2011年10月6日木曜日

気になること・・鹿児島と篠山

9月10日に紹介した、篠山のヤケヤノ坪遺跡に関していろいろと探りたいことがあるので、いま古代史を洗い直しているのですが、ちょっと興味深いことに突き当ったので、忘れないうちに記しておこうと思うのです・・
ヤケヤノ坪遺跡のすぐ近くには諏訪神社があるということも9月10日のブログのコメントで述べましたが、
弥生時代の遺跡と、その数百年後の天平時代に勧請された神社とは何も関係がないということも云えるかもしれませんが、こういったことは以外と古くからの繋がりがあったりするものなのです。
10月1日のブログでは工房近くの佐々婆神社の秋の祭礼を紹介しましたが、リンクした動画で曳かれている山車は船の形をしていて、八幡丸という名が付けられています。ここにも長野県の諏訪大社の御舟祭りとの共通点があります。ということはどちらもルーツは海人(あま)系の民族ということになります。時代は弥生時代とみていいでしょう。海人には宗像(むなかた)系、住吉系、そして安曇(あずみ)系がありますが、長野県には安曇野という地名があるくらいですから、諏訪神社は安曇系です。そして佐々婆神社の山車の一つに八幡丸という名が付けられているということは、この地も安曇系と云えます。
もう一つ、滋賀県の琵琶湖西岸にある高島市には安曇(あど)川という名の川がありますが、やはり安曇系でしょう。この地は猿田彦とつよい繋がりがあり、丹波篠山と同様銅鐸民族です。高島市には白髪神社がありますが、篠山には同じ名の山があるのも何か因縁を感じます。長野県からも銅鐸は出土していますが、諏訪大社といえば祭りで使われる鉄鐸を連想します。また、安曇野は猿田彦と天鈿女(アメノウズメ)を祀る道祖神の発祥の地とされています。因みに篠山の佐々婆神社の祭神には天鈿女神が加わえられています。
それから諏訪大社で行われる御柱大祭はネパールのインドラ・ジャトラという柱立ての祭りとよく似ているという指摘があるように、あきらかにインドの影響を受けていると云えます。このことは丹波篠山にも云えて、以前のブログで紹介したように、篠山の八幡神社に古代インドと同じモチーフの装飾が施されているのは、見過ごすことができない事柄だと思われるのです(参照)。

先に紹介した琵琶湖西岸は近江京が置かれたりもしていますが、その時の主人公である天智天皇の弟とされる天武天皇は、壬申の乱後、協力しなかった隼人を
篠山に追いやったとされています。
なぜ篠山なのかずっと疑問に思っていたのですが、やはりそれ以前から隼人と篠山の繋がりはあったとみていいように思うのです。
工房の近くには日置という地名があります。この地名は隼人の故郷とされる鹿児島県にもあるので、篠山とは何らかの関係があるとは思っていましたが確たるものは掴めていませんでした。ところが先日、中村明蔵氏が著した「隼人の研究」に目を通していて、おやと思うことがあったのです。そこでは古代南九州の豪族について述べられていたのですが、鹿児島県には曽君という豪族がいたとされていたのです。それではっとしたのは、篠山の日置の北隣には曽地(そうじ)と言う地名があるのです。中村氏は「畿内やその周辺部に隼人は移住しているが、曽君が移住した形跡はない」としているのですが、曽地という地名は見過ごすことはできないような気がするのです。
それに加えて興味深いのは、篠山の曽地には古墳群がいくつか確認されていて、そのうちの一つには丹波最大の横穴式石室を持っているものもあるのです。もしこの古墳と隼人最大の豪族とも云われる曽君が何らかの関係があるとしたら、天武朝以前から隼人は丹波篠山と関係があったと云えることになります・・


篠山市曽地にある宝地山古墳から
出土している七鈴鏡(面径16,9cm)
これは倣製鏡と思われます


2011年10月3日月曜日

丹波の月と柿


ここ丹波篠山も
ようやく秋らしくなりました

桐の木と栗の木の間から月を望む 




こちらは栗の木
まだ若い木なので実は付いていません





桐の木の葉が虫に食べられています






柿の実と月・・



2011年10月1日土曜日

丹波篠山 佐々婆神社の秋の祭礼


工房近くの佐々婆神社では
秋祭りが行われています
二日に亘って行われ、初日の今日は宵宮です

夕方になると
明日宮入りをする10基の曳山が
各集落から神社の前に集まってきます
動画をUPしました






2011年9月28日水曜日

スキャロップscallop指板

今日は製作中のラプレヴォット・タイプの1台を
スキャロップ指板に加工しました 参照
途中、四方反り鉋の調整や
新たに届いた寸八鉋の仕込みを行ったので
スキャロップ加工は鉋削りまでとしました
動画を参照ください








出来上がりの様子

2011年9月27日火曜日

丹波霧


丹波篠山(ささやま)の朝
篠山は標高250mほどの高原盆地なので
この季節、朝は濃い霧に包まれます






霧とコスモス





霧に蔽われた朝日とヒガンバナ 




ヒガンバナと黒大豆
黒大豆は10月5日頃から
枝豆として出荷されます

2011年9月26日月曜日

今日の工房 フレット溝切り

今回製作中の二台の特注ラプレヴォット・タイプは
どちらも真鍮の板フレットを入れます

 板フレットの厚みは1mm
鋸はアサリ(刃の左右の曲げ具合)
自分で調整した畦引き鋸を使います
フレットの打ち込み具合は
音に大きな影響を及ぼすので気を遣います

鋸の切り溝の幅は人間がやることですから
常に一定とはなりません
また、硬い黒檀材を切るので鋸のアサリも
だんだん狭くなっていきます
ですから板フレットの厚みも、圧延ロールで
微調整を行い、打ち込む溝に合わせていきます





 溝の深さもできるだけ一定にしたおいた方が
後々の作業が楽なので
溝切り作業は時間を惜しまず、じっくりと取り組みます







作業の息抜きに工房の裏を眺めます
ツユクサとヒガンバナ
そして色付いた柿の実が同時に見られる
というのは珍しい気がします・・



2011年9月20日火曜日

アルコールニスの原料、セラックを薬研で砕く シェラック・ニス


今日から本格的に
ニス塗りを行います


ニス塗りの動画は
参照ください
フレンチ・ポリッシュ仕上は

アルコール・ニスの
レモン・セラックが 
ちょっと足りないようなので
今のうちに
溶かしておこうと思います
これはセラック・レモンの
原料でフレーク状に
なっています 

レモン・セラックは
溶解しにくいので
できるだけ細かく砕きますが
まず日本で古来から
使われてきた
薬研(ヤゲン)
おおまかに砕きます
この最初の砕きは
ヨーロッパでは
布に包んで槌で叩いたり
するようですが
いろいろと試した結果
この薬研が最も具合が
いいのです

 薬研はその字のとおり
本来は漢方薬などを
砕くために考案されたものの
ようですが
これを考え出した人を
尊敬します
因みに、ボタンセラックなど
フレーク状ではなく
厚みがある原料は

次にコーヒーミルでさらに
細かく砕きます
まさかコーヒーミルが
こんなところで
役に立つとは
思いもしませんでした・・
動画をUPしました

砕いたセラック適量を瓶に入れ
3倍ほどの容量のアルコールで溶かします
私は変性エタノールを
使っています

アルコールを入れ
瓶を振って撹拌すると
間もなくセラックは
ゲル状に固まり
瓶の底に沈殿します
瓶を立てたままにしておくと
底で固まったセラックが
溶けにくいので
写真のように斜めに
立て掛けておき
2~3時間おきに瓶を1/4ほどグルリと回転させます
そうすると底に溜まった
ゲル状のセラックが移動し
撹拌され溶けやすくなります
こうすると数日で溶けますが
私は念のため
1週間ほど放置しています

完全に溶けたら
濾し紙で濾過します
これは以前溶かしておいた
レモン・セラックです

セラックの原料は
精製の状態にもよりますが
変質するとアルコールに
溶けなくなります
これまでの経験では
レモン・セラックで5~6年
無色セラック(Shellac sun)だと3年ほどで変質します
ですから私は原料はドイツから少量ずつ取り寄せ
無色セラックは
冷凍保存しています
参考までに輸入先はHAMMERLです


2011年9月19日月曜日

工房の様子 ニス塗りにかかりました


製作中の特注ラプレヴォット・タイプ二台
ニス塗りにかかりました
以下の画像は木地仕上を終えた状態







2011年9月15日木曜日

今日の工房 ブリッジの接着


製作中の特注ラプレヴォット・タイプ二台
ブリッジを膠(ニカワ)で接着しました




2011年9月10日土曜日

篠山ヤケヤノ坪遺跡で弥生時代の鉄斧出土


兵庫県篠山市西岡屋にある
ヤケヤノ坪遺跡と西岡屋遺跡の
現地説明会に足を運びました
 これは今回出土したものの中で最も注目されている、ヤケヤノ坪遺跡で発見された鉄斧の一部とされるものですが、時代は紀元100年頃だということです。
以前述べたように、この頃は北部九州王国(福岡県北部)、出雲王国(島根県)、吉備王国(岡山県)、丹後王国(京都府北部)が各地で同時に勢力を誇っていた時代で、その象徴となるものは鉄器でした。それが古代丹波の南に位置する篠山から出土したことの意義は大きいものと思われます。というのは、一般的に古代丹波は日本海側の丹後も含まれていたとされているのですが、鉄斧が出土した今回の遺跡には播磨系の土器も発見されているのです。ということは、弥生時代後期のこの方形周溝墓に埋葬されていた人物は播磨(兵庫県南部)との関係が強かったという見方もできるわけで、その人物に副葬された鉄斧も播磨からもたらされた可能性があるわけです。

それから、丹後で出土している内行花文鏡や貨泉、
陶塤(とうけん)が篠山ではまだ発見されていないというのも引っかかります。ですから篠山は播磨系だった可能性があることになり、しかもルートは西に進む篠山川沿いではなく、南に下る武庫川沿いだったということになりそうです。篠山川下流に位置する丹波市山南町では丹後系の土器が出土しているので、このあたりは丹後の勢力圏であったことが考えられるのです(参照4段目)。
しかし時代は3世紀頃とされているので、やや無理があるのですが・・。
それからこれも以前に述べたことですが、武庫川を南下するルートは、銅が採掘されていた味間から白髪岳~酒滴神社~三田市を経由して西に進み播磨に至るものです。このことはこれまで三回にわたって述べてきた「不思議な符合 飛騨の位山と芦屋市」とも関係してくることでもあるのです。

播磨系の土器


これらは地元で焼かれたもの
だということです



ヤケヤノ坪遺跡
鉄斧は周溝墓3から出土したということです