2010年5月5日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その8 

古代の日本列島周辺は石器時代から海上交通が盛んで、それに伴い様々な民族が日本に渡って来ていることが明らかとなっています。そのことを前提として、弥生時代の渡来主力民族を分類することもなされているようですが、これには多くの困難を伴い、私は誤解を受けることの方が多いような気がしています。
たとえば、兵庫県三田(さんだ)市の九鬼(くき)家の近くにある三輪神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)となっていますが、4月16日に述べたように、この神社は平安時代に大和から分祀されたものとされています。大己貴命には大物主命(おおもぬしのみこと)という別名がありますが、大和の大神(おおみわ)神社ではそれぞれ別に祀られていて、祭祀の時期も違うようなので、やはり別の神とした方が無難だと思われます。
また、大物主命はニギハヤヒのことでもあるとされていますが、鹿島曻説では、これは聖徳太子による系図偽造としています。このように、一つの事柄だけでも混乱・錯綜している状態です。それでも、九鬼(くかみ)文書の九鬼家の祖とされている天兒屋根命(あまのこやねのみこと)は少し追求する必要があるので、ちょっと首を差し入れようと思います。

九鬼文書の研究家は、九鬼家の祖はニギハヤヒであるとしているようですが、天兒屋根命は中臣氏と藤原氏の祖ともされています。そうすると、ニギハヤヒやサルタヒコを抹殺した中臣氏や藤原氏の祖がニギハヤヒでは矛盾することになります。
天兒屋根命は九州・壱岐の卜部(うらべ)の出自とされていて、ニギハヤヒが九州から東遷する際の従者の一人ということなのですが、この関係が、時代が下ると入れ代わります。645年の大化の改新がそうですが、この時に、それまで従の立場だった中臣氏が主役になります。
兵庫県三田市にある三輪神社は、同地の九鬼家の信仰が厚かったということですが、ニギハヤヒを祀る三輪神社を天兒屋根命を祖とする九鬼家が信仰していたということに私は興味を覚えるのです。先に述べたように、ニギハヤヒは卑弥呼と同じように、古事記・日本書紀では抹殺されています。それは、出雲がヤマトの国により討たれ国譲りをしたことと重なります。
これは、多くの歴史家が指摘しているように、古事記・日本書紀の編纂は、時の権力者(藤原氏)が、自分を正当化するために、それ以前の歴史(ヒミコやニギハヤヒ、あるいはサルタヒコ)を抹殺するためのものであった、ということの裏付けとなるのではないでしょうか。
また、出雲は「古代の製鉄シリーズ」で紹介した川崎真治説によると、元々は亀をトーテムとした民族が支配していたが、そこに白鳥をトーテムとした民族が入り込んだということになっています。そのことは「古代の製鉄」のテーマでもあったのですが、出雲に製鉄技術を持ちこんだのが播磨(はりま・兵庫県南部)の千種(ちくさ)岩野邊(いわなべ)から白鷺となって出雲に飛んでいった製鉄の神である金屋子神で、それは白鳥をトーテムとした民族となるわけです(参照)。このことは川崎真治説を裏付けることになるのです。
また、出雲が亀トーテムの民族による支配を受けていたことは、出雲の神社の紋に亀甲紋が多く存在することでも納得できます。倭健命(日本健命・ヤマトタケルノミコト)は東征の途中、出雲を平定しますが、その倭健命が死んだときに白鳥となって 飛んでいったという伝承は、白鳥トーテムの民族による亀トーテム民族の征服の裏付けでもあるわけです。
それに因んで、応神天皇卵生神話説がありますが、これは応神天皇は白鳥を母とするというものです。もちろん本当に白鳥から生まれたのではなく、これは明らかに応神天皇は白鳥をトーテムとする民族ということになります。ということは応神天皇の母である神功皇后もそうなり、また神功皇后の祖先とされる天日槍(あめのひぼこ)もそうだということになります。




2010年5月3日月曜日

器とくらしの道具 ハクトヤ

工房から5kmほど西に行くと篠山の中心街になり
そこに河原町商家群という古い町並みが保存された区域があります
河原町通りから商家群を東に進んだところに
一目でオーナーのセンスのすばらしさが分かる
骨董店が目にとまったのです
これまで気が付かなかったのですが
オーナーの話によると、今年の4月10日に
オープンしたばかりだということでした


店の名は「ハクトヤ」写真はオーナーの一瀬さん

品揃えは洋の東西を問わず様々ですが
オーナーの統一されたセンスで
すばらしい空間でした




店の入り口

立派な古民家です


向かって左側の間口には
通りから見えるように
商品が並べられています
なぜか真新しい譜面台まで・・


店に入ってすぐの一画
この空間だけでも楽しいものが
ズラリとあり、どれから見ていいのか
目移りがしてしまいます


左に目を移すと、またまた・・


ここは玄関から土間を奥に進んだところです


篠山の旧家は、京都のように奥が深いのです


並べられたものを、じっくりと腰を落ち着けて
眺められるのは嬉しいかぎりであります






奥には庭が見えます
しばらく店の中にいると
自分の家にいるような錯覚に陥るのです
安心して、ドカっと腰をおろして・・
時の経つのをついつい忘れてしまうのです

2010年4月26日月曜日

春の山歩き

今日は近所の山を散策しました
製作中の平家琵琶がほぼ出来上がり
いま、撥面の絵柄を考えているところです
天気がいいので気分転換といったところですか・・

山桜が満開でありました
この木は香りもすばらしい
爽やかな風に乗って、山道を登っている
途中でも、ほんのりと香ってくるほどでした
本居宣長の
大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花
という歌の一節、「朝日に匂う」とは
まさにこのことだな、と感じ入ってしまいました

こちらが本歌ですが・・
志き嶋の やま登許々路を 人登ハ々
朝日尓々ほふ 山佐久ら花 


山道の途中、落葉樹の若葉がようやく
芽吹き始めた中で、ひときわ目立つのが
この山ツツジであります
葉よりも先に花を咲かせて・・
よほど花に自信があるのでしょう

山道を進んでいると
途中、パキパキと音がして
それに続き、小石を林の中に投げ入れたような
カサカサとした音が谷の底の方へ向っていきます
何の音だ・・?





これが藤の実と、中の種です
豆のサヤのような殻が一気に捩(よじ)れて
種を飛ばしているようです
サヤはカチカチに乾燥していて
曲げようとするとパキパキと折れてしまうほどです
この音だったのですね・・
よくよく見てみると
藤の実が爆(は)ぜている音でした
藤の実は蔓に付いたまま
種を飛ばすということは聞いたことがありますが
それを目撃したのは初めてです
この時期に飛ばすのですね・・
そういえば早春に山歩きをするのは
久しぶりで、それに藤の実が種を飛ばすのは
何か条件が整のった時なのでしょうから
そうそうお目にかかることは
できないのかもしれません


こちらはその他の収穫ですね・・
こっちの方の収穫が多いのは
いつものことで・・・

2010年4月25日日曜日

碧玉と九鬼水軍 その7

九鬼(くかみ)文書では「スサノオの命(みこと)」が重要視されていて、スサノオと関連のある蘇民将来説話も記されています。ということは、結論から言えば、九鬼家のルーツはインドにあるということになります。
ここ篠山の神社にもインドの影響を見ることができます(参照)。
さて、スサノオは牛頭天王(ごずてんのう)とも云いますが、祇園祭りで有名な京都八坂神社の主祭神もスサノオで、この祭りはインドから伝わったものとされていることは確実のようです。また、その大元は古代イスラエルのシオン祭にあるという説もあります。それを裏付けるように、ユダヤ民族の象徴であるダビデの星✡は伊勢神宮の灯篭などにも刻まれています(参照)が、伊勢地方は蘇民将来の行事が盛んな地域でもあります。また、この地方の海女さんは、近年まで✡印を刺繍した手ぬぐいを頭に巻いたりしていたということです。
蘇民将来は日本だけではなく他の国にもあり、鹿島曻氏の調べによると、文献に見られるものとして旧約聖書の「出エジプト記」、「ヨシュア記」 、朝鮮半島の「桓檀古記」があり、そして日本では「備後国風土記」、「公事根源」、「九鬼文書」があるということです。
九鬼文書に蘇民将来説話が記されていることに、九鬼文書の研究者である三浦一郎氏や吾郷清彦氏も注目をしていますが、とくに日本・ユダヤ同祖論者の三浦氏は研究書で多くの紙面を割いています。
考えてみれば、日本神道の祖とされる天照大神が祀られている伊勢神宮がある地で、外来の文化である蘇民将来の行事が行われているというのは矛盾しているといえば矛盾しているのですが、古事記・日本書紀ではスサノオは天照大神の弟となっているので、もしそれが事実であるとすれば、天照大神も外来の神、あるいは人物ということになります。因みに九鬼文書では天照大神はスサノオの皇女ということになっています。
話を戻しますが、九鬼文書は手許にあるので、ちょっと調べました。蘇民将来説話に出てくる目印は✡、殺す者はスサノオ、殺された者は九鬼一族以外の者、助かった者は九鬼一族 となっています。
これが出エジプト記では、目印は戸口に塗った血、殺す者はヤハウェ、殺された者はエジプト人、助かった者はユダヤ人となっていて、
ヨシュア記では、目印は赤い帯、殺す者はユダヤ人、殺された者はエリコの住民、助かった者はユダヤ人を助けた遊女の一族となっています。
桓檀古記では、目印は不明、殺す者は牛角神キリコエアケ、殺された者は契丹民族の敵、助かった者は契丹民族。
備後国風土記では、目印は茅(ちがや)の輪、殺す者は武頭神(むとうしん)、殺された者は巨旦将来(こたんしょうらい)一族、助かった者は蘇民将来一族。
公事根源では、目印は茅の輪、殺す者は武頭天神、殺された者は蘇民将来一族以外、助かった者は蘇民将来一族、となっています。
蘇民将来については、こちらのHPでも以前少し述べました(参照・五段目)。

さて、これは九鬼家が別当をしていたとされる
和歌山県の熊野三山の一つ
熊野那智大社の社殿です
屋根に付いている角のようなものは
千木というものですが
これは牛の角を表しているということです

講談社刊 森田勇造著
「倭人の源流を求めて」から部分転載

そしてこれは千木のルーツとされているものですが
インドの西北部に位置するナガ高知にある
チャカサン族のメスルミ村の様子です

東南アジア、タイの少数民族
アカ族の村でも同様のものがありますが
千木の形状は日本のものに
より近いものとなっています(参照
アカ族の集落には日本の鳥居の
ルーツとされるものもあります
アカ族が住んでいる一帯は
中国雲南省を含め
他に、餅やうどん、箸に下駄まであるのです
この地域が日本のルーツとされる所以であります

このことは、HPの「日本の歴史について」で
述べているように、弥生時代に日本に渡来した
民族の一部に、インドから東南アジア経由で
やって来た民族がいたということの
裏付けになるのではないでしょうか
また、その大元はメソポタミアなど古代西アジア
にあるとも言えるのです

2010年4月21日水曜日

碧玉と九鬼水軍 その6 

前回述べたように、平清盛により天皇家が京都から福原(兵庫県神戸市)に遷(うつ)された所とされる地で、三つ巴紋の軒瓦が出土したのは何か暗示的なものを感じます。左三つ巴紋の九鬼家は平安時代から熊野別当で、また
熊野三山の検校も兼ねていたとされていますが(参照)、学会筋の研究書などではそのことに全く触れられていません。何故でしょうか・・。
そのことはひとまず置いておくとして、平家が滅んだ壇ノ浦の合戦で、優れた水軍でもあった平家が海上戦で源氏に敗れたのは、源氏方に熊野水軍が付いていたからだという説があります。
熊野水軍とは九鬼水軍のことで、源平盛衰記に目を通してみると、公家をはじめ源氏も平家も熊野に参詣していますが、熊野別当であった九鬼家に取り入ったのは源義経だったようです。
源氏と平家はもともと同じ一族だったということも言われていますが、源氏も平家も八幡神を信仰していたのも、そのことを裏付けることなのかもしれません。
源氏の八幡信仰では清和源氏がよく知られていますが、清和源氏発祥の地は、ここ丹波篠山から南東30kmほどのところの川西市にある多田神社とされています。
清和天皇のひ孫にあたる源満仲が、京都を離れてこの地で武士団を形成したということですが、その目的は資金源の確保にあったのだと思います。
多田には金(銀)山があるからです。古代に京都の太秦(うずまさ)から
秦氏(はたうじ)の一部がこの一帯に居を移したのもそれが目的だったのだと
思われます。
当時は金・銀よりも銅の方が目的だったのかもしれませんが・・




平家の落人伝説が残る四国・徳島県の祖谷山
に伝えられている平家の旗(
参照
八幡大菩薩と書かれています