2014年8月22日金曜日

江戸時代初め頃の歴代天皇埋葬地 認識状況


以前紹介した楽只堂年録
興味深い記載がありました
最後の条に
吾国わがくに代々の諸陵、乱世を経て
其所も慥たしかに知る人なく成行き
土民、是を敬ふ(う)事をしらず
樵夫(木こり)・牧豎(ぼくじゅ:牧童)のために
踏けがされぬ(されている)といふ事を
吉保よしやす伝へ聞て、浅ましく悲しき事におもひ
上聞に達して(君主に伝えて)、修理を加へん事を勧め奉る
云々・・とあり
それを機に古墳の調査が行われたようです

吉保が京都の所司に厳命を下しているほどなので
調べる方としては期限中に何とかしなければ
ということもあったりして
無理にこじ付けた箇所もあったかもしれませんね
興味深いところです・・

ザッと目を通してみると、たとえば
崇神天皇は山ノ辺の道に葬る、とされていますが
これは苦しそうですね・・山ノ辺の道といっても長いので・・
崇神天皇は実在しないという説も有力なので
このあたりも興味が湧きます

それよりも何よりも、この天皇の順は
神武天皇が最初に書かれてあるので
二代目→三代目・・と順に書かれてあると思うのですが
この順がそもそも今とはかなり違いますね・・
これはいったいどういうことだろう・・
天智天皇の弟とされる天武天皇が先に書かれていたり・・

現在、仁徳天皇陵などこれまでの通説が覆っていますが
この、江戸時代初め頃に書かれた楽只堂年録の内容が
宮内庁や考古学者がどう思うのか知りたいところであります































0 件のコメント: