメール語では「シェ」
バビロニア語や古代インド語では「シャ」と
言っていたことに由来するということです
私が今住んでいる丹波篠山は
銅鐸文化圏と思われますが
この地では田植えが終わると
「サナブリ」という祭りが行われます
亀山古墳がある志免の地では
「サナボリ」と言います

以下は棟方志功の装丁による
英語版 能・善知鳥の台本の挿絵入翻訳本




これが戦後間もない
昭和22年に刊行されたことに
驚いてしまいます

これはさらに古く
昭和5年に子供向けの読本として発行された
新訳・平家物語読本 著者:佐藤一英
来年、平家琵琶を製作するので
平家物語を復習中・・

挿絵の作者は記載されていませんが
この絵の鳥が棟方志功風なのが興味深い