検索キーワード「楽只堂」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示
検索キーワード「楽只堂」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示

2019年12月9日月曜日

江戸時代宝永の大地震 そして富士山噴火

江戸時代の徳川将軍家の
側用人sobayoninであった
柳沢吉保yoshiyasuの
公用日記
楽只堂rakushido年録から
宝永四年十月
(将軍は五代目徳川綱吉)の大地震の記録
この宝永大地震は記録されている日本の地震のなかでも
最大級とされている
震源地は和歌山県南部だが
北は青森県から南は
鹿児島県までかなり
大きな揺れで

楽只堂年録では
100ページ近くにわたって
各地の被害状況が
記されている

兵庫県では
日本海側の小浜と
このページのように
明石akashi、赤穂akou、
龍野tatsunoの被害状況が
記されている

Wikipediaから転載
関東から九州にわたって
震度6以上というのは
驚いてしまう

その約1ヶ月後
今度は富士山が噴火

2019年3月3日日曜日

霊芝と鳩杖 楽只堂年録

徳川幕府の側soba用人
柳沢吉保yoshiyasuが記した
公用日記である楽只堂年録の
宝永三年7月23日の記述に
甲州(山梨県)の城内に
霊芝が生えたので、祝いとして
能楽を興行した、とある
たいへん興味深い

マツタケを贈答品として
送っていた、ということも
記録されている

因みに、これは
播州(兵庫県)の
旧家の倉で見つかった
大きな霊芝
傘の直径、高さは
どちらも30cmもある


こちらは
宝永四年、西暦1707年
柳沢吉保が50歳の祝いに
将軍家から贈られた鳩杖

算賀(40歳からの10年ごとの祝い)に鳩杖を贈るのは
鳩はむせずに食べ物を
飲み込むことに
あやかっているらしい
誰が調べたのか・・?

鳩は八幡神社の象徴でもあり
このように双鳩の図とされた
ものをよく見かける

これはルーブル美術館に
展示されている
鳩の工芸品
香炉か・・

別件として
これは、いま作業中の
皇清職貢図の描き足し
まだまだ先は長い
九巻の半分程度


2017年12月10日日曜日

楽只堂年録から保宇木と卯木

八木書店から樂只堂年録の六巻が届く
この巻で興味深いのは、徳川将軍家の側Soba用人であった
柳沢吉保Yoshiyasuが自身の参禅記録を
納める函を作らせた際の注文図
長さ約37cm 、広さ約11cm 、高さ約8cm

覆蓋と内部に倭錦が張られている

解説では、この函は卯木(空木)が使われているとなっているが

本文では「以保宇ノ木ヲ作レル之ヲ」となっていて
この文は「保宇の木を以て之を作る」としか読めない
卯木Utsugiは細枝の灌木で
しかも内部は空洞であり
木釘や楊枝としては使われるが
幅8cm 以上の板はまず取れない
「保宇ノ木」は文字どおり読めばホウノキ
朴の木・ホオノキ以外にあり得ないのではないか・・
ホオノキならば、当日から
刀の鞘などとして使われていて
また、正倉院に収蔵されている
木製品にも使われています


2014年8月22日金曜日

江戸時代初め頃の歴代天皇埋葬地 認識状況


以前紹介した楽只堂年録
興味深い記載がありました
最後の条に
吾国わがくに代々の諸陵、乱世を経て
其所も慥たしかに知る人なく成行き
土民、是を敬ふ(う)事をしらず
樵夫(木こり)・牧豎(ぼくじゅ:牧童)のために
踏けがされぬ(されている)といふ事を
吉保よしやす伝へ聞て、浅ましく悲しき事におもひ
上聞に達して(君主に伝えて)、修理を加へん事を勧め奉る
云々・・とあり
それを機に古墳の調査が行われたようです

吉保が京都の所司に厳命を下しているほどなので
調べる方としては期限中に何とかしなければ
ということもあったりして
無理にこじ付けた箇所もあったかもしれませんね
興味深いところです・・

ザッと目を通してみると、たとえば
崇神天皇は山ノ辺の道に葬る、とされていますが
これは苦しそうですね・・山ノ辺の道といっても長いので・・
崇神天皇は実在しないという説も有力なので
このあたりも興味が湧きます

それよりも何よりも、この天皇の順は
神武天皇が最初に書かれてあるので
二代目→三代目・・と順に書かれてあると思うのですが
この順がそもそも今とはかなり違いますね・・
これはいったいどういうことだろう・・
天智天皇の弟とされる天武天皇が先に書かれていたり・・

現在、仁徳天皇陵などこれまでの通説が覆っていますが
この、江戸時代初め頃に書かれた楽只堂年録の内容が
宮内庁や考古学者がどう思うのか知りたいところであります































2014年8月14日木曜日

早くも丹波霧 台風の影響か・・


以前紹介した楽只堂年録に「ありがたい」を発見!
元禄十年(1697年)は江戸時代初め頃 


楽只堂年録(日記)を書いた柳沢吉保よしやす




これは昨日の朝の様子(工房の近く)ですが
午前7時、早くも丹波霧が発生・・例年になく早い・・
台風で驚いたのか


オニフスベが顔を出していました







こちらは工房裏の様子
甕に植えている木瓜の木の花に蟷螂が遊びに来ていました

2014年8月7日木曜日

ありがとう 有難い 忝い 辱い

「ありがとう」とはいつ頃から言われているのか
ちょっと気になったので
手許の古文をちょっと調べてみました
古語辞典では「有難し」は本来は「めったにない」
「まれである」という意味だが近世(江戸時代以降?)
「ありがたい」という感謝の念を表すようになったと
説明されています
ということは江戸時代までは感謝の念を表す言葉は
「忝いかたじけない」「辱いかたじけない
ということになりますが・・・
まず平安時代中頃とされる源氏物語から
「かたじけなく」


同じく源氏物語から「かたじけなうのう


同じく「かたじけなき」
これらの登場人物の科白せりふを見ると
どれもへりくだった言い方ですね


次は時代がかなり下って松尾芭蕉の手紙から
「忝くかたじけなく
延宝九年は1681年、江戸時代初期


同じく松尾芭蕉の手紙から
「辱くかたじけなく
天和二年は1682年、江戸時代初期


これは柳沢吉保の日記(楽只堂年録
元禄十年(1697年)十一月




元禄十二年(1699年)五月の日記では
「かたじけない」と「有りがたい」の両方が使われています
この頃はその時の気分で使い分けていたのでしょうか・・


これは江戸時代初期~中期
井原西鶴の「世間胸算用」から「有がたき」
刊行されたのは元禄五年(1692年)、舞台は大阪


これは江戸時代後期、文化五年(1808年)に江戸で発行された
版本(読本)「由里稚野居鷹ゆりわか のずえのたか」(参照
から「有がたさ」


これは明治時代
夏目漱石の小説「行人」から「有難うありがとう


幸田露伴の「五重塔」から「有難うござりまする」
昭和2年(1927年)初版発行

広辞苑では「ありがとう(有り難う)」 は
アリガタクの音便、下の「ございます」 「存じます」の略された形
感謝の意をあらわす挨拶語 と説明されています

ということは、露伴の「有難うござりまする」は
本来の使い方となり、漱石の使い方は
いかにも漱石らしい口語体と言えますか・・


2012年2月8日水曜日

セーリスの手紙


1月29日に紹介した
長崎の出島から江戸城に
拝謁に来たオランダ商人のことも記されています
そのことについてもう
少し知りたいと思い
新異国叢書を取り寄せ
今それにザッと目を
通しているのですが
第六巻の「セーリス日本渡航記」にイギリスの東インド会社から
派遣された貿易船隊の
司令官であるジョン・セーリスが
1613年に徳川家康に出した
請願書の写真が
掲載されているのです

これがそうですが
本書の説明では
通詞(つうじ・通訳)によって
書かれたものを
柔らかい鷲ペンで影写したものであろうとされています

以下、現代字に翻訳されたもの

   覚
一 
日本へ今度初而渡海仕候、万商売方之儀御じゆんろに被仰付可被下候事

両御所様へ御用之御物の儀は、御目録を以被召上可被下候事

於日本いきりすふねの荷物、おしかいらうせき不致様に被成可被下候事

いきりすふね大風にあい、日本の内何れのみなとへ着申候共無相違様に被仰付可被下候、何方ニ而も望のみなとニ家をたて売買可仕候間、御屋敷可被下候事

日本ニ而かい申度物御座候は、其商人相対次第かい取り申候様に被仰付可被下候事

一 
日本人といきりすの者けんくわ仕出候は、理非を御せんさく被成理非次第、有体に被仰付可被下候事 

一 
いきりすへ帰国仕度候は、何時ニ而も帰国仕候様に被成可被下候事但帰国仕候時は、立申候家をはうり候て帰申候様に、被成可被下候事

       かぴたん
       しゆわん
       さいりす
       せに良んゆ



一応、読み下しておきます。
確信がもてない箇所は?としておきます。
間違いなどありましたらご指摘願います。

一 
日本へこの度初めて渡海仕(つかまつ)り候(そうろう)、(よろず)商売方の儀(こと)御順路(?)に仰せ付けられ下さるべく候こと。

一 
両御所様へ御用の御物の儀は、御目録をもって召し上げられ下さるべく候こと。

一 
日本に於いてイギリス船の荷物、押し買い狼藉(?)致さずようなされ下さるべく候こと。

一 
イギリス船 大風に遭い、日本の内 何れ(いずれ)の港へ着き申し候とも、相違なきように仰せ付けられ下さるべく候、何方(いずかた)にても望みの港に家を建て、売り買い仕りべく候間、御屋敷下さるべく候こと。 

一 
日本にて買い申したき物御座候は、その商人相対し次第、買い取り申し候ように仰せ付け下さるべく候こと。

日本人とイギリスの者、喧嘩仕り候は(そうらわば)、理非を御詮索なられ、理非次第、有体(ありてい)に仰せ付けられ下さるべく候こと。

一 
イギリスへ帰国仕りたく候は、何時にても帰国仕り候ようになられ下さるべく候こと、但し帰国仕り候ときは、立(建て)申し候家を放り候て帰り申し候ようになられ下さるべく候こと。

2012年1月29日日曜日

楽只堂年録から




徳川五代将軍・綱吉の
側(そば)用人として奉公し
大老まで出世した
柳沢吉保(参照)の公用日記「楽只堂(らくしどう)年録」から刀剣に関する記述を
少し紹介します。楽只堂年録は柳沢文庫所蔵のものを底本とし、
平成二十三年七月廿八日八木書店より翻刻出版されものです。
ここに紹介する日記はその第一巻から引用したもので貞享四年九月(1687年)から
元禄八年十二月(1695年)のものです。
文中の旧字は新字に書き換え、意味が掴みにくい箇所は適宜書き換え、場合によっては
ルビや解説を付けました。従って文責は編集した田中清人にあります。


貞享四年(1687年)九月九日 吉保三十歳
出生の男子(息子の安暉やすあき?安暉は吉里の幼名、七夜の祝なり 中略 
祝とて安忠(祖父)より兵部(安忠が安暉に付けた名)熨斗
(のし・熨斗鮑のこと)をもとらせ、重代の仁王の刀と、安忠
大坂御陣の供奉せし時、指たりし(刀を腰に差すの意)正広の脇指
与ふ。件(くだん)の刀は長さ二尺一寸、無銘にて矢折の傷あり。
元は信俊が鷹野脇指にて、吉保が誕生せし時も守刀にせり。
後、吉保が代に至て、本阿弥の何某に見せぬれば、
代金一枚五両といへる札を付けつ。正広の脇指
長さ一尺四寸一分あり。

元禄元年(1688年)十一月十二日 吉保三十一歳
御前(将軍綱吉の御前)に召され、松平伊賀守忠徳(側用人)
喜多見若狭守重政(側用人)が列にて務むべきの仰を蒙り、
食禄一万石を加え賜り、青江次吉の刀を御手自ら下されて
拝領す。其刀、長さ二尺四寸一分、磨上にて銘なし、
代金十五枚の折紙あり。けふ(今日)南部遠江(とおとうみ)政直も
御側衆より此役に仰付らるれども、席、吉保が下なるべき由
仰事也。同月十五日に、太刀目録にて御礼を申上る。

元禄四年(1691年)二月廿八日 吉保三十四歳
安暉(やすあき?吉保の息子)が袴着なり。刀を与へて祝ふ。

廿九日
黒田豊前守直重が使、新井三郎右衛門、山名信濃守泰豊が使、
有路外記、結納の品々を捧げ来る。
新井三郎右衛門・有路外記に刀一腰宛を与ふ。
結納の使帰りて後、豊前守直重・信濃守泰豊来り見(まみ)ゆ。
直重に引たる刀は、備前の重実、代金十五枚の折紙有。
脇指は三原、三枚五両の札あり。媒妁は中根平十郎正冬
山田十大夫重政なり。泰豊に引たる刀は、和泉守兼定
作にて、代金三枚の札有。脇指は志津の作にて、
代金十五枚の折帋(紙)有。媒妁は詳ならず。

三月廿二日
今日天気よく、吉保が宅に初めて(将軍綱吉が)御成なり。
去比より宅の内に、新たに御殿の経営成就して、
頗る丁寧を尽せり。奥御殿の床に御筆の桜に子連馬の
掛物と立花二瓶、違棚に料紙箱を置く。紅葉の蒔絵なり。
狩野探雪が画る祝の壺といへる巻物、宇治にて茶を拵ゆる
体なり。是も棚に置て直に献上す。御刀掛は黒塗り蒔絵なり。
御講釈の間には、床に寿老人、左に松、右に竹、
何れも靏(ツル)を描ける、狩野洞雲が筆の三幅対を掛けたり。
下に砂の物、棚に見台あり。御装束の間の床には、是も洞雲が
描ける槇(まきの木)の山水の二幅対を掛く。中御殿は西王母、
左右共に龍なり。卓に香炉を乗せたり。
御刀掛は、梨地蒔絵なり。

(この後、柳沢吉保は御礼のため家族を伴って登城、その折の日記)
前略
母・妻・娘などの捧げ物、何れも進物番衆持ち出る。
終りて家臣(吉保の家臣)三人、一人一人太刀目録にて拝謁す。
披露はみな伊予守植昌なり。それより西の御成座鋪(ざしき)
入らせらるる内に、献上物をば進物番衆引く。再び上段に
御出にて御雑煮・御吸物出る。
吉保御相伴にて御盃を下さる。御肴いただき、替への時、
御手自ら御指の御腰の物頂戴す。帯して御礼を申し
御盃を御次に持出る。時に上意ありて、成貞(吉保の家臣の一人)
取りて台に乗せ、御前に捧ぐ。召上げ給ふ時、吉保、来国光の
を献ず。成貞持ち出で披露す。献上の茶壷は
真壺(まつぼ・呂宋(るそん)壺の中で文字・紋様のないもの)御小性衆両人にて
持ち出る。是も披露は成貞なり。
次に御盃を安暉(吉保の息子)に下さる。御肴を頂き、替への時、
御脇指を御手自ら安暉に下され、御盃を返し奉る。再び吉保に
下されて納めぬ。成貞ご挨拶をす。それより北の御成座敷の上
段に御着座なりて、吉保が産母并(ならび)に妻・二人の娘初て
御目見す。安暉が母は月の穢ゆえ御前に出ず。
俊親(安暉の母の弟)を召し、是も御自ら脇指を下さる。


江戸時代の貨幣価値についてはこちらを参照下さい。